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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第23章 第2話:やさしい日本語の授業――伝わらない避難放送


 ミナは、避難放送を聞いていた。


 聞こえていた。


 体育館の壁に取り付けられたスピーカーから、少し割れた音で声が流れている。訓練用のサイレンが短く鳴り、ざわついていた人たちの顔が一斉に上がった。


「こちらは、防災かわの地区本部です。警戒レベル三、高齢者等避難を発令しました。土砂災害警戒区域にお住まいの方は、速やかに指定避難所へ避難してください」


 声は、はっきりしていた。


 日本語だった。


 でも、ミナの足は動かなかった。


 警戒レベル。


 高齢者等避難。


 発令。


 土砂災害警戒区域。


 速やかに。


 指定避難所。


 一つひとつの音は耳に入る。


 けれど、それらがつながって、今自分が何をすればいいのかに変わらない。


 体育館の中では、防災訓練に参加した地域の人たちが動き始めていた。


 高齢者が杖をついて立ち上がる。


 自治会の人が受付の机を整える。


 小学生たちが列を作る。


 ベストを着た防災担当の大人が、「こちらへお願いします」と声をかける。


 ミナは、その流れの中で立ち尽くしていた。


 隣にいた同級生が言った。


「ミナ、行くよ」


「どこへ?」


「避難所受付じゃない?」


「ここが避難所?」


「たぶん」


 たぶん。


 その言葉が、余計にミナを不安にした。


 今日は防災訓練だ。


 実際の災害ではない。


 だから、動けなくても大きな危険はない。


 でも、本当に大雨の日だったら。


 川が増えていたら。


 山の方で土砂崩れが起きるかもしれない時だったら。


 この放送を聞いても、ミナは動けないかもしれない。


 ミナは、日本語ができると思われている。


 学校では普通に会話する。


 友だちとも冗談を言う。


 授業も、わからないところはあるけれど、何とかついていっている。


 だから、「日本語がわかりません」とは言いにくい。


 日常会話ができるのに、避難放送がわからない。


 それをどう説明すればよいのかわからなかった。


 体育館の入口には、漢字の多い掲示が貼られていた。


『避難所開設訓練』

『受付はこちら』

『要配慮者スペース』

『物資配布所』

『情報掲示板』

『土砂災害警戒区域確認』


 ミナは、掲示の前で立ち止まった。


 文字は見える。


 でも、すぐには意味が取れない。


 何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、自分が対象なのか、家族にどう伝えればいいのか。


 わからない。


 その時、背後から声がした。


「ミナさん」


 振り返ると、三井先生がいた。


 小学校で子ども先生のまち歩き授業をした先生だ。今日は地域の防災訓練に学校側の担当として来ている。


 三井先生の隣には、黒い上着に使い込まれた革の鞄を持った白瀬灯理が立っていた。


 さらに、その後ろに、日本語教室のボランティアであるリナさんもいる。


 リナさんは、ミナの母が地域の日本語教室でお世話になっている人だった。


 三井先生が、ミナの顔を見て言った。


「大丈夫ですか」


 ミナは、反射的に「大丈夫です」と言いかけた。


 でも、言えなかった。


 喉の奥で言葉が止まる。


 大丈夫ではない。


 でも、防災訓練で、みんなが動いている中で、何が大丈夫ではないのか言うのは怖かった。


 灯理が、ミナの目線の高さに少し合わせるように立った。


「今、何がわかりにくかったですか」


 ミナは、スピーカーの方を見た。


 それから、掲示を見た。


 胸の中に溜まっていたものが、ぽつりとこぼれた。


「先生、日本語で聞こえているのに、何をすればいいのかわかりません」


