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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第23章 第3話:バリアフリーの授業――入れない音楽室


 奏は、三階へ続く階段を見上げていた。


 古い校舎の階段は、朝の冷えをまだ残している。


 手すりの金属はところどころ塗装が剥げ、踏み面の端は長い年月で少し丸くなっていた。廊下の窓から入る光は白く、階段の踊り場に四角い影を落としている。


 上の方から、ピアノの音が聞こえた。


 音楽室で、柏木先生が伴奏の確認をしているのだろう。


 今日は合唱練習の日だった。


 奏は、歌うことが好きだった。


 息を吸う瞬間。


 声が胸から喉を通り、空気に溶けていく感覚。


 隣の声と重なり、少しずつ一つの音になっていく時間。


 体育も、美術も、数学も嫌いではない。


 でも、音楽の授業だけは、朝から少し楽しみだった。


 ただし、音楽室が三階でなければ。


 奏は車椅子の手すりに指を置いた。


 この学校にエレベーターはない。


 普段の教室は、一階に調整されている。理科の実験も、できるだけ一階の多目的室を使うようにしてくれている。図書室の本も、司書の先生が運んでくれることがある。


 でも、音楽室だけは三階だった。


 グランドピアノ。


 合唱台。


 打楽器。


 楽譜棚。


 音響設備。


 柏木先生は、音楽室には音楽室でしかできない授業があると言っていた。


 それは、奏にもわかる。


 わかるから、何も言えなくなる。


「奏、行こう」


 友人の陸が、階段の横で腕まくりをした。


 陸の他にも、男子二人と担任の先生が来ている。


 いつものように、奏は一度車椅子から降り、先生に支えられながら階段を上がる。車椅子は陸たちが持ち上げて運ぶ。


 みんな慣れている。


 手順も決まっている。


 だからこそ、奏はつらかった。


「ごめんね」


 奏が言うと、陸はいつものように笑った。


「何回言うんだよ。大丈夫だって」


 大丈夫。


 陸は本当にそう思っている。


 優しい。


 クラスのみんなも優しい。


 でも、その優しさが増えるほど、奏の胸は重くなった。


 先生に支えられ、階段に足をかける。


 一段。


 もう一段。


 踊り場までが長い。


 手すりを握る手に力が入る。


 後ろでは、陸たちが車椅子を持ち上げていた。


「せーの」


 金属が階段の端に軽く当たる音。


 がこん。


 奏は振り返らないようにした。


 振り返ると、申し訳なさで息が詰まる。


 二階の踊り場で、奏は少し息を整えた。


「休む?」


 担任が聞く。


「大丈夫です」


 本当は、もう少し休みたかった。


 でも、音楽室では練習が始まってしまう。


 遅れたくない。


 三階に着いた時、奏の額にはうっすら汗が滲んでいた。


 車椅子に戻ると、足が少し震えている。


 音楽室の扉を開けると、クラスメイトたちが振り返った。


「奏、来た」


「お疲れ」


「大丈夫?」


 みんなの声は優しい。


 奏は笑った。


「大丈夫」


 音楽室には、木の床と古い楽譜の匂いがあった。


 壁には作曲家の肖像画が並び、窓際には譜面台が重ねられている。ピアノの黒い表面には、窓の光がぼんやり映っていた。


 柏木先生が手を叩いた。


「みんな、準備できましたね。奏さんも来ましたね。今日もみんな協力してくれて、いいクラスですね」


 その瞬間、奏の胸の奥が小さく沈んだ。


 いいクラス。


 協力してくれる。


 間違っていない。


 でも、奏にはその言葉が、こう聞こえた。


 奏が入れない場所に、みんなが頑張って入れてくれている。


 だから、感謝しなければならない。


 迷惑をかけないようにしなければならない。


 柏木先生の伴奏が始まった。


 発声練習。


 息を吸う。


 声を出す。


 けれど、階段を上がった後の奏の息は、まだ整っていなかった。


 最初の声がかすれる。


 隣の生徒が心配そうに見る。


 奏は、また笑った。


 大丈夫。


 その日の練習は、うまく声が伸びなかった。


