第24章 第1話:家の役割の授業――夕飯を作るランドセル
莉菜は、家庭科室の机に突っ伏しそうになって、はっと目を開けた。
窓の外では、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴っている。家庭科室には、洗ったばかりの布巾の匂いと、古い木の机の匂いが混じっていた。棚には計量カップや鍋が並び、壁には「安全に調理しよう」と書かれた掲示が貼られている。
目の前のプリントには、今日の題が大きく印刷されていた。
『家の仕事を調べよう』
莉菜は、鉛筆を持ったまま、まぶたが重くなるのを感じた。
昨日も寝るのが遅かった。
弟の陽太を学童へ迎えに行き、帰ってから夕飯を作った。冷蔵庫にあった豚こまとキャベツを炒め、味噌汁を温め直し、炊飯器のご飯をよそった。
陽太が漢字の宿題で泣きそうになったので、横について一緒に書いた。
洗濯物を取り込んだ。
母が帰ってくる前に、明日の給食袋を確認した。
連絡帳に「絵の具セット」と書いてあるのを見つけて、陽太の棚を探した。
母が帰ってきたのは、夜の十時を過ぎていた。
疲れた顔で玄関に座り込み、「ごめんね」と笑った。
莉菜は「大丈夫」と答えた。
いつものことだった。
「莉菜さん」
担任の小森先生の声がして、莉菜は背筋を伸ばした。
「眠そうですね。昨日、遅くまで起きていましたか」
クラスの何人かがこちらを見る。
莉菜は、慌てて首を横に振った。
「大丈夫です」
小森先生は、少し困ったように微笑んだ。
「最近、授業中に眠そうなことが増えています。六年生ですから、生活リズムも自分で整えられるようにしましょうね」
「はい」
莉菜は、プリントに目を落とした。
生活リズム。
自分で整える。
その言葉が、胸の奥に小さく刺さる。
整えたい。
早く寝たい。
でも、夕飯も、陽太の宿題も、洗濯物も、明日の準備も、誰かがやらなければならない。
母は悪くない。
母はいつも働いている。
自分たちのために。
だから、莉菜がやる。
家族だから。
六年生だから。
お姉ちゃんだから。
小森先生が授業を始めた。
「今日は、家庭科の学習として、家の仕事について考えます。家の中には、食事、掃除、洗濯、買い物、片づけ、弟や妹のお世話など、たくさんの仕事がありますね」
先生は黒板に書いた。
『家で自分がしている仕事』
『家族がしている仕事』
『感謝したいこと』
『これから自分ができそうなこと』
「まずは、自分が家でしている仕事を書き出してみましょう」
教室に、鉛筆の音が広がった。
「食器を運ぶ」
「お風呂掃除」
「ゴミ出し」
「犬の散歩」
「洗濯物をたたむ」
「妹と遊ぶ」
友だちの声が、あちこちから聞こえる。
莉菜は、プリントの欄を見つめた。
自分がしている仕事。
最初に書いた。
『食器を運ぶ』
その下に、
『洗濯物をたたむ』
それくらいにしておこうと思った。
けれど、鉛筆は止まらなかった。
『弟の学童迎え』
『夕飯を作る』
『ご飯を炊く』
『味噌汁を温める』
『洗濯物を取り込む』
『弟の宿題を見る』
『弟の連絡帳を見る』
『母が帰るまで留守番』
『朝ごはんの準備』
『ゴミ出し』
『弟の持ち物確認』
『病院の予約メモを見る』
『買い物リストを書く』
『母に提出物を伝える』
欄が足りなくなった。
莉菜は、小さな字で余白に続きを書いた。
書けば書くほど、胸の中が変な感じになった。
これは、家の仕事だ。
家族のためにしていることだ。
悪いことではない。
むしろ、先生は褒めてくれるかもしれない。
でも、プリントの上に並んだ文字は、思っていたより重たかった。
小森先生が机の間を回ってきた。
莉菜のプリントを覗き、目を丸くした。
「莉菜さん、こんなにたくさんしているんですね」
近くの友だちも覗き込む。
「すごい」
「莉菜、夕飯作れるの?」
「お母さんみたい」
その言葉に、莉菜は笑った。
笑うしかなかった。
小森先生も、感心したように言った。
「莉菜さんは本当にしっかりしていますね。家族を支えていて、えらいです」
えらい。
しっかりしている。
家族を支えている。
いつもなら、そう言われると少し誇らしかった。
でも、今日は苦しかった。
プリントの上の文字が、急に自分の肩に乗ってくるようだった。
家庭科室の後ろに、一人の先生が立っていた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