 言った瞬間、目の奥が熱くなった。


 日本語がわからないわけではない。


 でも、わからない。


 その間にあるものを、ずっと言えなかった。


 灯理は、静かに頷いた。


「うん。では、言葉が聞こえることと、行動できることは同じなのでしょうか」


 ミナは、ゆっくり首を横に振った。


「違います」


「はい」


「聞こえても、動けない言葉があります」


 リナさんが、小さく頷いた。


「あります。とても、あります」


 防災訓練の責任者である川野さんは、体育館の中央で進行を確認していた。


 黄色い防災ベストを着て、手には厚いマニュアルを持っている。


 地域の自治会で長く防災担当をしている人だった。


 まじめで、準備も丁寧だ。


 今日の訓練のために、放送文、受付表、避難所の配置図、物資配布の流れまできちんと整えていた。


 外国人住民への対応も、気にはしていた。


 けれど、多言語翻訳を用意するには時間も人手も足りない。


 だから、まずは日本語の放送と掲示をきちんと作ることにした。


 正しい情報を出す。


 それが大切だと思っていた。


 灯理は、川野さんに声をかけた。


「川野さん、今の放送文を、少し一緒に見直してもよいでしょうか」


 川野さんは、困ったように眉を寄せた。


「何か間違っていましたか」


「間違っていたわけではありません」


 灯理は言った。


「ただ、聞こえていても行動につながらない人がいます」


 川野さんは、ミナを見た。


 ミナは少し身を縮めた。


 責めているわけではない。


 でも、自分が問題を起こしたような気がした。


 リナさんが言った。


「川野さん、防災の言葉は、日常の日本語とは違います。日本語で会話できる人でも、避難情報は難しいです」


 川野さんは、マニュアルを見た。


 そこには、正式な防災用語が並んでいる。


 警戒レベル。


 高齢者等避難。


 避難指示。


 緊急安全確保。


 土砂災害警戒区域。


 指定緊急避難場所。


 正確であることを重視してきた。


 間違った言葉で伝えれば、かえって混乱する。


 その不安もある。


 灯理は言った。


「正確さは大切です。その上で、行動できる言葉に変える入口を作れないでしょうか」


 川野さんは、少し考えてから頷いた。


「やってみましょう」


 体育館の一角に、長机が並べられた。


 そこに、放送文を書いた紙が置かれる。


 ミナ、リナさん、三井先生、川野さん、灯理、そして地域の子どもや高齢者も数人集まった。


 灯理は黒板代わりのホワイトボードに書いた。


『聞こえる言葉』

『わかる言葉』

『動ける言葉』


 そして、放送文を読み上げた。


「警戒レベル三、高齢者等避難を発令しました。土砂災害警戒区域にお住まいの方は、速やかに指定避難所へ避難してください」


 灯理は、赤いペンを持った。


「難しいと感じる言葉に印をつけましょう」


 ミナは、最初ためらった。


 でも、真っ先に「警戒レベル三」に丸をつけた。


 次に、「高齢者等避難」。


 「発令」。


 「土砂災害警戒区域」。


 「速やかに」。


 「指定避難所」。


 リナさんも頷いた。


「全部、大切な言葉です。でも、初めて聞く人には、とても難しいです」


 高齢の参加者が言った。


「日本人でも、警戒レベル三と四の違い、ぱっと言われると迷うよ」


 小学生が手を挙げた。


「高齢者等って、誰のこと? おじいちゃんだけ?」


 川野さんは、少し驚いたようにその声を聞いた。


 難しいのは、外国人住民だけではなかった。


 子どもにも、高齢者にも、忙しい時の大人にも、災害で慌てている人にも、長い言葉は届きにくい。


 灯理は、次の欄に書いた。


『誰が』

『いつ』

『どこへ』

『何を持って』

『何をする』


「この五つがわかるように、言葉を作り直してみましょう」


 川野さんが、正式な文を見ながら言った。


「まず、警戒レベル三は、高齢者等避難です。高齢者や障害のある人、乳幼児がいる家庭など、避難に時間がかかる人は避難を始める段階です」


