第23章 第1話:書類の授業――読めない申請書
真帆は、市役所の窓口で渡された申請書を見つめていた。
紙は、たった三枚だった。
でも、真帆には壁のように見えた。
市役所の一階は、朝から人の声で満ちている。番号札を呼ぶ機械の音。コピー機の低い唸り。ベビーカーの車輪が床を転がる音。窓口で説明する職員の声。誰かのため息。
生活支援窓口は、入口から少し奥にあった。
椅子に座って順番を待つ人たちの顔は、それぞれ違う方向を見ている。掲示板には、制度の案内がいくつも貼られていた。
『就学援助制度のお知らせ』
『医療費助成について』
『児童扶養手当現況届』
『生活相談はこちら』
『オンライン申請が便利です』
便利。
その文字を見て、真帆は少しだけ唇を噛んだ。
何が便利なのか、よくわからない。
家には、母の古いスマートフォンが一台ある。画面はひびが入り、充電もすぐ減る。オンライン申請と言われても、途中で何か間違えたら戻れる気がしない。
高校一年生の真帆は、今日、母の代わりに市役所へ来ていた。
弟の給食費と学校用品の支払いがきつくなっている。
母は朝と夕方に別々の仕事をしている。
昼は介護施設の清掃、夜はスーパーの品出し。
休みの日は少ない。
疲れて帰ってきた母は、食卓に置かれた学校からの封筒を見て、何度も開けたり閉じたりしていた。
「就学援助、申請した方がいいのかな」
そう言った母の声は、小さかった。
真帆は、その言葉を聞いて、すぐに「した方がいいよ」とは言えなかった。
支援。
援助。
そういう言葉には、少し重さがあった。
受けたら、誰かに知られるのだろうか。
学校で何か言われるのだろうか。
母が「だめな親」みたいに見られるのだろうか。
そんなことを考える自分が嫌だった。
困っているのは本当なのに。
母は一度、市役所へ行ったことがある。
けれど、書類を出した時に「添付書類が不足しています。不備がありますので受付できません」と言われた。
その日、母は帰ってきて、しばらく台所に立ったまま動かなかった。
「また今度にする」
そう言って、申請書を封筒に戻した。
その「今度」は、ずっと来なかった。
だから今日は、真帆が来た。
弟の学校からも、就学援助の案内が来ている。
高校の事務室で宮下さんに相談したら、「市役所で申請書をもらって、わからないところは一緒に確認しましょう」と言ってくれた。
でも、市役所で紙を受け取った瞬間、真帆は足が止まった。
申請者。
世帯員。
所得証明。
扶養。
添付書類。
該当欄。
申立書。
振込先。
本人確認書類。
不備がある場合は受付不可。
言葉は日本語だった。
でも、意味がまとまって入ってこない。
窓口の向こうで、倉本さんという職員が説明していた。
「こちらが申請書です。申請者欄には保護者の方のお名前を記入してください。世帯員の欄には同居されているご家族全員です。所得証明については、課税情報の確認に同意いただける場合はこちらにチェックを入れていただければ省略できる場合があります。ただ、状況によっては追加で添付書類をお願いすることがあります」
倉本さんは、丁寧に話している。
早口ではない。
声も怖くない。
でも、真帆の頭の中では、言葉が積み重なって崩れていった。
申請者は母。
世帯員は家族全員。
所得証明は、いるのかいらないのか。
同意にチェック。
省略できる場合。
追加で添付。
状況によって。
何を持ってくればいいのか。
今日できることは何なのか。
母が書く欄はどこなのか。
弟の分は誰の名前を書くのか。
真帆は、申請書を握る指に力を入れた。
倉本さんが言った。
「ご不明点はありますか」
真帆は、反射的に首を横に振りそうになった。
わかりません。
何がわからないのかも、わかりません。
そう言うのが怖かった。
高校生なのに。
日本語なのに。
紙を読めない自分が悪いように感じた。
真帆は、小さく言った。
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。
窓口から少し離れたベンチに座ると、真帆は申請書をもう一度開いた。
欄がたくさんある。
住所。
氏名。
生年月日。
学校名。
児童生徒名。
世帯員。
収入状況。
申請理由。
振込先。
同意欄。
署名。
印。
印鑑が必要なのか。
今は印鑑がいらない手続きもあると聞いたことがある。
でも、この紙には印という文字がある。
母の通帳はどこにあるのか。
本人確認書類は、母のものなのか、真帆のものなのか。
弟の保険証もいるのか。
真帆は、紙を閉じた。
胸の奥が苦しい。
市役所の中は明るいのに、自分だけが暗い場所にいるようだった。
その時、隣から声がした。
「真帆さん」
顔を上げると、そこに白瀬灯理がいた。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
学校と市役所をつなぐ生活支援学習の相談で来ている先生だった。
真帆は、高校の事務室で一度だけ会ったことがある。
その横には、学校事務職員の宮下さんもいた。
「宮下さん」
「市役所に来ると聞いていたので、少し様子を見に来ました」
宮下さんの声は、いつもの事務室と同じで落ち着いていた。
真帆は、手元の申請書を見た。
急に恥ずかしくなった。
「すみません。まだ、何も」
灯理は、真帆の横に腰を下ろした。
