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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第23章 第5話:境界線の授業――入れない教室の扉


 紬は、ガラス扉の前で足を止めた。


 地域学習センターの入口は、明るかった。


 大きな窓から、室内の様子がよく見える。白いテーブル。色の違う椅子。壁に貼られた予定表。奥の本棚。小さなホワイトボード。受付の横には、季節の折り紙で作られた飾りが吊るされている。


 中からは、笑い声が聞こえた。


 誰かが問題集を開いている。


 誰かが職員と話している。


 小学生らしい子が、色鉛筆を並べている。


 高校生くらいの子が、イヤホンを片方だけ外してノートを書いている。


 机の端では、高齢の男性が新聞を広げていた。


 ここは、誰でも来られる場所だと聞いていた。


 学校に行きづらい子。


 外国にルーツのある子。


 家のことで忙しい子。


 勉強の場所がない子。


 年齢を問わず学び直したい人。


 地域の人たちが集まり、勉強したり、話したり、ただ座ったりできる場所。


 入口の横には、明るい文字で掲示が貼られている。


『誰でも来てください』


 その言葉を見た瞬間、紬の足はさらに重くなった。


 誰でも来ていい。


 それなら、入れない自分は何なのだろう。


 紬は、中学二年生だった。


 学校へ行けない日が増えている。


 最初は、朝になるとお腹が痛くなった。


 次に、制服を見るだけで息が浅くなった。


 担任の先生は、無理しなくていいと言ってくれた。


 母も、怒らずに待ってくれた。


 それでも、家の中にいる時間が長くなるほど、どこかへ行かなければならない気がした。


 でも、学校には行けない。


 塾にも行けない。


 図書館も、知り合いに会いそうで怖い。


 そんな時、スクールカウンセラーから地域学習センターを紹介された。


「ここは学校ではありません。見るだけでも大丈夫です」


 そう言われた。


 だから、来た。


 バスに乗って、停留所から少し歩いて、建物の前まで来た。


 でも、扉の前で止まった。


 中の人たちは、もう場になじんでいるように見える。


 受付には、紙が置かれている。


『初めての方は申込書を書いてください』


 申込書。


 名前を書くのだろうか。


 学校名も書くのだろうか。


 なぜ来たのか、説明しなければならないのだろうか。


 学校に行っていないことを言わなければならないのだろうか。


 職員に質問されたら、答えられるだろうか。


 中にいる人たちに見られるだろうか。


 楽しそうにしている人たちの中で、自分だけ固まってしまったらどうしよう。


 誰でも来ていい。


 その言葉は、扉を開けるための言葉のはずだった。


 でも、紬には逆に重かった。


 誰でも来ていいのに、入れない。


 それは、自分が「誰でも」の中に入っていないような気がした。


 ガラス扉の向こうで、職員の青柳さんが紬に気づいた。


 青柳さんは、すぐに明るい笑顔で近づいてきた。


 扉を開ける。


「こんにちは。初めてですか?」


 紬は、声が出なかった。


 青柳さんは優しそうだった。


 声も柔らかい。


 けれど、近づかれたことで、紬の体はさらに固まった。


「大丈夫ですよ。ここは誰でも来ていい場所ですから」


 誰でも。


 また、その言葉。


 紬は、小さく一歩下がった。


「……すみません」


「謝らなくて大丈夫ですよ。中で少し座りますか?」


 紬は、室内を見た。


 みんなが見ているような気がした。


 本当は、誰もそこまで見ていないのかもしれない。


 でも、視線が体に刺さるようだった。


 その時、建物の横のベンチに一人の先生が座っていることに気づいた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理だった。


