表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
120/204

第25章 第1話:休む授業――空白になった出席簿


 紬は、校門の前で立ち止まった。


 朝の中学校は、音が多い。


 自転車のブレーキ音。昇降口へ向かう足音。友だちを呼ぶ声。誰かの笑い声。校舎の上から響くチャイム前の予鈴。


 風は少し冷たく、制服の袖口から入り込んでくる。


 紬は、鞄の肩紐を握りしめた。


 地域学習センターなら、少しずつ行けるようになった。


 外のベンチから始めた。


 受付まで行った。


 見るだけの日もあった。


 申込書を一緒に読んだ。


 窓際の席に座れる日も増えた。


 けれど、学校は違った。


 校門をくぐるだけで、体の奥が固くなる。


 ここには、出席簿がある。


 席がある。


 クラスがある。


 休んだ日を数える人がいる。


 階段の上には、自分が入れなくなった教室がある。


「紬さん」


 後ろから声がした。


 振り返ると、養護教諭の佐伯先生が立っていた。


 白衣ではなく、薄いカーディガンを羽織っている。手には小さなファイルを持っていた。


「おはようございます」


「……おはようございます」


「ここまで来られましたね」


 佐伯先生は、そう言った。


 教室へ行こうとも、頑張ろうとも言わなかった。


 紬は、小さく頷いた。


「はい」


「今日は、別室まで行ってみますか。それとも、保健室で少し休みますか」


 紬は、校舎を見た。


 昇降口の中へ、生徒たちが吸い込まれていく。


 上履きの音。


 話し声。


 明るい朝。


 その全部が、遠くて近い。


「別室までなら」


「はい」


 佐伯先生は、紬の半歩前を歩いた。


 急がない速さだった。


 昇降口で靴を履き替える。


 下駄箱の匂いと、床のワックスの匂いが混じっている。


 紬の靴箱には、久しぶりに上履きが入っていた。


 白い上履きは、少し硬い。


 足を入れると、自分が学校に戻ってきたことが急に現実になった。


 別室登校スペースは、一階の端にあった。


 もとは少人数教室だった部屋だ。


 窓際に机が三つ並び、棚にはプリントや本が置かれている。小さなホワイトボードには、今日の予定が書かれていた。


『来た時間を書く』

『できることを選ぶ』

『休む』

『帰る前に次の一歩を決める』


 紬は、入口で立ち止まった。


 教室ではない。


 でも、学校の中だ。


 佐伯先生は扉を開けたまま、先に入らなかった。


「ここも入口の一つです」


 その言葉で、紬は一歩だけ中へ入った。


 机の上には、ノートと鉛筆が置かれている。


 窓の外には中庭が見えた。花壇の土が少し湿っていて、朝の光を受けている。


 紬は、椅子に座った。


 座れた。


 それだけで、体の力が少し抜けた。


 しばらくして、担任の井沢先生が別室へ来た。


 紬は、少し身構えた。


 井沢先生は、手に出席簿を持っていた。


 紬の視線が、そこへ吸い寄せられる。


 出席簿。


 厚い表紙。


 中には、日付と名前と、出欠を示す記号が並んでいる。


 紬の欄には、欠席の印が続いているはずだった。


「紬さん、おはよう」


「おはようございます」


「来られてよかったです」


 井沢先生は、笑顔で言った。


 悪気はない。


 心からそう思ってくれているのだとわかる。


 でも、出席簿を見た瞬間、紬の胸はざわついた。


 来られなかった日。


 空白のように並ぶ印。


 その一つひとつが、自分の遅れに見えた。


 授業を受けなかった日。


 友だちと笑わなかった日。


 給食を食べなかった日。


 教室にいなかった日。


 全部、なくなってしまった日。


 井沢先生は言った。


「今日は、無理に教室へ行かなくて大丈夫です。ここで一時間過ごせたら、それだけで十分です」


「はい」


 紬は返事をした。


 大丈夫です、と言わなかっただけ、少し進歩かもしれない。


 けれど、出席簿から目が離れなかった。


 井沢先生がそれに気づいた。


「出席簿、気になりますか」


 紬は、迷ってから頷いた。


「はい」


 井沢先生は、少し困ったように表紙を閉じた。


「見ない方がいいですね」


「違います」


 自分でも驚くほど、早く声が出た。


 井沢先生が顔を上げる。


 紬は、膝の上で手を握った。


「見ない方がいいんじゃなくて……見えると、苦しくなります」


「はい」


「でも、見えないと、もっと怖いです」


 佐伯先生が、静かに椅子を引いた。


「紬さん」


「はい」


「どんなふうに怖いですか」


 紬は、出席簿を見た。


