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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第24章 第5話:大丈夫の授業――保健室でほどけた返事


 遥は、保健室の扉を三回見てから、ようやくノックした。


 こん、こん。


 小さな音だった。


 廊下の向こうでは、三時間目の授業が始まっている。教室から漏れる先生の声と、チョークが黒板をこする音。遠くで椅子を引く音。窓の外では、風に揺れた木の葉がこすれ合っていた。


「どうぞ」


 中から、佐伯先生の声がした。


 遥は、扉を少しだけ開けた。


 保健室には、消毒液の匂いと、洗いたてのシーツの匂いがあった。窓際の白いカーテンが、風でゆっくり揺れている。壁には身長計と視力検査表。机の上には体温計、絆創膏、記録用紙。奥のベッドは、白いカーテンで半分だけ仕切られていた。


 佐伯先生が顔を上げる。


「遥さん、どうしましたか」


「少し、頭が痛いです」


 遥は、いつも通りの声で言ったつもりだった。


 佐伯先生は、椅子を指した。


「座ってください」


「はい」


 椅子に座ると、体が思ったより重いことに気づいた。


 頭痛は、ひどいわけではない。


 熱もたぶんない。


 でも、こめかみのあたりがじんわり痛く、首の後ろが固い。手の先は少し冷たい。


 佐伯先生は体温計を渡した。


「最近、何度か来ていますね」


「そうですか」


「ええ。頭痛、腹痛、少し気持ち悪い、眠い。どれも大きな怪我や発熱ではないけれど」


 遥は、体温計を脇に挟んだ。


 佐伯先生の声は優しい。


 責めているわけではない。


 それでも、遥は少し身構えた。


 何か聞かれる。


 答えなければならない。


 うまく言えない。


 だから、いつもの言葉を用意する。


 ピピ、と体温計が鳴った。


「三十六度六分。熱はありませんね」


「はい」


「少し休みますか」


「大丈夫です」


 言ってから、遥は自分の声を聞いた。


 大丈夫。


 いつもの返事。


 口にすると、そこで話が終わる。


 先生も、友だちも、家族も、それ以上聞かなくなる。


 楽だった。


 でも、最近、その楽さが少し苦しくなっていた。


 佐伯先生は、遥の顔を見た。


「本当に大丈夫?」


「大丈夫です」


 二度目の大丈夫は、一度目より少し小さかった。


 佐伯先生は、それ以上すぐには聞かなかった。


 ただ、記録用紙に何かを書き、遥の前に温かいお茶を置いた。


「少しだけ、ここで休んでいきましょう」


「でも、授業が」


「十分だけでも」


 遥は、小さく頷いた。


 保健室の時計は、ゆっくり進んでいた。


 遥は、湯気の立つ紙コップを両手で包んだ。


 お茶の温かさが、冷えた指にしみる。


 廊下の音が遠い。


 その遠さに、ほっとしてしまう自分がいた。


 遥は、中学三年生だった。


 成績は悪くない。


 提出物も出す。


 遅刻もしない。


 部活は引退したが、後輩から相談されれば聞く。


 家では、弟の相手をする。


 友人の菜月からは、よく話を聞いてと頼まれる。


 先生から見れば、問題の少ない生徒。


 友だちから見れば、落ち着いていて頼れる人。


 家族から見れば、手がかからない子。


 遥自身も、そういう自分でいるのが一番楽だと思っていた。


 誰かに聞かれる。


「大丈夫?」


 遥は答える。


「大丈夫」


 それで、その場が丸く収まる。


 菜月が人間関係で泣きそうになっても、遥は聞く。


 家で母が忙しそうにしていても、遥は「大丈夫」と言って弟のプリントを見る。


 担任の井沢先生に「受験勉強、順調か」と聞かれても、「大丈夫です」と答える。


 本当は、順調かどうかよくわからない。


 本当は、菜月の話を聞いた後、自分の中に重さが残る。


 本当は、家で一人になった時、何もしていないのに涙が出そうになる。


 でも、それをどう言えばいいのかわからなかった。


 大丈夫ではない。


 そう言えるほど、何か大きなことが起きているわけではない。


 でも、大丈夫。


 そう言えるほど、軽くもない。


 その中間にあるものの名前を、遥は持っていなかった。