 地域学習センターの利用環境を見直すために来ている先生だと、事前に聞いていた。


 灯理は、紬を急かさなかった。


 扉の前に来ることもなく、ただベンチに座っていた。


 紬は、ガラス扉とベンチを交互に見た。


 中に入るのは無理だった。


 でも、ベンチなら少し行ける気がした。


 紬は、青柳さんに小さく頭を下げて、建物の横のベンチへ向かった。


 灯理は、紬が隣に座るまで何も言わなかった。


 春の終わりの風が、センター前の木の葉を揺らしている。道路の向こうでは、自転車のベルが短く鳴った。


「紬さん」


 灯理が静かに呼んだ。


「はい」


「ここまでは来られましたね」


 紬は、ガラス扉を見た。


「でも、中には入れませんでした」


「はい」


「先生」


「はい」


「誰でも来ていい場所なのに、入れない私は何なんでしょう」


 声が震えた。


 ずっと胸の奥にあった問いだった。


 学校へ行けない。


 教室に入れない。


 保健室にも行けない日がある。


 そして、誰でも来ていいはずの場所にも入れない。


 どこにも入れない自分は、おかしいのではないか。


 灯理は、紬の言葉をすぐに否定しなかった。


 ただ、ガラス扉を見つめながら問いを返した。


「うん。では、入口が開いていることと、その人が入れることは同じなのでしょうか」


 紬は、ゆっくり首を横に振った。


「違うと思います」


「はい」


「扉は、開いていました。でも、入れませんでした」


 青柳さんは、少し離れた場所で二人の会話を聞いていた。


 胸が痛かった。


 地域学習センターを開いて三年。


 青柳さんは、いつも「誰でも歓迎」を大切にしてきた。


 学校に行きづらい子も、勉強に困っている子も、外国にルーツのある子も、年齢の違う学び直しの人も、誰でも来られる場所にしたい。


 そう思っていた。


 だから、入口の掲示にも大きく書いた。


『誰でも来てください』


 でも、その言葉の前で止まる人がいる。


 それを、青柳さんは十分に見ていなかった。


 来ない人は、まだ必要としていないのかもしれない。


 気が向いたら来るだろう。


 そう思っていた。


 けれど、紬は来ていた。


 入口まで来て、止まっていた。


 灯理は、青柳さんに声をかけた。


「青柳さん、今日、センターに来るまでの道を一緒に見えるようにしてみませんか」


「来るまでの道、ですか」


「はい。扉の前だけでなく、そこに来る前から境界があるかもしれません」


 青柳さんは、真剣な顔で頷いた。


「お願いします」


 その日は、センターの一角に大きな模造紙が広げられた。


 紬はまだ中へ入れなかったので、最初は外のベンチで参加した。


 灯理は、模造紙を出入口の近くまで持ってきた。


 室内と外の境目。


 そこが、今日の最初の教室になった。


 模造紙の中央には、こう書かれている。


『センターに来るまでの道』


 その下に、いくつもの欄が作られた。


『家を出る前』

『建物の前』

『入口』

『受付』

『最初の五分』

『座る場所』

『話しかけられる時』

『帰る時』

『また来る時』


 灯理は、利用者たちにも声をかけた。


 外国にルーツのある少年、アミル。


 車椅子を使っている少女、奏とは別の地域に住む美咲。


 家で弟妹の世話をしていて開館時間に間に合わない高校生、蓮。


 学び直しに来ている七十代の男性、杉田さん。


 初回面談が怖くて一度帰ったことのある小学生、陽菜。


 それぞれが、付箋を持った。


 灯理は言った。


「ここに来られなかった理由、入口で止まった理由、来てから困ったことを書いてみましょう。恥ずかしいことではありません。場をよくするための情報です」


 最初に書いたのは、アミルだった。


『申込書が読めなかった』

『学校名を書くところで止まった』

『保護者の名前がいると思って帰った』

『お金がかかると思っていた』


 美咲は書いた。


『入口の段差で入りづらい』

『自動ドアではないので、車椅子だと開けにくい』

『中に入ると椅子の間が狭い』

『トイレの場所がわからない』


 蓮は書いた。


『開館時間に間に合わない』

『家の用事が終わると閉まっている』

『連絡しないで休むと、次に行きづらい』

『毎回来られないと迷惑だと思った』


 杉田さんは、少し照れながら書いた。


『若い人ばかりで場違いだと思った』

『何を勉強したいか聞かれると困る』

『パソコンを教えてほしいが、恥ずかしい』

『一人で座る場所がほしい』


 陽菜は、小さな字で書いた。


『初回面談が怖い』

『知らない大人と向かい合うのが怖い』

『最初にたくさん聞かれると泣きそうになる』

『見るだけの日がほしい』


 紬は、外のベンチで付箋を持ったまま、しばらく動けなかった。


 でも、他の人の付箋を見て、少し驚いた。


 入れないのは、自分だけではなかった。


 みんな、違うところで止まっていた。


 申込書。


 段差。