今日は、家庭と学校をつなぐ学習の支援者として、小森先生の授業を見に来ていた。
灯理は、莉菜のプリントを見ていた。
褒めるでも、驚くでもなく、ただ静かに見ていた。
授業が終わった後、莉菜は家庭科室に少し残った。
みんなは給食の準備へ向かっている。
廊下から、食器のワゴンが動く音が聞こえた。
莉菜は、プリントを閉じようとして、うまく手が動かなかった。
灯理が近づいてきた。
「莉菜さん」
「はい」
「たくさん書いていましたね」
莉菜は、少し肩をすくめた。
「書きすぎました」
「どうしてそう思いましたか」
「みんな、そんなに書いてなかったから」
「はい」
「でも、うちでは普通です」
莉菜は、慌てて付け足した。
「お母さん、悪くないです。仕事が大変だから。私、六年生だし、できるから」
灯理は頷いた。
「お母さんを責めたいわけではないのですね」
「はい」
莉菜は、プリントをぎゅっと握った。
「先生」
「はい」
「家のことができるのは、いいことじゃないんですか」
問いというより、確認だった。
いいことだと言ってほしかった。
そうでなければ、自分が毎日やっていることが、急に別のものになってしまう気がした。
灯理は、すぐに否定しなかった。
「家のことができるのは、力です」
莉菜は、少し安心しかけた。
けれど、灯理は続けた。
「でも、こうも考えられます」
灯理は、莉菜の目を見た。
「うん。では、できることが多いほど、その子は重くないのでしょうか」
莉菜は、息を止めた。
重くない。
その言葉が、胸の中でゆっくり広がった。
できる。
だから大丈夫。
できる。
だから任せられる。
できる。
だから、疲れていない。
そんなふうに、自分でも思っていたのかもしれない。
灯理は言った。
「莉菜さんのしていることが悪いと言いたいのではありません。家族を大切にしていることも、本当だと思います」
「はい」
「でも、その役割が莉菜さん一人に集まりすぎていないか、一緒に見てみませんか」
その日の放課後、小森先生は、家庭支援室に莉菜を呼んだ。
小さな部屋だった。
丸い机と、柔らかい椅子。
棚には絵本や相談カードが並び、窓際には観葉植物が置かれている。廊下の声は少し遠く、教室よりも静かだった。
そこには、小森先生、灯理、そしてスクールソーシャルワーカーの畑中さんがいた。
畑中さんは、穏やかな声で自己紹介した。
「莉菜さん、こんにちは。私は、学校とお家、地域の支援をつなぐ仕事をしています。今日は、莉菜さんを責めるためでも、お母さんを責めるためでもなく、莉菜さんが毎日していることを一緒に見せてもらいたいと思っています」
莉菜は、小さく頷いた。
責めない。
その言葉を聞いても、まだ少し怖かった。
もし、母が困ることになったらどうしよう。
自分が話したせいで、母が責められたらどうしよう。
灯理は、机に大きな紙を広げた。
紙の中央に、こう書かれている。
『家の役割の重さ地図』
その周りに、いくつかの欄があった。
『楽しい手伝い』
『できるけれど疲れること』
『本当は大人にしてほしいこと』
『子どもだけで判断していること』
『休む時間』
『勉強する時間』
『眠る時間』
『誰に頼れるか』
『学校が気づけるサイン』
莉菜は、その欄を見つめた。
家庭科のプリントとは違った。
ただ、何をしているかを書くのではない。
それがどんな重さなのかを見る紙だった。
灯理は言った。
「まず、楽しい手伝いから書いてみましょう」
莉菜は、少し考えて付箋に書いた。
『卵焼きを作る』
『陽太と一緒にホットケーキを焼く』
『洗濯物をたたみながらテレビを見る』
『母が休みの日に一緒に買い物へ行く』
書いていると、少し気持ちが軽くなった。
家のことの中にも、好きな時間はある。
陽太が「お姉ちゃんの卵焼き、甘いから好き」と言うのは嬉しい。
母と買い物に行く日は、帰りに肉まんを買ってもらえることがある。
次に、『できるけれど疲れること』。
莉菜の手が止まる。
でも、畑中さんが言った。
「できることと、疲れないことは違います」
莉菜は、ゆっくり書いた。
『夕飯を毎日考える』
『陽太の宿題を見る』
『陽太が泣いた時になだめる』
『母が帰るまで起きている』
『洗濯物が多い日』
『朝、陽太を急がせる』
次に、『本当は大人にしてほしいこと』。
莉菜は、鉛筆を握る手に力を入れた。
書いてはいけない気がした。
家族なのに。
母は大変なのに。