 音程を外したわけではない。


 歌詞を間違えたわけでもない。


 ただ、胸の奥が詰まったまま、最後までほどけなかった。


 授業後、みんなが音楽室を出ていく中で、奏は少し遅れていた。


 また階段を降りる。


 また車椅子を運んでもらう。


 また「ありがとう」と言う。


 その繰り返しを思うだけで、肩が重くなる。


 音楽室の入口に、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理だった。


 学校のバリアフリー学習の支援で来ている先生だと、朝の職員朝会で紹介されていた。


 灯理は、奏のそばに来た。


「奏さん」


「はい」


「歌う前に、少し疲れていましたか」


 奏は、反射的に首を横に振りそうになった。


 でも、喉の奥で「大丈夫」が止まった。


 音楽室の窓から、校庭の声がかすかに聞こえる。


 奏は、手元の車椅子のブレーキを見た。


「先生」


「はい」


「みんなが優しいほど、入れないのは私のせいみたいになるんです」


 言った瞬間、胸の奥に溜まっていたものが崩れた。


 陸も、担任も、柏木先生も、悪くない。


 手伝ってくれる。


 声をかけてくれる。


 待ってくれる。


 でも、音楽室は三階にある。


 その事実は変わらない。


 毎回、自分だけが運ばれる。


 毎回、自分だけが申し訳なくなる。


 それなのに「いいクラス」と言われると、笑うしかなくなる。


 灯理は、奏の言葉を静かに受け止めた。


 そして、問いを返した。


「うん。では、参加するために変わるべきなのは、奏さん一人なのでしょうか」


 奏は、顔を上げた。


 変わるべきなのは、自分。


 階段を上がるために、自分が頑張る。


 周りに迷惑をかけないように、自分が我慢する。


 みんなに感謝できる自分になる。


 そう思っていた。


 でも、灯理の問いは、別の場所を指していた。


 自分だけではない。


 場の側。


 授業の側。


 学校の側。


 そこも、変わっていいのだろうか。


 放課後、音楽室へ行くまでの道を記録する授業が行われた。


 参加したのは、奏、陸、柏木先生、担任、教頭先生、灯理、そして数人のクラスメイトだった。


 灯理は、校舎の一階の廊下に模造紙を広げた。


『音楽室へ行く道の地図』


 そこには、一階の教室から三階の音楽室までの簡単な見取り図が描かれている。


 灯理は、付箋を配った。


『移動で起きていること』

『誰に負担がかかるか』

『奏さんが感じていること』

『友人が感じていること』

『先生がしていること』

『授業に本当に必要なもの』

『音楽室でなければできないこと』

『場所を変えられること』

『短期的にできること』

『長期的に考えること』


 陸は、少し戸惑っていた。


「俺たち、別に負担とか思ってないです」


 灯理は頷いた。


「はい。そう感じていることも大切です」


「なら、いいんじゃないですか」


 陸の声は少し強かった。


「奏が困ってるなら手伝うし。みんなでやれば行けるし」


 奏は、陸の方を見た。


 言いたいことが喉につかえる。


 陸は悪くない。


 むしろ、いつも一番に手伝ってくれる。


 だからこそ、言いづらい。


 灯理は、陸に言った。


「陸さんの手伝いたい気持ちと、奏さんが毎回手伝われる側になるしんどさは、同時に存在するかもしれません」


 陸は、言葉を失った。


 奏は、付箋に書いた。


『ありがとうと言うたび、少し苦しい』

『音楽室に着く頃には疲れている』

『階段で見られるのが嫌』

『遅れるのが怖い』

『みんなが優しいから、嫌だと言いにくい』

『歌う前に息が切れる』

『入れないのは自分の体のせいだと思ってしまう』


 書きながら、奏の手が少し震えた。


 陸は、その付箋を見た。


 目を見開いた。


「奏、そんなふうに思ってたの」


 奏は、小さく頷いた。


「陸が悪いわけじゃない」


「でも、俺、助けてるつもりだった」


「助けてくれてるよ」


 奏は、言葉を選んだ。


「でも、毎回助けてもらわないと入れない場所にいるのは、つらい」


 陸は、返事ができなかった。