 時間。


 年齢。


 面談。


 視線。


 紬は、ゆっくり書いた。


『誰でも来ていいと言われるほど、入れない理由を言えなくなる』

『ガラス扉の中が見えすぎて怖い』

『楽しそうな人たちの中に入るのが怖い』

『申込書を書く前に少し座りたい』

『話しかけられると逃げたくなる』

『帰ってもいいと言われないと入れない』


 書いた後、紬はその付箋を灯理に渡した。


 灯理は、一枚ずつ読み、模造紙に貼った。


 青柳さんは、それを見つめていた。


 胸が苦しくなる。


 誰でも歓迎していたつもりだった。


 でも、入口は一つしか用意していなかった。


 来たら受付で申込書を書く。


 初回面談をする。


 活動内容を説明する。


 空いている席に座る。


 困ったら職員に話す。


 それができる人には、開かれた場所だった。


 でも、それが難しい人には、入口そのものが壁になっていた。


 青柳さんは言った。


「私は、歓迎の気持ちを掲示すれば届くと思っていました」


 灯理は頷いた。


「はい」


「でも、『誰でも』という言葉だけでは、誰にとって何が難しいのか見えないのですね」


「はい」


 灯理は、模造紙の横に新しい欄を作った。


『入口を増やす』


 そこに、みんなで案を出していった。


『見るだけの日』

『申込前に座れる場所』

『外のベンチでも話せる』

『申込書を一緒に読める』

『やさしい説明カード』

『お金はかからないと最初に書く』

『段差解消スロープ』

『ドアを開けやすくする』

『オンラインで初回相談』

『付き添い可能』

『静かな時間帯』

『年齢混合の日と年齢別の日』

『途中で帰ってもよい』

『来ない日があっても戻れる』

『話さなくても座れる』

『初回面談ではなく初回見学』

『質問に答えたくない時はカードを出せる』


 紬は、『話さなくても座れる』の付箋を見た。


 それがあるだけで、少し入りやすい気がした。


 青柳さんは、すぐに掲示を見直すことにした。


 これまで入口に貼っていた言葉。


『誰でも来てください』


 それを外すわけではない。


 でも、その下に、新しい言葉を加える。


『入り方はいくつかあります』


 青柳さんは、手書きでカードを作った。


『今日は見るだけでもいいです』

『申込書は一緒に読めます』

『話さなくても座れます』

『途中で帰っても大丈夫です』

『来ない日があっても、また来られます』

『お金はかかりません』

『付き添いの人と来ても大丈夫です』

『外のベンチから始めても大丈夫です』


 そのカードを見ながら、紬は小さく言った。


「外のベンチから始めても、いいんですか」


 青柳さんは頷いた。


「はい。今日、紬さんが教えてくれました」


「私が?」


「入口は、扉だけではなかったです」


 紬は、ガラス扉を見た。


 さっきまで、そこだけが入口だと思っていた。


 でも、外のベンチも入口になる。


 申込書を書く前の時間も入口になる。


 ただ見るだけの日も入口になる。


 話さないで座ることも入口になる。


 翌週、センターには小さな変化が生まれた。


 入口の段差には、仮のスロープが置かれた。


 受付の前には、申込書を書く前に座れる椅子が二つ置かれた。


 申込書には、難しい言葉の横に説明がついた。


『利用目的=ここで何をしたいか。まだ決まっていなくても大丈夫です』

『緊急連絡先=困った時に連絡する人』

『学校名=書きたくない時は、あとで相談できます』


 初回面談は、希望制になった。


 代わりに、最初は「見学カード」を選べるようになった。


『今日は見るだけ』

『少し座る』

『職員と話す』

『勉強する』

『次に来る日だけ決める』


 利用時間も少し見直された。


 週に一度だけ、夜の時間を延ばす。


 来られない人は、連絡なしでも戻ってきてよい。


 ただし、心配な時に連絡をもらえる方法も、一緒に決める。


 年齢の違う利用者が緊張しないよう、静かな時間帯と交流の時間帯を分けた。


 美咲は、スロープを使って中に入った。


「これだけで、全然違う」


 青柳さんは、その言葉をメモした。


 アミルは、申込書の説明カードを見ながら書いた。


「これなら、読める」


 蓮は、延長された夜の時間に来た。


「毎週は無理だけど、来られる日だけ来てもいいなら」


 杉田さんは、静かな時間帯にパソコンの前へ座った。


「若い人ばかりの日じゃないと、少し気が楽です」


 陽菜は、初回面談をせず、まず十五分だけ絵本コーナーに座った。


 帰る時、小さく「また来る」と言った。


 紬は、その日も最初は外のベンチに座った。


 灯理は隣にいたが、何も急がせなかった。


 青柳さんも、扉の前で待ち構えなかった。


 中からは、今日も笑い声が聞こえる。


 でも、前より少し違って聞こえた。


 入れない自分を責める音ではなく、まだ遠くにある場所の音。


 紬は、手元のカードを見た。


『紬の入り方カード』