 厚い表紙の向こうに、自分のいない日が並んでいる。


「先生、休んだ日は、全部なくなった日なんですか」


 言葉にすると、胸の奥が痛くなった。


 ずっと怖かったことだった。


 休んでいた間、自分は何もしていなかったのか。


 学びから外れていたのか。


 クラスの時間から消えていたのか。


 戻ったとしても、その空白は埋まらないのではないか。


 別室の扉が、軽くノックされた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理が立っていた。


 今日は、学校復帰支援と別室登校の学習支援で来ている先生だった。


 灯理は、紬の問いを聞いていた。


 部屋に入る前に、紬に尋ねる。


「入ってもいいですか」


 紬は頷いた。


 灯理は、少し離れた机に座った。


 そして、出席簿を見ずに、紬を見た。


「紬さん」


「はい」


「休んだ日は、全部なくなった日なのか。大切な問いですね」


 紬は、喉の奥が熱くなるのを感じた。


 大切な問い。


 欠席の言い訳ではなく、問いとして受け取ってもらえた。


 灯理は、静かに言った。


「うん。では、休んだ時間は、学びから外れた空白なのでしょうか」


 別室の中が、少し静かになった。


 廊下では、誰かがプリントを運ぶ足音がしている。


 紬は、窓の外を見た。


 休んだ時間。


 朝、起きられなかった日。


 制服を見て泣きそうになった日。


 ベッドから出られなかった日。


 母と何も話せなかった日。


 地域学習センターの外のベンチに座った日。


 受付まで行って帰った日。


 申込書を読まずに帰った日。


 五分だけ座れた日。


 その時間は、全部空白だったのか。


 灯理は、鞄から大きな紙を取り出した。


 中央に、こう書かれている。


『休んだ時間の地図』


 その周りには、いくつかの欄があった。


『休んだことで守られたもの』

『休んでいる間にできた小さなこと』

『まだ怖い場所』

『行ける場所』

『戻る順番』

『教室以外の入口』

『戻れなかった日の扱い』

『もう大丈夫?への返事』


 井沢先生が、紙を見つめた。


「欠席日数ではなく、時間の中身を見るんですね」


 灯理は頷いた。


「はい。欠席の記録も必要です。でも、それだけでは見えないものがあります」


 紬は、鉛筆を持った。


 最初の欄。


『休んだことで守られたもの』


 難しかった。


 休んだことで失ったものなら、すぐに思いつく。


 授業。


 友だちとの時間。


 給食。


 クラスの話題。


 でも、守られたもの。


 紬は、しばらく考えた。


 そして、小さく書いた。


『朝、無理に教室へ行って壊れること』

『人の視線で動けなくなること』

『泣くのを我慢し続けること』

『大丈夫なふりをすること』

『全部が嫌いになること』


 書いてから、手が止まった。


 休んだことで守られたもの。


 そんなふうに考えたことはなかった。


 次に、『休んでいる間にできた小さなこと』。


 紬は書いた。


『ベッドから起きた』

『母と朝ごはんを食べた日がある』

『カウンセラーと少し話した』

『地域学習センターの前まで行った』

『外のベンチに座った』

『受付まで行った』

『見るだけカードを選んだ』

『窓際の席に座った』

『学校の門まで来た』

『今日、別室に入った』


 書きながら、紬は少し驚いた。


 何もしていなかったわけではなかった。


 教室にはいなかった。


 でも、毎日が真っ白だったわけではない。


 怖い場所の前で止まり、少し戻り、また近づく。


 その繰り返しをしていた。


 佐伯先生は、その付箋を見て言った。


「紬さんは、休んでいる間にも入口を探していたんですね」


 紬は、返事ができなかった。


 そう言われると、目の奥が熱くなった。


 井沢先生は、出席簿を机に置いた。


「私は、欠席が続いていることばかり見ていました」


 先生の声は、少し低かった。


「もちろん、記録として必要です。でも、その間に紬さんが何を守って、どこまで来ていたのかを、見ていませんでした」


 紬は、先生を見た。


 井沢先生は、出席簿の表紙に手を置いている。


 責めているわけではなかった。


 先生も、どう見ればいいのかわからなかったのだと思った。


 次に、『まだ怖い場所』。


 紬は書いた。


『教室の入口』

『朝の昇降口』

『みんながいる廊下』

『給食』

『先生に急に話しかけられること』

『クラスで注目されること』

『いつ戻るの?と聞かれること』

『もう大丈夫?と聞かれること』


 最後の一つを書いた時、手が止まった。


 もう大丈夫?