 柏木先生は、腕を組んで地図を見ていた。


 少し苦しそうな顔をしている。


「私は、音楽室に来てもらうことばかり考えていました」


 柏木先生は言った。


「ピアノも、楽器も、音響も、楽譜もある。だから音楽室で授業をするのが当然だと」


 灯理は尋ねた。


「合唱練習に、本当に必要なものは何でしょう」


 柏木先生は、少し考えた。


「伴奏。譜面。全員が声を合わせられる場所。音を確認できる環境」


「グランドピアノでなければできないことは?」


「本番前の響きの確認や、細かな伴奏合わせには音楽室がいいです。でも、毎回でなくてもいいかもしれません」


 教頭先生が口を開いた。


「しかし、一階に音楽室を移すのはすぐには難しいです。エレベーター設置も予算が必要で、簡単ではありません」


 灯理は頷いた。


「はい。だから、短期的にできることと、長期的に考えることを分けましょう」


 模造紙に二つの欄が作られた。


『今すぐ変えられること』

『時間をかけて変えること』


 今すぐ変えられること。


 合唱練習の一部を一階の多目的室で行う。


 簡易キーボードを使う。


 タブレット音源を使う。


 移動式譜面台を運ぶ。


 楽譜を一階にも置く。


 音楽室を使う日は事前に回数を決め、奏が疲れない時間割にする。


 階段移動が必要な時は、本人に確認し、休憩時間を十分に取る。


 「手伝って当然」にしない。


 長期的に考えること。


 エレベーター設置の要望。


 校舎改修計画への反映。


 一階の空き教室の音楽活動利用。


 避難経路の確認。


 車椅子利用者だけでなく、怪我をした生徒、体調不良の生徒、保護者、地域利用者も含めた施設改善。


 教頭先生は、模造紙を見ながら言った。


「施設改善の要望書は、毎年出しています。ただ、優先順位の中でなかなか」


 灯理が静かに言った。


「奏さんが音楽室へ行く大変さは、個別の困りごとであると同時に、学校全体の入口を見直す情報でもあります」


 教頭先生は、奏を見た。


 そして、深く頷いた。


「要望書に、具体的な移動記録と授業への影響を入れます。緊急時の避難も含めて、学校として考える必要があります」


 柏木先生は、奏の付箋をもう一度読んだ。


『歌う前に息が切れる』


 その一文が、胸に刺さっていた。


 音楽の授業なのに、歌う前に疲れさせていた。


 自分は、奏の参加を大切にしているつもりだった。


 でも、奏を音楽室へ連れてくることを、参加だと思っていた。


 本当に必要なのは、奏が歌える状態で、みんなと同じ時間にそこにいられることだった。


 次の合唱練習は、一階の多目的室で行われた。


 朝から、クラスメイトたちが椅子を並べた。


 陸は、譜面台を運んでいる。


 別の生徒は、簡易キーボードを設置した。


 柏木先生は、タブレットに伴奏音源を入れ、スピーカーを確認している。


 窓際には、楽譜の束。


 黒板には、今日の練習目標。


『息を合わせる』

『言葉の始まりをそろえる』

『隣の声を聞く』


 奏は、一階の教室から多目的室へそのまま移動した。


 段差はない。


 階段もない。


 誰かに持ち上げられることもない。


 ただ、みんなと同じように廊下を進み、同じ時間に部屋へ入る。


 それだけのことが、胸にじんわり広がった。


 陸が、譜面台を奏の前に置いた。


「高さ、これでいい?」


「うん。ありがとう」


「他にいるものある?」


 奏は、少し考えて言った。


「今は大丈夫。必要な時は言う」


 陸は頷いた。


「わかった」


 その返事が、いつもより少し違って聞こえた。


 何でも先に手伝うのではなく、必要なことを聞く。


 それも、陸の学びだった。


 柏木先生が、キーボードの前に座った。


「今日は、多目的室で合唱練習をします。音楽室とは響きが違います。だから、よく聞いてください。部屋が変わると、自分たちの声の聞こえ方も変わります」


 先生は、少し間を置いた。


「そして、今日ここで練習するのは、誰かのために我慢して場所を変えたからではありません。全員が同じ時間に、同じ場所で歌うためです」


 奏は、顔を上げた。


 クラスの何人かも、奏を見た。