 灯理と一緒に作ったものだった。


 一、外のベンチに座る。


 二、中を見ても、見なくてもいい。


 三、受付まで行くだけの日があってもいい。


 四、申込書は書かなくてもいい日がある。


 五、話したくない時は「今日は話しませんカード」を出す。


 六、五分で帰ってもいい。


 七、来ない日があっても、また来ていい。


 八、入れた日は、自分で丸をつける。


 紬は、カードを握りしめた。


「今日は、受付まで行ってみます」


 灯理は頷いた。


「はい」


 紬は立ち上がった。


 ガラス扉まで歩く。


 心臓が速い。


 手が冷たい。


 でも、今日は中に入らなくてもいい。


 受付まで行くだけでいい。


 青柳さんが、少し離れた場所から会釈した。


 近づきすぎない。


 声をかけすぎない。


 それも、青柳さんの練習だった。


 紬は、扉を開けた。


 中の空気は、外より少し暖かかった。


 本の匂い。


 紙の匂い。


 誰かが飲んでいる麦茶の匂い。


 椅子の脚が床をこする音。


 鉛筆の音。


 紬は、受付の前まで行った。


 そこには、新しいカードが置かれている。


『今日は何をしますか?』


 選択肢の中から、紬は一枚取った。


『見るだけ』


 青柳さんは、笑顔で頷いた。


「見るだけですね。どうぞ」


 それだけだった。


 質問はなかった。


 理由も聞かれなかった。


 紬は、受付横の椅子に座った。


 五分だけ。


 そう決めていた。


 でも、五分座れた。


 誰にも何も言われずに。


 誰でも来ていい場所で、入れない自分を責めるのではなく、自分の入り方で少しだけ入った。


 帰る時、紬は入り方カードの一番下に小さな丸をつけた。


 その丸は、誰かから見れば小さすぎるかもしれない。


 でも、紬には大きかった。


 次の週、紬は十分座った。


 その次の週、申込書を青柳さんと一緒に読んだ。


 書けない欄は空白のままにした。


 さらに次の週、奥の本棚から一冊だけ本を取った。


 まだ、誰かと長く話すことはできない。


 勉強もほとんどしていない。


 でも、センターに来るまでの道は少しずつ伸びていた。


 ある日、センターで「入口を増やす会」が開かれた。


 利用者と職員が集まり、変わったこと、まだ難しいことを出し合う。


 紬も参加した。


 最初は後ろの席に座っているだけだった。


 アミルが言った。


「申込書は読みやすくなりました。でも、イベントのチラシはまだ難しいです」


 美咲が言った。


「スロープは助かります。でも、雨の日に滑りやすいです」


 蓮が言った。


「夜の時間があるのは助かります。でも、家の用事が急に入ると来られません。来られない日があっても戻れるって、もっと見えるところに書いてほしいです」


 杉田さんが言った。


「若い人と話すのは楽しい時もあります。でも、疲れる時もあります。静かな席が残っているとありがたい」


 陽菜が言った。


「最初にたくさん聞かれないのがよかった。話したい時だけ話せるカードがもっとほしい」


 青柳さんは、一つずつメモを取った。


 以前なら、すぐに「それならこうしましょう」と提案していたかもしれない。


 でも、今日はまず聞いた。


 境界は、人によって違う。


 そして、一度取り除けば終わりではない。


 雨の日には、また別の境界が現れる。


 時間が変われば、別の境界が出てくる。


 人が増えれば、安心だった場所が入りにくくなることもある。


 紬は、手元の入り方カードを見た。


 そして、そっと手を挙げた。


 青柳さんが、急かさず待つ。


「私は」


 声が少しかすれた。


「誰でも来ていい、って言葉が最初は怖かったです」


 何人かが頷いた。


「でも、入り方はいくつかあります、って書いてあったら、少し楽でした」


 紬は、カードを見せた。


「私は、外のベンチから始めました。受付までの日もありました。見るだけの日もありました。だから、最初から中に入る以外の方法が、入口に書いてあるといいと思います」


 青柳さんは、ゆっくり頷いた。


「ありがとうございます。紬さんの入り方を、ほかの人にも使える形にしてよいですか」


 紬は、少し考えた。


「名前は出さないなら」


「もちろんです」


 灯理は、そのやり取りを見ていた。


 紬の入り方は、紬だけのものではなくなる。


 でも、紬から奪われるわけではない。


 誰かが同じ扉の前で止まった時の、もう一つの道になる。


 会の終わりに、青柳さんは新しい掲示案を読み上げた。


『ここには、いくつかの入り方があります』


『外のベンチから始める』

『入口まで来る』

『受付でカードを選ぶ』

『見るだけ』

『話さずに座る』

『申込書を一緒に読む』

『途中で帰る』

『来ない日があっても、また来る』


『あなたに合う入口を、一緒に探します』