でも、灯理は何も急がせなかった。
小森先生も、畑中さんも待っていた。
莉菜は、小さな字で書いた。
『病院の予約』
『お金のこと』
『学校の書類』
『陽太が熱を出した時にどうするか』
『夕飯を毎日決めること』
書いた瞬間、涙が出そうになった。
夕飯を作ること自体より、毎日「何を作るか」を決めることが重かった。
冷蔵庫を開ける。
残っているものを見る。
陽太が食べるものを考える。
母が帰ってきて食べられるようにする。
安いものを使う。
焦がさない。
時間に間に合わせる。
それは、ただの手伝いではなかった。
畑中さんは、付箋を見て静かに頷いた。
「これは、大人の判断が多く入っていますね」
小森先生は、唇を引き結んでいた。
莉菜を、しっかりした子だと思っていた。
その見方は間違っていない。
莉菜は本当にしっかりしている。
けれど、しっかりせざるを得ない背景を見ていなかった。
授業中に眠る莉菜を、生活リズムの問題として注意した。
忘れ物を、自己管理の問題として見た。
その後ろに、夕飯を作るランドセルがあったことに気づいていなかった。
灯理は、次の欄を指した。
『休む時間』
『勉強する時間』
『眠る時間』
莉菜は、平日の流れを書いた。
放課後。
陽太の迎え。
帰宅。
夕飯。
宿題を見る。
洗濯物。
持ち物確認。
母を待つ。
自分の宿題。
寝る。
紙の上に一日を並べると、隙間が少なかった。
休む時間は、夕飯を食べながらテレビを見る十分くらい。
勉強は、夜の遅い時間。
眠る時間は、日によってかなり遅い。
畑中さんが言った。
「莉菜さん、ここに『子どもの時間』という欄を足してもいいですか」
「子どもの時間?」
「誰かの世話や家の仕事ではなく、莉菜さんが莉菜さんとして過ごす時間です。遊ぶ、休む、ぼーっとする、友だちと話す、本を読む、早く寝る。そういう時間です」
莉菜は、紙の端にその欄が作られるのを見た。
『子どもの時間』
そこは、まだ空白だった。
その空白が、なぜか一番胸に痛かった。
数日後、母との面談が行われた。
母は仕事の合間に、急いで学校へ来た。
髪を後ろでまとめ、少し疲れた顔をしている。
家庭支援室の椅子に座ると、何度も鞄の持ち手を握り直した。
「莉菜が何か、しましたか」
母の声には、不安が滲んでいた。
小森先生が首を横に振った。
「いえ。莉菜さんを責める話ではありません」
畑中さんも穏やかに言った。
「お母さんを責める話でもありません。今日は、莉菜さんが家で担っている役割を一緒に見て、外から手伝えるところを探したいと思っています」
母は、莉菜の方を見た。
莉菜は、膝の上で手を握っている。
自分が母を困らせることになるのではないか。
その不安で、顔を上げられなかった。
灯理が、机に役割地図を広げた。
母は、そこに並ぶ付箋を見た。
弟の迎え。
夕飯作り。
宿題を見る。
連絡帳確認。
病院の予約。
お金のこと。
母が帰るまで起きている。
朝、陽太を急がせる。
母の顔が、少しずつ変わっていった。
「こんなに……」
母の声が震えた。
「莉菜、ごめん」
莉菜は、慌てて顔を上げた。
「違う。お母さん、悪くない」
「でも」
「私ができるから」
母は、首を横に振った。
「助かっていた」
その言葉は、ゆっくり出てきた。
「本当に、助かっていたの。でも、助けてもらいすぎていた」
莉菜の目に涙が浮かんだ。
母が責められなかったことにほっとして。
母が気づいてくれたことに、もっとほっとして。
母は、手で顔を覆いそうになって、こらえた。
「莉菜に甘えているのはわかってた。でも、仕事を減らせなくて。帰ってきたらご飯ができていて、陽太の宿題も終わっていて、ありがたくて。でも、その分、莉菜が寝る時間を削っていたんだね」
畑中さんは、静かに言った。
「お母さんが一人で抱えている重さもあります。だから、莉菜さんに渡っていた部分を、家族だけでなく、外の支援も使って分け直しましょう」
畑中さんは、いくつかのカードを出した。
『学童の延長相談』
『放課後支援』
『子ども食堂』
『地域の見守り』
『家事支援制度』
『学校書類の確認サポート』
『緊急時の連絡先整理』
『食事づくりの負担を減らす方法』
母は、一枚ずつ読んだ。
「使っていいんですか」
その声は、真帆の母が申請書を前に言った声に少し似ていた。
支援を使うことへの遠慮。
家族のことは家族で何とかしなければという思い。
畑中さんは頷いた。