 保健室の扉が開いた。


 入ってきたのは、黒い上着に、使い込まれた革の鞄を持った白瀬灯理だった。


 今日は、校内相談体制の授業支援で来ている先生だと、朝の職員打ち合わせで紹介されていた。


 佐伯先生が、灯理に小さく会釈する。


「白瀬先生」


 灯理は、遥の方を見て、少し距離を置いて立った。


「遥さん、こんにちは」


「こんにちは」


「ここに座ってもいいですか」


 遥は、少し迷って頷いた。


 灯理は、向かいではなく斜めの椅子に座った。


 佐伯先生が、静かに言った。


「白瀬先生に、少し相談していたんです。最近、遥さんの『大丈夫』が気になっていて」


 遥は、紙コップを握った。


 気づかれていた。


 そのことが、少し怖かった。


 でも、少しだけほっとした。


 灯理は言った。


「遥さん」


「はい」


「大丈夫という言葉を、よく使いますか」


 遥は、少し笑った。


「たぶん」


「どんな時に使いますか」


「聞かれた時です」


「何を聞かれた時でしょう」


「体調とか、勉強とか、友だちのこととか、家のこととか」


 言いながら、自分でも多いと思った。


 いろいろな場所で、同じ言葉を使っている。


 灯理は、紙コップの湯気を見た。


「その大丈夫は、全部同じ大丈夫ですか」


 遥は、答えられなかった。


 同じではない。


 本当に大丈夫な時もある。


 少し休めば戻れる時もある。


 今は聞かれたくない時もある。


 聞いてほしいけれど、聞かれたら泣きそうで怖い時もある。


 助けてほしいのか、自分でもわからない時もある。


 遥は、小さく言った。


「先生」


「はい」


「大丈夫って言えば、それ以上聞かれないから楽なんです」


 声が震えた。


 言ってしまった。


 大丈夫は、元気な返事ではなかった。


 扉を閉めるための言葉だった。


 灯理は、その言葉を責めなかった。


 ただ、静かに頷いた。


「うん。では、大丈夫という言葉は、いつも本当に大丈夫な時だけ使われるのでしょうか」


 遥は、首を横に振った。


「違うと思います」


「はい」


「本当に大丈夫な時もあります。でも、違う時もあります」


 佐伯先生は、その会話を聞きながら、少し目を伏せた。


 保健室で、何度も聞いてきた言葉。


 大丈夫です。


 もう戻れます。


 寝れば治ります。


 平気です。


 それが、どれも同じ返事ではないことを、佐伯先生は感じていた。


 でも、本人が大丈夫と言う以上、どこまで聞いてよいのか迷っていた。


 踏み込みすぎたら、閉じてしまうかもしれない。


 聞かなければ、見落としてしまうかもしれない。


 その間で、いつも立ち止まっていた。


 灯理は、鞄から数枚のカードを取り出した。


「大丈夫を、少し種類分けしてみませんか」


 机の上に、白いカードが並べられる。


『本当に大丈夫』

『少し休めば大丈夫』

『今は話せない』

『聞かれると困る』

『助けてほしいけど言えない』

『これ以上聞かれたくない』

『誰かに気づいてほしい』

『大丈夫ではないけど言葉がない』

『あとでなら話せる』

『一人では決められない』

『大丈夫じゃないかもしれない』


 遥は、そのカードを見つめた。


 胸の奥で、何かがほどける音がした気がした。


 大丈夫ではない、だけではない。


 助けて、だけでもない。


 その前に、いくつもの返事がある。


 遥は、『少し休めば大丈夫』のカードに触れた。


「これは、よくあります」


「はい」


 次に、『今は話せない』。


「これも」


 指が止まる。


『誰かに気づいてほしい』


 触れた瞬間、目の奥が熱くなった。


 気づいてほしい。


 でも、聞かれると困る。


 矛盾している。


 けれど、カードは矛盾を責めなかった。


 そこに置いていいように見えた。


 佐伯先生が言った。


「大丈夫の中には、たくさんの意味が入っていたんですね」


 遥は頷いた。


「でも、いちいち説明できないです」


「はい」


 灯理は、新しい紙を出した。


『返事カード』


「説明する言葉が長くならなくても、カードで選べるようにしてみましょう」


 佐伯先生は、保健室用のカードを作ることにした。


『本当に大丈夫です』