 リナさんが、それを短く言い換える。


「早く逃げる必要がある人は、今、安全な場所へ行く」


 ミナが、さらに言った。


「お年より、体が不自由な人、小さい子どもがいる人」


 小学生が付け加える。


「赤ちゃんがいる家も?」


「はい」


 川野さんが頷く。


「赤ちゃんがいる家もです」


 ホワイトボードに新しい文が作られていく。


『大雨で危ないです。』

『お年より、体が不自由な人、小さい子どもがいる人、赤ちゃんがいる家の人は、今、安全な場所へ行ってください。』

『一人で行くのがむずかしい人は、近くの人に言ってください。』

『行く場所は、○○小学校の体育館です。』

『持つものは、薬、飲み物、スマートフォン、家の鍵です。』


 川野さんは、少し不安そうに言った。


「正式な用語を全部消してしまってよいのでしょうか」


 灯理は首を横に振った。


「消すのではなく、並べ方を変えましょう。正式な言葉も必要です。でも、最初に行動できる言葉を置く。その後に、正式名称を添えることはできます」


 リナさんが頷いた。


「やさしい日本語版と、正式な情報を一緒に出す。多言語版も、必要なところから作る」


 川野さんは、マニュアルの余白にメモを書いた。


『先に行動』

『短い文』

『やさしい言葉』

『絵』

『地図』

『正式名称は後ろに添える』


 次に、掲示を見直した。


『避難所開設訓練』


 ミナは首を傾げた。


「開設って、作ること?」


 リナさんが言う。


「そうですね。避難所を開けました、の方がわかりやすいです」


 新しい掲示案。


『ここは、逃げて来る場所です』

『受付はここです』

『名前を書きます』

『困ったことを言えます』

『水があります』

『トイレはこちら』

『休む場所はこちら』


 絵も加える。


 人が歩く矢印。


 体育館の地図。


 水のマーク。


 トイレのマーク。


 赤ちゃんのマーク。


 薬のマーク。


 耳が聞こえにくい人、車椅子の人、外国語が必要な人が助けを求められるカード。


 ミナは、避難カードの試作を作った。


 カードの一番上には、大きく書く。


『あぶない時に、見るカード』


 その下に、短い文。


『大雨です』

『山の近くはあぶないです』

『早く逃げる人は、今行きます』

『行く場所:○○小学校』

『持つもの:薬、水、スマホ、鍵』

『わからない時:このカードを見せてください』


 ミナは、文字の横に絵を描いた。


 雨。


 山。


 歩く人。


 学校。


 薬の袋。


 水のペットボトル。


 スマートフォン。


 鍵。


 描きながら、ミナは少しずつ息がしやすくなっていくのを感じた。


 さっきまで、自分は放送を聞いて動けない人だった。


 でも今は、動ける言葉を作る側にいる。


 わからなかったことが、誰かの役に立つ情報になっていく。


 灯理が言った。


「ミナさん、このカードを使って、避難の案内を試してみませんか」


 ミナは顔を上げた。


「私がですか」


「はい」


「でも、私、日本語うまくないです」


 リナさんが首を横に振った。


「ミナさんは、伝わらない場所を知っています。それは、とても大事です」


 川野さんも言った。


「お願いできますか。私たちでは気づかないことがあります」


 ミナは、手元のカードを見た。


 紙の端が少し曲がっている。


 手描きの絵は、まだ不格好だ。


 でも、さっきの放送文より、自分にはずっと歩き出しやすく見えた。


「やってみます」


 訓練の後半、もう一度放送が流れた。


 今度は、川野さんがマイクを持った。


「訓練放送です。大雨で危ないです。お年より、体が不自由な人、小さい子どもがいる人、赤ちゃんがいる家の人は、今、安全な場所へ行ってください。行く場所は、○○小学校の体育館です。薬、水、スマートフォン、家の鍵を持ってください。これは、警戒レベル三、高齢者等避難の訓練です」