「使っていいです。お母さんと莉菜さんが、少し息をできるようにするためのものです」
小森先生は言った。
「学校でも、莉菜さんの眠気や忘れ物を、単に注意するのではなく、背景を確認します。必要なら家庭支援室につなぎます」
母は、何度も頷いた。
その日の面談で、すべてが解決したわけではない。
母の仕事が急に減るわけではない。
収入の不安が消えるわけでもない。
莉菜が家のことをまったくしなくなるわけでもない。
でも、役割は少し動いた。
陽太の学童は、週に何日か延長を相談する。
夕飯は、子ども食堂や作り置き支援を利用できる日を調べる。
病院の予約や書類は、母が必ず確認する。
学校の提出物は、莉菜だけが管理しない。
陽太も、自分のランドセルの中身を一緒に確認する練習を始める。
莉菜の勉強時間と眠る時間を、先に予定に入れる。
そして、週に一度は、莉菜が夕飯を作らない日を作る。
帰り際、陽太も家庭支援室に呼ばれた。
陽太は、最初きょとんとしていた。
「お姉ちゃん、怒られたの?」
莉菜は首を横に振った。
「怒られてない」
畑中さんが、陽太にもわかるように話した。
「陽太くん、お姉ちゃんがたくさん手伝ってくれているでしょう」
「うん。お姉ちゃん、ご飯作れる」
「すごいね。でも、お姉ちゃんだけが全部やると、とても疲れます」
陽太は、莉菜を見た。
「お姉ちゃん、疲れてるの?」
莉菜は、少し迷ってから頷いた。
「ちょっとね」
陽太は、困った顔をした。
「ぼく、何したらいい?」
畑中さんは、小さなカードを出した。
『陽太の小さな役割』
そこに、陽太と一緒に書いた。
『連絡帳を自分で出す』
『給食袋を台所に置く』
『宿題でわからないところに印をつける』
『ランドセルの中を一緒に見る』
『食べたお皿を運ぶ』
『お姉ちゃんが休む時間は静かにする』
陽太は、真剣な顔で頷いた。
「ぼく、給食袋できる」
莉菜は、少し笑った。
陽太が急に何でもできるようになるわけではない。
でも、陽太のランドセルの重さは、陽太も少し持てる。
莉菜のランドセルだけが、夕飯や宿題や連絡帳を全部詰め込まなくてもよくなる。
その日の夜、莉菜はいつもより早く家に帰った。
陽太は、自分で給食袋を台所に出した。
少し得意げだった。
夕飯は、母が前日に買っておいた惣菜と、莉菜が温めた味噌汁だった。
全部を一から作らなくてもよかった。
食後、母が言った。
「今日は、莉菜は先に宿題をして。陽太の音読は、お母さんが聞く」
莉菜は、思わず母を見た。
「でも、お母さん疲れてるでしょ」
「疲れてる」
母は正直に言った。
「でも、莉菜も疲れてる。だから、少しずつ分ける」
莉菜は、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
自分がいなくても回る家になってほしいわけではない。
家族でいたい。
母を助けたい。
陽太のことも大事だ。
でも、そのために自分が全部大人になる必要はなかった。
翌週の家庭科の授業で、小森先生は、前回のプリントをもう一度配った。
黒板には、新しい題が書かれていた。
『家の仕事の重さを考えよう』
小森先生は、少し緊張した声で話した。
「家の手伝いは、大切です。家族を助けることも、生活の力を身につけることも、とても大事です」
クラスは静かに聞いている。
「でも、手伝いが多すぎたり、大人が判断することを子どもだけで抱えていたりすると、重くなることがあります。今日は、家の仕事を、よい子かどうかではなく、重さとして見てみます」
莉菜は、小森先生を見た。
先生は、莉菜だけを見ていなかった。
クラス全体に話していた。
誰か一人を特別にするのではなく、みんなで考える授業になっていた。
黒板には、三つの欄が書かれた。
『自分ができること』
『大人と一緒にしたいこと』
『大人にしてほしいこと』
さらに、
『休む時間』
『眠る時間』
『自分の時間』
友だちが、小さく言った。
「大人にしてほしいことって書いていいの?」
小森先生は頷いた。
「はい。家で全部その通りになるとは限りません。でも、自分がどう感じているかを知ることは大切です」
莉菜は、プリントに書いた。
『自分ができること』
卵焼き。
給食袋の確認を陽太と一緒にする。
洗濯物をたたむ。
『大人と一緒にしたいこと』
夕飯を考える。
学校の書類を見る。
買い物リストを作る。
『大人にしてほしいこと』
病院の予約。
お金のこと。
陽太が熱を出した時の判断。