 悪い言葉ではない。


 心配してくれている。


 でも、紬には重かった。


 もう、という言葉が、急がせる。


 大丈夫、と答えなければならない気がする。


 大丈夫じゃないと言ったら、がっかりされる気がする。


 灯理は、その付箋を見て言った。


「では、その言葉への返事も作りましょう」


 新しい小さなカードが並べられた。


『今日はここまでです』

『まだ練習中です』

『大丈夫な時間もあります』

『今は答えにくいです』

『少しずつ戻っています』

『教室はまだ難しいです』

『別室なら来られます』

『聞いてくれてありがとう。でも急がないでほしいです』


 紬は、その中から一枚を選んだ。


『少しずつ戻っています』


 もう大丈夫ではない。


 全然だめでもない。


 少しずつ戻っている。


 今の自分に一番近かった。


 昼休み、別室の扉がノックされた。


 井沢先生が顔を出す。


「紬さん、遥さんがプリントを届けに来ています。会っても大丈夫ですか」


 紬は、少し緊張した。


 遥。


 第24章で保健室の「大丈夫カード」を使っていた生徒だ。


 同じクラスではないが、学校の中で何度か顔を見たことがある。


 紬は、返事カードを見た。


『今日はここまでです』

『少しなら会えます』


 指が迷う。


 灯理は言った。


「会わないことも、会う練習の一部です」


 その言葉で、紬は少し息ができた。


「少しなら」


 井沢先生が頷き、遥を中へ招いた。


 遥は、扉のところで立ち止まった。


 近づきすぎない。


 それだけで、紬は少し安心した。


「これ、今日のプリント」


「ありがとう」


「先生が、無理に全部やらなくていいって」


 遥は、机の上にプリントを置いた。


 その横に、小さなカードも置く。


『もう大丈夫?と聞かれた時の返事』


 紬は、それを見た。


 遥が少し照れたように言った。


「私も、前に『大丈夫』しか言えなかったから」


「うん」


「大丈夫じゃないかもしれない、って言ってもいいって教えてもらった」


 紬は、その言葉を聞いて頷いた。


 遥は続けた。


「だから、紬さんにも、すぐ大丈夫って言わなくていいと思って」


 廊下から、昼休みのざわめきが聞こえる。


 遥は、余計な励ましをしなかった。


 「早く戻ってきて」とも、「みんな待ってるよ」とも言わなかった。


 ただ、プリントとカードを置いた。


 それが、紬にはありがたかった。


「ありがとう」


 遥は、小さく笑った。


「また、渡すものがあったら来てもいい?」


 紬は、少し考えてから答えた。


「ノックして、聞いてくれたら」


「わかった」


 遥が帰った後、紬はカードを見つめた。


 誰かと会えた。


 少しだけ。


 それも、今日の地図に入れていいのだろうか。


 灯理は、紬の手元を見て言った。


「書いてみますか」


 紬は、『休んでいる間にできた小さなこと』の下に、新しく書いた。


『遥さんからプリントを受け取った』


 小さな一行だった。


 でも、紬には大きかった。


 放課後、紬は佐伯先生、井沢先生、灯理と一緒に「戻る順番」を作った。


 模造紙には、学校の簡単な地図が描かれている。


 校門。


 昇降口。


 保健室。


 別室。


 図書室前。


 職員室前。


 教室の階段。


 教室の入口。


 教室の後ろの席。


 自分の席。


 給食。


 掃除。


 五時間目だけ。


 一日。


 紬は、その地図を見て、少し怖くなった。


 戻る場所がたくさんある。


 でも、灯理が言った。


「全部を一度に進む地図ではありません。行ける場所を見つける地図です」


 井沢先生が付箋を出した。


『今行ける』

『練習中』

『まだ怖い』

『いつか考える』