『少し休みたいです』

『今は話せません』

『あとでなら話せます』

『体のことだけ話したいです』

『気持ちのことも少し話したいです』

『担任にはまだ伝えないでください』

『誰かにつないでほしいです』

『一人では決められません』

『大丈夫じゃないかもしれません』


 遥は、その中の一枚を見つめた。


『大丈夫じゃないかもしれません』


 それは、すごく正しい言葉のように思えた。


 大丈夫じゃない、と言い切るのは怖い。


 でも、大丈夫かもしれない、と言い張るのもしんどい。


 大丈夫じゃないかもしれない。


 その曖昧さなら、今の自分に近い。


 昼休み、小さな相談会が保健室で開かれた。


 参加したのは、遥、佐伯先生、灯理、担任の井沢先生、そして遥の友人の菜月だった。


 菜月は、最初かなり戸惑っていた。


「私、何かした?」


 遥は、慌てて首を横に振った。


「違う。怒ってない」


「でも、先生に呼ばれたから」


 菜月の目が不安そうに揺れる。


 灯理は言った。


「今日は誰かを責める会ではありません。遥さんの『大丈夫』の中身を、少しみんなで見えるようにする会です」


 井沢先生は、腕を組んでいた。


 遥は、クラスでも問題の少ない生徒だと思っていた。


 成績も安定している。


 生活態度も落ち着いている。


 友人関係も大きなトラブルはなさそうだ。


 だから、保健室に来る回数が増えていても、受験前の疲れくらいに考えていた。


 けれど、佐伯先生から相談を受け、記録を見て、少し見方が変わった。


 頭痛。


 腹痛。


 眠気。


 手の冷え。


 「大丈夫です」という返事。


 それらは、問題ではない生徒の中にも重さがあることを示していた。


 灯理は、模造紙を広げた。


『大丈夫の中にあるもの』


 遥は、カードを選んで貼っていく。


『少し休めば大丈夫』

『今は話せない』

『誰かに気づいてほしい』

『大丈夫ではないけど言葉がない』

『あとでなら話せる』

『大丈夫じゃないかもしれない』


 菜月は、それを見て口元を押さえた。


「遥、そんなふうだったの」


 遥は、すぐに言った。


「菜月が悪いわけじゃない」


「でも、私、いつも話聞いてもらってた」


「うん」


「遥は聞くの上手だから。落ち着いてるから。大丈夫そうだから」


 菜月の声が小さくなる。


「私、遥が大丈夫か聞いてなかったかも」


 遥は、言葉に迷った。


 菜月の話を聞くのは嫌いではない。


 頼られるのが嫌だったわけでもない。


 ただ、毎日のように重い話を聞くと、自分の中にもその重さが残った。


 でも、「今日は聞けない」と言う言葉を持っていなかった。


 嫌いになったと思われるのが怖かった。


 遥は、返事カードの中から一枚選んだ。


『今日は聞ける量が少ないです』


 灯理が、そのカードを机に置く。


「こういう返事があってもよいかもしれません」


 菜月は、カードを見た。


「それ、言われたら傷つくかなって思ったけど」


 少し考えてから、首を横に振る。


「でも、何も言われずに我慢される方が、後で怖いかも」


 遥は、菜月を見た。


「私も、言えたら楽かもしれない」


 井沢先生が言った。


「担任としても、遥さんが問題なく見えていた分、見落としていました」


 遥は、先生を見た。


 井沢先生の顔は、いつもより少し硬かった。


「受験勉強はどうだ、と聞いて、大丈夫ですと返ってくると、安心していました。でも、それは本当に安心してよい返事かどうか、確認していなかった」


 佐伯先生が、返事カードを指した。


「これからは、保健室だけでなく、教室でも使える言葉を増やせるといいですね」


 灯理は頷いた。


「『助けて』と言う前にも、たくさんの段階があります。そこに言葉があれば、少し早く重さを置けるかもしれません」


 その日の放課後、保健室の机で、遥たちは「大丈夫カード」を作った。


 カードは色分けされた。


 緑。


『本当に大丈夫』

『いつも通りできます』


 黄色。


『少し休めば大丈夫』

『今日はゆっくりしたい』

『あとでなら話せます』


 青。


『今は話せません』

『静かな場所にいたい』

『話さずに休みたい』


 橙。


『一人では決められません』

『誰かにつないでほしい』