『休む時間』
夕飯の後、二十分。
『眠る時間』
十時半までに布団に入る日を増やす。
『自分の時間』
本を読む。
友だちと話す。
何もしない。
何もしない。
その言葉を書くのに、少し勇気がいった。
でも、書くと不思議なくらいほっとした。
授業の最後、莉菜は役割表の端に一文を書いた。
『家族を大事にすることは、私が全部大人になることじゃない』
書いた文字は、少し震えていた。
でも、消さなかった。
放課後、莉菜は教室でランドセルを背負った。
いつものランドセル。
でも、今日は少しだけ軽く感じた。
中身が減ったわけではない。
教科書もノートも入っている。
けれど、その中に夕飯の献立も、病院の予約も、陽太の全部の宿題も、母の疲れも、家の全部の責任も詰め込まなくていいのだと思えたからだった。
昇降口で、陽太が待っていた。
小さなランドセルを背負い、手には給食袋を持っている。
「お姉ちゃん、今日ぼく、連絡帳出した」
「えらい」
「あと、給食袋も出す」
「うん。忘れないでね」
「うん」
陽太は、少し考えてから言った。
「お姉ちゃん、今日ご飯作る?」
「今日は、お母さんと一緒に考える日」
「じゃあ、ぼくお皿運ぶ」
莉菜は笑った。
「お願い」
二人で校門を出る。
夕方の空は、薄い橙色だった。通学路の電柱の影が長く伸び、どこかの家からカレーの匂いが流れてくる。
莉菜は、その匂いを吸い込みながら歩いた。
夕飯の匂い。
家に帰る匂い。
でも、それはもう、自分一人が作らなければならない匂いではなかった。
夜、灯理は小学校を出た。
校舎の窓には、まだ職員室の明かりが灯っている。家庭支援室の机の上には、莉菜が書いた役割表のコピーが置かれていた。
小森先生が、玄関まで見送りに来た。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、家の役割の重さを一緒に見せていただきました」
小森先生は、少し俯いた。
「私は、莉菜さんをしっかりした子だと思っていました」
「はい」
「それは間違いではないと思います。でも、しっかりしているから大丈夫、と見てしまっていました。眠そうな時も、忘れ物をした時も、本人の生活リズムや自己管理の問題として注意していました」
灯理は、静かに聞いていた。
「できる子ほど、重さが見えにくくなることがあるのですね」
「はい」
小森先生は、家庭科室の方を見た。
「これから、家の手伝いの授業をする時は、褒めるだけで終わらせないようにします。手伝いと、子どもが背負いすぎている役割を分けて見られるように」
畑中さんも、廊下の向こうから歩いてきた。
「学校が気づけるサインを、先生たちと共有します。眠気、忘れ物、遅刻、宿題ができないこと。その後ろに、家庭の役割があるかもしれないと」
灯理は頷いた。
「責めるためではなく、重さを分け直すためにですね」
「はい」
外へ出ると、空はもう暗くなり始めていた。
校門の近くに、家庭科室から漏れる明かりが細く伸びている。
家の手伝いを学ぶことは、よい子かどうかを測ることではない。
食器を運ぶ。
洗濯物をたたむ。
夕飯を作る。
弟の宿題を見る。
連絡帳を確認する。
その一つひとつは、生活の力でもある。
家族を大事にする気持ちでもある。
けれど、できることが多い子ほど、重くないとは限らない。
できるから任される。
任されるから、さらにできるようになる。
できるようになるほど、大人の判断まで背負ってしまう。
その時、周りは「しっかりしている」と褒める。
本人も「大丈夫」と答える。
でも、ランドセルの中には、教科書だけではないものが入っていることがある。
夕飯の献立。
弟の宿題。
母の疲れ。
提出物。
病院の予約。
お金の不安。
眠れない夜。
その重さを、見えないまま褒めてはいけない。
見える場所へ置く。
楽しい手伝い。
疲れること。
本当は大人にしてほしいこと。
子どもだけで判断していること。
休む時間。
眠る時間。
子どもの時間。
そして、家族だけで抱えず、学校や地域や制度と一緒に分け直す。
灯理は、夜の通学路を振り返った。
家庭支援室の机には、莉菜の役割表が残っている。
その端には、莉菜の字で一文が書かれている。
家族を大事にすることは、私が全部大人になることじゃない。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