 紬は、校門に『今行ける』を貼った。


 昇降口には、少し迷って『練習中』。


 保健室には『今行ける』。


 別室にも『今行ける』。


 図書室前には『練習中』。


 教室の階段には『まだ怖い』。


 教室の入口にも『まだ怖い』。


 自分の席には『いつか考える』。


 給食には『まだ怖い』。


 掃除には『いつか考える』。


 それを見て、紬は少し息を吐いた。


 全部が「無理」ではなかった。


 行ける場所がある。


 練習中の場所がある。


 まだ怖い場所がある。


 いつか考える場所がある。


 ひとつずつ違っていい。


 井沢先生は言った。


「では、今週は別室に来ることを目標にしましょう。教室へ行くかどうかは、毎朝決めなくていいです」


 紬は、驚いて顔を上げた。


「決めなくていいんですか」


「はい。毎朝、教室へ行けるかどうかを考えるだけで疲れるなら、今週は別室を入口にします」


 佐伯先生も頷いた。


「保健室へ寄ってからでもいいです」


 灯理は、地図の端にもう一つ欄を作った。


『戻れなかった日の扱い』


 紬は、そこに書いた。


『失敗にしない』

『次の日また校門からでいい』

『別室に行けなくても保健室でいい』

『休んだら地図から消えるわけではない』

『戻る順番を変えてもいい』


 その言葉を書いているうちに、紬の肩が少し下がった。


 戻れなかった日があっても、また最初からではない。


 道は消えない。


 翌日、紬は校門まで来た。


 でも、昇降口の前で動けなくなった。


 朝の人の波が多かった。


 誰かが笑いながら走っていく。


 知っている顔が見えた気がした。


 胸が苦しくなった。


 佐伯先生がそばに来た。


「今日は、どうしましょう」


 紬は、返事カードを握った。


『今日はここまでです』


 それを佐伯先生に見せた。


 佐伯先生は、すぐに頷いた。


「わかりました。校門まで来られましたね」


 紬は、泣きそうになった。


「別室、行けませんでした」


「はい」


「昨日より、戻ってないです」


 佐伯先生は、首を横に振った。


「昨日と同じ道を、毎日同じように歩けるとは限りません」


 灯理も、少し離れた場所で見守っていた。


「地図に書き足しましょうか」


 紬は、校門の横のベンチに座った。


 小さな紙に書く。


『今日は校門まで』

『人が多い昇降口は難しかった』

『帰った』

『でも、校門までの道は消えなかった』


 その紙は、別室の地図に貼られた。


 欠席でも、早退でも、登校できなかった日でも、地図から消えない。


 その考え方に、紬は少しずつ慣れていった。


 週の終わり、紬は放課後の教室前まで行った。


 授業は終わっていて、生徒たちはほとんど帰っている。


 廊下には、夕方の光が長く伸びていた。


 教室の中には、机と椅子が静かに並んでいる。


 黒板には、今日の日直の字が残っていた。


 紬の席もあった。


 窓際から二列目。


 机の横には、誰かが置いてくれたプリントの束。


 席がある。


 そのことが、嬉しくも怖くもあった。


 井沢先生は、教室の扉の外で止まった。


「入らなくてもいいです」


 紬は頷いた。


 扉の前に立つ。


 教室の中へは入らない。


 ただ、見る。


 それだけにした。


 胸がざわざわする。


 でも、前ほど息が詰まらない。


 遥が遠くの廊下から見て、軽く手を振った。


 紬は、小さく手を振り返した。


 その日は、教室に入らなかった。


 けれど、別室ノートに書いた。


『放課後の教室入口まで行った』

『入らなかった』

『でも、席を見た』

『今日はそれで帰った』


 その下に、灯理が小さく問いを書いた。


『それは空白でしたか』