 体育館の空気が、さっきと少し違った。


 子どもが「わかった」と言う。


 高齢者が「今行く人のことね」と頷く。


 外国人住民の一人が、リナさんの方を見て微笑んだ。


 ミナは、避難カードを持って入口に立った。


 カードを見せながら言う。


「ここは、逃げて来る場所です。受付は、あちらです。名前を書きます。わからないことがあったら、このカードを見せてください」


 言葉は完璧ではない。


 でも、相手は頷いた。


 ベトナム出身の女性が、カードを指差した。


「ここ、薬、持つ?」


「はい。いつも飲む薬です」


 ミナは、薬の絵を指差す。


「水も」


 女性は頷き、バッグの中を確認するしぐさをした。


 小学生が、ミナの隣に来た。


「私もカード持っていい?」


「うん」


 二人で、受付の場所を案内する。


 高齢者の男性が言った。


「このカード、字が大きくていいな」


 川野さんは、その様子を見ていた。


 自分の作ったマニュアルは、間違っていなかった。


 でも、届いていなかった部分があった。


 正確な言葉を使うこと。


 制度上の用語を間違えないこと。


 それは大事だ。


 けれど、災害の時に必要なのは、聞いた人が動けることだ。


 言葉が歩き出せる形になっていることだ。


 訓練が終わった後、参加者で振り返りをした。


 ホワイトボードには、二つの列ができている。


『わかりにくかった言葉』

『動ける言葉』


 警戒レベル三。


『早く逃げる人は、今行く』


 高齢者等避難。


『お年より、体が不自由な人、小さい子どもがいる人、赤ちゃんがいる家の人は、安全な場所へ行く』


 指定避難所。


『行く場所。今日は○○小学校』


 速やかに。


『今』


 土砂災害警戒区域。


『山の近くで、土や石がくずれるかもしれない場所』


 発令。


『市が知らせました』


 ミナは、その表を見ながら思った。


 難しい言葉をなくすだけではない。


 難しい言葉の向こうにある行動を見つける。


 その行動が見えれば、少し動ける。


 川野さんは、参加者に向かって言った。


「今日の放送文とカードを、次の訓練までに正式な形に整えます。やさしい日本語版、多言語版、絵カードを組み合わせます」


 リナさんが言った。


「日本語教室でも一緒に確認します。外国人住民だけではなく、子どもや高齢者にも試してもらいましょう」


 三井先生も頷いた。


「学校でも、防災用語を子どもたちと一緒に言い換える授業ができます」


 ミナは、避難カードの端に一文を書いた。


『聞こえた言葉が、歩き出せる言葉になった』


 その文字を見て、胸の奥が温かくなった。


 日本語ができるかできないか。


 その線だけでは、何も見えない。


 聞こえているのに動けない言葉がある。


 わかっているふりをしてしまう時間がある。


 でも、わからないと言えたら、そこから言葉を作り直せる。


 わからなかった自分も、誰かを助ける側になれる。


 夕方、体育館の片づけが終わる頃、外の空は薄い橙色に変わっていた。


 避難所の受付机は畳まれ、椅子が重ねられている。壁には、今日作ったやさしい日本語カードの試作が何枚か貼られていた。


 ミナは、その前に立っていた。


 灯理が隣に来る。


「ミナさん」


「はい」


「今日、何が変わりましたか」


 ミナは、少し考えた。


「言葉が、少し怖くなくなりました」


「はい」


「前は、わからない言葉があると、私がだめなんだと思っていました。でも、今日、言葉の方も変われるって思いました」


 灯理は頷いた。


「はい」


「それと、私がわからなかったことも、役に立つんですね」


「とても」


 ミナは、照れたように笑った。


「次の訓練までに、母にもカードを見せます。母は漢字がもっと苦手だから」


「一緒に読めそうですか」


「はい。絵もあるから」


 少し離れた場所で、川野さんがリナさんと話していた。


「多言語版も必要ですが、やさしい日本語版はすぐに始められますね」


「はい。でも、外国人だけのためではありません」


「今日、よくわかりました。子どもにも、高齢者にも、私にも必要でした」


 川野さんは、自分の防災マニュアルを見た。


 その余白には、今日の言葉がいくつも書き込まれている。


『聞こえるだけでは足りない』

『最初に行動』

『文を短く』

『絵を使う』

『誰が、いつ、どこへ』

『歩き出せる言葉』


 夜、灯理は体育館を出た。


 空気には、雨上がりの土の匂いが残っている。遠くの山の輪郭が夕闇の中に沈み、学校の窓には薄い明かりが灯っていた。


 三井先生が、校門の前まで見送りに来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、言葉が歩き出す授業を一緒に見せていただきました」


 三井先生は、体育館を振り返った。


「前に、子どもの高さから町を見る授業をしました。その時も、大人が見えていない町があると感じました」


「はい」


「今日は、言葉にも同じことがあるのだと思いました。話している側には見えているつもりでも、聞く側からは道が見えないことがある」


 灯理は頷いた。


「言葉にも高さや距離があるのかもしれませんね」


「はい。学校でも、防災用語だけでなく、普段の連絡やプリントを見直したいです」


 三井先生は少し笑った。


「子どもたちに、先生の言葉が歩き出せる言葉かどうか聞いてみます」


 灯理も微笑んだ。


 鞄の中には、古い校舎の中学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 言葉を学ぶことは、正しい表現を覚えることだけではない。


 もちろん、正確な言葉は大切だ。


 警戒レベル。


 避難指示。


 高齢者等避難。


 指定避難所。


 土砂災害警戒区域。


 それらの言葉には、制度や命を守るための意味がある。


 けれど、災害の時、聞いた人が動けなければ、言葉はそこで止まってしまう。


 聞こえているのに、行動できない人がいる。


 読めているようで、意味が取れない人がいる。


 わからないと言えず、周りに合わせて立ち尽くす人がいる。


 その時、必要なのは、相手の努力だけではない。


 言葉の側も変わる必要がある。


 短くする。


 順番を変える。


 最初に今することを言う。


 漢字を減らす。


 絵を添える。


 地図を示す。


 誰が、いつ、どこへ、何を持って行くのかをはっきりさせる。


 正式な言葉を消すのではなく、その前に歩き出せる言葉を置く。


 灯理は、夕暮れの体育館を振り返った。


 壁には、ミナが作った避難カードが貼られている。


 その端には、ミナの字で一文が残っている。


 聞こえた言葉が、歩き出せる言葉になった。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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