『少し手伝ってほしい』


 赤。


『大丈夫じゃないかもしれません』

『このままだとつらいです』

『すぐに大人と話したいです』


 遥は、黄色と青のカードを何度も見た。


 自分はいつも、緑のふりをしていた。


 本当は黄色の日も、青の日も、橙に近い日もあった。


 でも、全部を緑にしていた。


 だから、体が代わりに頭痛や眠気で知らせていたのかもしれない。


 佐伯先生は、カードを保健室の入口に置いた。


『言葉にしにくい時は、カードを選んでください』


 井沢先生は、クラスにも簡単な形で紹介することにした。


 ただし、誰かに無理やり選ばせるのではない。


 カードを使うかどうかは本人が決める。


 中身を誰に共有するかも、確認してからにする。


 菜月は、帰り際に遥に言った。


「今日、帰り道、話してもいい?」


 遥は、一瞬いつものように「うん」と言いそうになった。


 けれど、手元のカードを思い出した。


 今日は、頭が痛い。


 話せないわけではない。


 でも、全部は聞けない。


 遥は、小さく息を吸った。


「今日は、十分くらいなら聞ける」


 菜月は、少し驚いた顔をした。


 それから、ゆっくり頷いた。


「わかった。じゃあ、駅までの途中だけ」


「うん」


「そのあと、続きは明日でもいい?」


「明日なら、もう少し聞けるかも」


 それだけのやり取りで、遥の肩が少し軽くなった。


 友だちをやめる話ではない。


 菜月を拒絶する話でもない。


 自分の聞ける量を伝えただけ。


 それでも、関係は壊れなかった。


 翌日、遥は教室で井沢先生に呼ばれた。


 少し身構えたが、先生は廊下の端で穏やかに言った。


「受験勉強のことで、今の状態を確認したいと思っています。ただ、今すぐ話すのが難しければ、あとでも構いません」


 遥は、返事に迷った。


 いつもの言葉が出かける。


 大丈夫です。


 でも、今日は別の言葉を選んでみた。


「放課後なら話せます」


 井沢先生は、すぐに頷いた。


「では、放課後にしましょう」


 それだけだった。


 問い詰められなかった。


 その場で全部を話さなくてもよかった。


 遥は、自分の中に小さな空間ができるのを感じた。


 放課後、進路の話をした。


 不安があること。


 志望校を下げるべきか迷っていること。


 家で勉強していても、集中できない日があること。


 菜月の話を聞いた後、自分の勉強が進まなくなる日があること。


 全部を上手に言えたわけではない。


 途中で何度も黙った。


 でも、井沢先生は待った。


 「大丈夫だよ」と先回りしなかった。


 代わりに、紙に分けて書いた。


『今すぐ決めなくてよいこと』

『今週確認すること』

『一人で考えなくてよいこと』

『相談する人』

『休む時間』


 遥は、その紙を見て思った。


 大丈夫の中に詰め込んでいたものが、少しずつ外に出ていく。


 それは、すぐに軽くなるわけではない。


 でも、外に出せば、誰かと一緒に見られる。


 数日後、保健室では小さな変化が起きていた。


 腹痛で来た一年生が、『少し休めば大丈夫』のカードを選んだ。


 部活で疲れた二年生が、『今は話せません』のカードを机に置いた。


 友人関係で泣きそうになった生徒が、『あとでなら話せます』を選び、放課後に相談室へ行った。


 カードを選ばない生徒もいた。


 それでもよかった。


 選択肢があること自体が、保健室の空気を少し変えていた。


 佐伯先生は、記録用紙に「大丈夫」とだけ書くのをやめた。


 代わりに、その日の大丈夫の種類を書いた。


『少し休めば大丈夫』

『話さず休む』

『あとで担任と確認』

『本人希望で共有なし』

『相談室につなぐ』


 大丈夫という一言の中にあった重さが、少しずつ形になっていく。


 遥は、ある日の昼休みに保健室へ来た。


 頭痛はなかった。


 ただ、カードを一枚持ってきた。


『大丈夫じゃないかもしれません』


 佐伯先生が、そっと椅子を引いた。


「座りますか」


 遥は頷いた。


 今日は、話すために来たのではなかった。


 泣くほどでもない。


 倒れそうなほどつらいわけでもない。


 でも、緑ではない。


 黄色と青と橙が混じっている。