 紬は、鉛筆を持ったまま、しばらく考えた。


 空白ではない。


 まだ教室に戻ったとは言えない。


 でも、戻る道の一部だった。


 数日後、別室の壁には、紬の「来られた場所の地図」が貼られた。


 校門。


 昇降口。


 保健室。


 別室。


 図書室前。


 放課後の教室入口。


 遥からプリントを受け取った日。


 校門までで帰った日。


 別室で一時間過ごした日。


 教室の席を見た日。


 そこには、出席簿とは違う記録が並んでいた。


 欠席の印だけでは見えない、紬の時間だった。


 井沢先生は、その地図を見て言った。


「出席簿も必要です。でも、これも必要ですね」


 佐伯先生が頷く。


「学校に来る道は、一つではありません」


 紬は、別室ノートを開いた。


 今日の欄に、ゆっくり書いた。


『休んだ日は、消えた日じゃなかった。壊れないために止まった日だった』


 書いた文字を見て、胸の奥が静かに揺れた。


 休んだことを、すぐに好きにはなれない。


 欠席の印を見れば、まだ苦しい。


 遅れた授業もある。


 友だちとの話題もわからない。


 教室の入口はまだ怖い。


 けれど、休んだ日を全部消えた日だと思わなくてもいい。


 あの日々は、自分が壊れないために止まっていた時間だった。


 止まっている間も、入口を探していた。


 外のベンチ。


 受付。


 窓際の席。


 校門。


 保健室。


 別室。


 教室の入口。


 ひとつずつ、線はつながっている。


 夕方、灯理は中学校を出た。


 校舎の窓には、別室の明かりがまだ灯っていた。中庭の花壇には、薄い夕日が残っている。校門の近くを通ると、朝、紬が立ち止まっていた場所に、長い影が伸びていた。


 井沢先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、休んだ時間の地図を一緒に見せていただきました」


 井沢先生は、手に出席簿を持っていた。


「私は、復帰という言葉を使うたびに、教室へ戻ることを思い浮かべていました」


「はい」


「でも、戻る場所は教室だけではない。戻る順番も、一人ひとり違うのですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「出席簿の空白だけを見るのではなく、その間に本人がどこで止まり、何を守り、どこまで来ていたのかを見られるようにしたいです」


 佐伯先生も、保健室から出てきた。


「返事カードも、戻り方カードも、同じですね。全部を言葉にできない時に、選べるものがあるだけで違う」


 灯理は、静かに頷いた。


 休むことを学ぶとは、遅れを数えることだけではない。


 欠席日数。


 未提出のプリント。


 受けられなかった授業。


 空いた席。


 それらは、確かに記録として残る。


 けれど、その印だけでは見えないものがある。


 休んだことで守られたもの。


 休んでいる間にできた小さなこと。


 まだ怖い場所。


 行ける場所。


 戻る順番。


 教室以外の入口。


 戻れなかった日の扱い。


 もう大丈夫、と聞かれた時の返事。


 休んだ時間は、学びの外に落ちた空白ではない。


 壊れないために止まった時間であり、別の入口を探していた時間でもある。


 だから、戻る時も急がない。


 校門まで。


 昇降口まで。


 保健室まで。


 別室まで。


 放課後の教室入口まで。


 来られなかった日も、戻れなかった日も、地図から消さない。


 灯理は、夕暮れの校舎を振り返った。


 別室のノートには、紬の字で一文が残っている。


 休んだ日は、消えた日じゃなかった。壊れないために止まった日だった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