 紬は、その文を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。


 誰でも来ていい。


 その言葉は、悪い言葉ではない。


 でも、そこにたどり着く道が見えない人もいる。


 だから、入り方を書く。


 入口を増やす。


 戻れる道を残す。


 数日後、センターの入口の掲示が変わった。


 以前の大きな文字は、少し小さくなって残っている。


『誰でも来てください』


 その下に、新しい言葉が並んだ。


『入り方はいくつかあります』


 外のベンチにも、小さなプレートがついた。


『ここから始めても大丈夫です』


 受付には、カードが置かれた。


『見るだけ』

『座る』

『話す』

『勉強する』

『一緒に申込書を読む』

『今日は帰る』


 帰るカードを見て、紬は少し笑った。


 帰ることも、入口の一部なのかもしれない。


 帰っても、また来られるなら。


 夕方、紬はセンターの中の窓際の席に座っていた。


 まだ奥のにぎやかな机には行けない。


 でも、この席なら座れる。


 机の上には、薄いノートと入り方カード。


 紬は、カードの端に一文を書いた。


『扉は開いていた。でも、入口は一つじゃなかった』


 書き終えて、その文字を見つめる。


 扉の前で止まっていた自分。


 外のベンチに座った自分。


 受付まで行った自分。


 見るだけカードを選んだ自分。


 申込書を一緒に読んだ自分。


 全部、自分だった。


 どれも遅すぎるわけではない。


 どれも失敗ではない。


 それぞれが、入口だった。


 青柳さんが、少し離れた場所から声をかけた。


「紬さん、お茶、置いておきますね」


 紬は頷いた。


「ありがとうございます」


 それだけ言えた。


 今日は、それで十分だった。


 夜、灯理は地域学習センターを出た。


 外の空気は、昼間より少し冷えている。ガラス扉の内側には、まだいくつもの明かりが灯っていた。窓際の席に、紬の姿が小さく見える。


 青柳さんが、入口の掲示を見上げていた。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、入口が増えていく時間を一緒に見せていただきました」


 青柳さんは、以前の掲示を手に持っていた。


『誰でも来てください』


「この言葉だけで十分だと思っていました」


「はい」


「気持ちは本当でした。誰でも来てほしかった。でも、来てほしい気持ちと、来られる入口を用意することは違うのですね」


 灯理は頷いた。


「はい」


「これからも、入口は変わると思います。利用者が変われば、また新しい壁が見つかる。だから、聞き続けます」


 灯理は、センターの中を見た。


 アミルが掲示カードを直している。


 美咲がスロープの滑り止めについて青柳さんにメモを渡している。


 蓮が夜の利用カレンダーに丸をつけている。


 杉田さんが静かな席でパソコンを開いている。


 陽菜が「今日は話しませんカード」を机に置いて絵を描いている。


 紬が、窓際でノートを開いている。


 誰もが同じ入口から入っているわけではない。


 でも、それぞれの入口から、少しずつ同じ場所にいる。


 灯理は鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 境界を学ぶことは、線の位置を覚えることではない。


 書類の言葉。


 避難放送。


 三階の音楽室。


 年齢で軽くされる声。


 ガラス扉の前で止まる足。


 それらは、必ずしも誰かの悪意で作られるわけではない。


 制度を整えたつもりの紙。


 正確に伝えたつもりの言葉。


 手伝えばよいと思った優しさ。


 配慮のつもりの年齢役割。


 歓迎のつもりの掲示。


 その一つひとつが、誰かにとっては越えにくい境界になることがある。


 だから、見る。


 どこで止まったのか。


 何が読めなかったのか。


 何が聞こえても動けなかったのか。


 どの段差で入れなかったのか。


 どの言葉で軽くされたのか。


 どの扉の前で足が止まったのか。


 責めるためではなく、入口を増やすために。


 同じ入口から全員を入れるのではなく、その人ごとに違う入り方を探す。


 申込書を一緒に読む。


 やさしい言葉に変える。


 場所を動かす。


 年齢ではなく理由を聞く。


 外のベンチから始める。


 見るだけの日を作る。


 途中で帰っても、また来られる道を残す。


 それも、学びの場をひらくことだった。


 灯理は、地域学習センターの明かりを振り返った。


 窓際の机には、紬の入り方カードが置かれている。


 その端には、紬の字で一文が残っている。


 扉は開いていた。でも、入口は一つじゃなかった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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