 でも、その視線は以前のように「大丈夫?」だけではなかった。


 一緒に始めるための視線だった。


 発声練習が始まる。


 息を吸う。


 今度は、階段の後ではない。


 胸の奥まで空気が入る。


 声を出す。


 音が多目的室の壁に当たり、少し柔らかく返ってくる。


 音楽室ほど響かない。


 でも、隣の声はよく聞こえる。


 陸の低い声。


 前の列の高い声。


 窓の外の風。


 キーボードの音。


 奏の声は、いつもよりまっすぐ伸びた。


 歌いながら、奏は思った。


 場所が降りてきた。


 自分だけが上へ運ばれるのではなく、みんなで歌う場所が、一階へ降りてきた。


 それは、誰かが我慢した結果ではない。


 みんなで、必要なものを見直した結果だった。


 練習の途中、柏木先生は言った。


「次回は音楽室で、響きの確認もします。ただし、全員で今日の移動計画を見直してからにします。必要な休憩時間、移動の方法、何のために音楽室を使うのかを確認します」


 奏は頷いた。


 音楽室を二度と使わない、という話ではない。


 でも、毎回当然のように三階へ行くのではない。


 なぜそこへ行くのか。


 そこへ行かなくてもできることは何か。


 どうすれば奏が「運ばれる人」ではなく、授業に参加する一人でいられるのか。


 その問いが、教室に残った。


 合唱練習の最後、奏は練習記録を書いた。


 今日の声の出方。


 多目的室で聞こえた音。


 次に確認したいこと。


 その端に、一文を書いた。


『運んでもらって入るより、みんなでいる場所が降りてきた』


 書き終えて、奏はその文字をしばらく見つめた。


 感謝していないわけではない。


 手伝ってくれる友人がいることは、ありがたい。


 でも、手伝いだけでは消えない境界がある。


 そこを見つめてもいい。


 場の側が変わることを求めてもいい。


 そのことを、奏は初めて少し信じられた。


 数日後、学校では施設改善に関する話し合いが開かれた。


 教頭先生、柏木先生、担任、養護教諭、事務職員、奏、陸、クラス代表、そして灯理が参加した。


 机の上には、音楽室までの移動記録が置かれている。


 階段の段数。


 移動にかかる時間。


 手伝う人数。


 奏の疲労。


 授業への影響。


 緊急時の避難上の課題。


 また、一階で実施した合唱練習の記録も並べられた。


 できたこと。


 足りなかった設備。


 次に必要な工夫。


 教頭先生は言った。


「エレベーター設置は、すぐに実現するとは言えません。ですが、具体的な記録を添えて、改修要望として提出します」


 奏は、静かに頷いた。


「はい」


「それと、短期的な対応として、音楽の授業場所を固定しません。内容によって、一階多目的室と音楽室を使い分けます」


 柏木先生が続けた。


「音楽室を使う時も、ただ連れていくのではなく、事前に目的を確認します。奏さんの体調や移動時間も含めて計画します」


 陸が手を挙げた。


「手伝いが必要な時、俺たちが勝手にやるんじゃなくて、奏に聞いてからにします」


 奏は、陸を見た。


 陸は少し照れくさそうだった。


「あと、手伝う人がいつも同じにならないように、先生とも相談します。俺だけが頑張るとか、奏が頼みづらいとか、そうならないように」


 灯理は、二人を見守っていた。


 善意は大切だ。


 でも、善意だけに頼る仕組みは、誰かを固定する。


 助ける人。


 助けられる人。


 頑張る人。


 感謝し続ける人。


 その形を少しずつほどくことも、学びだった。


 話し合いの終わり、奏は教頭先生に言った。


「私、音楽室が嫌いなわけじゃないです」


 教頭先生は頷いた。


「はい」


「歌うのも好きです。みんなが手伝ってくれるのも、ありがたいです」


 奏は、少し息を吸った。


「でも、入れない場所に入れてもらうだけだと、ずっと私が外にいる感じがします」


 教頭先生は、その言葉をゆっくり受け止めた。


「入れる場を、学校として作る必要がありますね」


「はい」


 夕方、奏は一階の多目的室に寄った。


 窓からは、傾いた光が床に伸びている。


 壁際には、移動式譜面台が折り畳まれて置かれていた。