 そのことを、自分でわかっておきたかった。


 佐伯先生は、何も急がせなかった。


 遥は、しばらく黙って座った。


 カーテンが風で揺れる。


 保健室の時計が、静かに進む。


 その沈黙の中で、遥は少しずつ息を整えた。


 やがて、ノートを開いた。


 保健室カードの端に、一文を書く。


『大丈夫じゃないかもしれない、も返事にしていい』


 書き終えた瞬間、涙が一粒だけ落ちた。


 大きく泣くわけではなかった。


 ただ、ずっと固まっていた返事が、少しほどけたような涙だった。


 佐伯先生は、ティッシュをそっと置いた。


 遥は、それを受け取った。


「先生」


「はい」


「これ、言ってもいいんですね」


「はい」


「大丈夫じゃない、って言い切れなくても」


「はい」


「かもしれない、でも」


「返事です」


 遥は、頷いた。


 その日の夕方、灯理は保健室で佐伯先生と並んでカードを整理していた。


 窓の外は、薄い夕焼けに染まっている。校庭では部活動の声が遠く響き、廊下には掃除用具を片づける音が残っていた。


 佐伯先生は、カードを一枚ずつ箱に戻しながら言った。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、大丈夫の中にあった言葉を一緒に見せていただきました」


 佐伯先生は、保健室のベッドを見た。


「私は、生徒の大丈夫を疑いたいわけではありませんでした」


「はい」


「でも、そのまま受け取っていいのか、もっと聞いた方がいいのか、いつも迷っていました」


「はい」


「今日、思いました。大丈夫を否定するのではなく、種類を増やせばいいのですね」


 灯理は頷いた。


「大丈夫の中身を一緒に選べるようにする」


「はい。そうすれば、生徒も、全部話すか、全部隠すかだけではなくなる」


 井沢先生も、保健室の入口に立っていた。


「私も、遥のことを問題の少ない生徒だと思っていました」


 その声には、少し苦さがあった。


「でも、問題が少ないように見えることと、重さがないことは違う。大丈夫と言う生徒ほど、見えなくなるものがあるのかもしれません」


 佐伯先生が頷く。


「これから、先生たちにもカードを紹介します。無理に使わせるのではなく、言葉の選択肢として」


 灯理は、保健室の机に置かれたカードを見た。


 緑、黄色、青、橙、赤。


 それぞれの色が、静かに並んでいる。


 大丈夫を学ぶことは、我慢できる自分になることではない。


 大丈夫です、と笑えることが、いつも強さとは限らない。


 本当に大丈夫。


 少し休めば大丈夫。


 今は話せない。


 聞かれると困る。


 助けてほしいけど言えない。


 これ以上聞かれたくない。


 誰かに気づいてほしい。


 大丈夫ではないけど言葉がない。


 大丈夫じゃないかもしれない。


 その一つひとつに名前をつけることで、重さは少し外へ出る。


 家の役割を背負いながら言う大丈夫。


 夜の通知に追われながら言う大丈夫。


 一番の席で期待に応えながら言う大丈夫。


 拍手の後に仕事を抱えながら言う大丈夫。


 そのどれも、同じ大丈夫ではない。


 見えない重さは、本人の弱さではない。


 言葉にならないまま、一人に集まりすぎた重さかもしれない。


 だから、返事を増やす。


 カードにする。


 休む場所を作る。


 あとで話せる時間を残す。


 誰に伝えるかを本人と決める。


 大丈夫の扉を、無理にこじ開けるのではなく、内側から少し開けられる取っ手を増やす。


 夜、灯理は中学校を出た。


 昇降口の外には、湿った土の匂いがした。部活動を終えた生徒たちの声が、校門の方へ遠ざかっていく。校舎の保健室の窓には、まだ柔らかな明かりが残っていた。


 灯理は、鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 保健室の机には、遥の保健室カードが置かれている。


 その端には、遥の字で一文が残っている。


 大丈夫じゃないかもしれない、も返事にしていい。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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