 簡易キーボードには、布がかけられている。


 ここは、もともと音楽室ではなかった。


 でも、あの日、みんなで歌った場所だ。


 奏は、車椅子のブレーキをかけ、静かな部屋の真ん中にいた。


 そこへ陸がやってきた。


「奏」


「陸」


「今日の要望書、よかったな」


「うん」


 少し沈黙があった。


 陸は、頭をかいた。


「俺、手伝えばいいと思ってた」


「うん」


「今も、手伝いたいとは思ってる」


「うん」


「でも、それだけじゃなかったんだな」


 奏は、陸を見た。


「手伝ってくれて嬉しい時もあるよ」


「うん」


「でも、手伝ってもらわないと入れない場所ばかりだと、ちょっと疲れる」


「うん」


 陸は、真面目な顔で頷いた。


「次から、聞く」


「何を?」


「今、何が必要か。俺がやった方がいいことか。場所を変えた方がいいことか」


 奏は、少し笑った。


「それ、難しいね」


「うん。俺、たぶん間違える」


「その時は言う」


「言って」


 二人は、多目的室の窓から校庭を見た。


 部活動の声が遠くから聞こえる。


 いつもの学校の音。


 でも、奏には少しだけ違って聞こえた。


 学校は、固定された建物ではない。


 少しずつ動かせるものもある。


 椅子を動かす。


 譜面台を運ぶ。


 授業の場所を変える。


 要望書を書く。


 言葉を変える。


 人の役割を変える。


 すぐに変わらない階段があっても、その前で立ち止まったままにしない方法はある。


 夜、灯理は古い校舎を出た。


 外の空気は、少し冷えていた。校舎の三階には音楽室の明かりが残り、一階の多目的室の窓にも柔らかな光が灯っている。


 柏木先生が、玄関まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、音楽の場所が動く時間を一緒に見せていただきました」


 柏木先生は、三階を見上げた。


「私は、音楽室にあるものばかり見ていました。ピアノ、楽器、音響、楽譜棚」


「はい」


「でも、そこに来るまでに何が起きているかを見ていませんでした。教室に入れたら参加できたことになると思っていたのだと思います」


 灯理は頷いた。


「参加は、部屋の中に身体があることだけではないのかもしれませんね」


「はい。歌う前に息が切れていたら、音楽の時間ではなくなってしまう」


 柏木先生は、手元の練習記録を見た。


 奏の一文が写されている。


 運んでもらって入るより、みんなでいる場所が降りてきた。


「この言葉、忘れないようにします」


 教頭先生も、少し遅れて玄関に来た。


「白瀬先生、施設改善の要望書を作ります。すぐに結果は出ないかもしれませんが、具体的な記録を持って出します」


「はい」


「それと、他の特別教室についても確認します。奏さんだけの問題ではありませんね」


 灯理は静かに頷いた。


 参加を学ぶことは、本人が場に合わせて頑張ることだけではない。


 もちろん、友人の手助けは大切だ。


 先生の配慮も大切だ。


 その場でできる工夫も必要だ。


 けれど、それだけに頼ると、境界は残ったままになる。


 三階の音楽室。


 階段。


 重い車椅子。


 視線。


 ありがとうと言い続ける疲れ。


 歌う前に切れる息。


 それらを、本人の努力や周囲の優しさだけで越えるのではなく、場の側がどう変われば共にいられるかを考える。


 授業の場所を動かす。


 必要な道具を移す。


 時間割を調整する。


 長期的な改修を求める。


 緊急時の避難も含めて考える。


 助ける人と助けられる人を固定しない。


 それも、参加のための学びだった。


 灯理は、校舎を振り返った。


 三階の音楽室の窓と、一階の多目的室の窓。


 二つの明かりが、同じ校舎の中で静かに灯っている。


 多目的室の練習記録には、奏の字で一文が残っている。


 運んでもらって入るより、みんなでいる場所が降りてきた。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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