「申請書を受け取ったところですね」
「はい」
「読んでみて、どうでしたか」
真帆は、少し笑おうとした。
でも、うまく笑えなかった。
「先生」
「はい」
「支援があるって言われても、ここまで来る道が読めません」
言葉にした瞬間、目の奥が熱くなった。
ここまで来る道。
市役所までの道ではない。
制度までの道。
申請までの道。
助けまでの道。
それが読めない。
灯理は、申請書を見た。
そして、真帆に問いを返した。
「うん。では、制度を用意することと、制度にたどり着けることは同じなのでしょうか」
真帆は、ゆっくり首を横に振った。
「違うと思います」
「はい」
「制度があるって言われても、この紙が読めなかったら、ないのと同じみたいです」
宮下さんが、静かに息を吸った。
それは、学校でも何度も見てきたことだった。
制度の案内は配っている。
封筒にも入れている。
保護者会でも伝えている。
でも、申請まで進まない家庭がある。
それは、関心がないからではない。
困っていないからでもない。
紙の言葉、必要書類、窓口の怖さ、過去の不備の経験、時間のなさ。
その全部が、入口の前に積もっていることがある。
灯理は言った。
「真帆さん、この申請書を読む授業をしてみませんか」
真帆は、少し驚いた。
「授業?」
「はい。制度を覚える授業ではなく、制度へたどり着く道を読めるようにする授業です」
宮下さんは頷いた。
「私も一緒に確認します」
灯理は、窓口の倉本さんにも声をかけた。
倉本さんは、最初少し戸惑った。
「申請書を読む授業、ですか」
「はい。倉本さんの説明が足りないということではありません」
灯理は言った。
「ただ、利用する人がどこでつまずくのかを一緒に見えるようにしたいのです」
倉本さんは、真帆の手元の申請書を見た。
窓口で、何度も見てきた紙。
自分にとっては見慣れた書類。
必要事項を記入してもらうための紙。
けれど、それが真帆には壁に見えている。
倉本さんは、少し背筋を正した。
「私も参加します」
市役所の相談室が一つ使われることになった。
小さな部屋に、机と椅子が四つ。
壁には、市の生活支援制度のポスターが貼られている。
真帆、灯理、宮下さん、倉本さんが机を囲んだ。
灯理は、申請書のコピーを広げ、色鉛筆と付箋を置いた。
「まず、難しいと思った言葉に印をつけましょう」
真帆は、赤い鉛筆を持った。
最初は遠慮していた。
でも、一つ印をつけると、次々に出てきた。
申請者。
世帯員。
所得証明。
扶養。
添付書類。
該当欄。
申立書。
振込先。
不備。
受付不可。
課税情報。
同意。
真帆は、赤い印だらけになった紙を見て、少し恥ずかしくなった。
「こんなにわかってないんですね」
灯理は首を横に振った。
「こんなに、つまずく場所が見えました」
倉本さんは、その紙をじっと見た。
自分が毎日使っている言葉が、赤く染まっている。
どれも制度上は必要な言葉だ。
でも、説明なしに並べば、壁になる。
宮下さんが言った。
「一つずつ、言い換えてみましょう」
灯理は、別の紙に表を作った。
『書類の言葉』
『何を聞かれているか』
『どう書けばよいか』
『誰に確認するか』
申請者。
倉本さんが説明しようとした。
「申請者は、制度を利用するために申請を行う方で」
真帆の表情が少し曇る。
倉本さんは、言葉を止めた。
そして言い直した。
「この場合は、手続きをする保護者の名前です。真帆さんのお母さんの名前を書きます」
真帆は、表に書いた。
『お母さんの名前』
世帯員。
「同じ家に住んでいて、生計を同じくしている方で」
倉本さんはまた言いかけ、少し考えた。
「一緒に暮らしている家族の名前です」
真帆は書く。
『一緒に住んでいる人。母、私、弟』
所得証明。
「収入がわかる書類です。ただ、同意欄にチェックすれば、市で確認できる場合があります」
真帆は眉を寄せた。
「いるんですか、いらないんですか」
倉本さんは、そこが曖昧に聞こえていることに気づいた。
「まず、ここにチェックを書けば、今すぐ所得証明を取りに行かなくてよい場合があります。ただし、確認できなかった時は後からお願いすることがあります」
灯理が言った。
「『今日できること』と『後日必要かもしれないこと』に分けましょう」
真帆は、少し息を吐いた。
そう分けると、少し見える。
全部を今日持ってこなければならないわけではない。
でも、後で必要になるかもしれない。
次に、添付書類。
倉本さんは、実物の見本を出してくれた。
本人確認書類の例。
保険証。
マイナンバーカード。
通帳のコピー。
学校からの通知。
真帆は、実物を見ると少し安心した。
文字だけより、何を持ってくればよいかがわかる。
灯理は、机にカードを並べた。
『今日できること』
『家で確認すること』
『学校に聞くこと』
『市役所にもう一度聞くこと』
真帆は、申請の流れを地図にしていった。
一、申請書をもらう。
二、わからない言葉に印をつける。
三、母の名前、住所、弟の学校名を書く。
四、同意欄を確認する。
五、通帳と本人確認書類を家で確認する。
六、学校名や学年で迷ったら宮下さんに聞く。
七、市役所へ戻る。
八、不備があった場合、何が足りないかを確認カードに書いてもらう。
九、もう一度出せる。
最後の「もう一度出せる」を書いた時、真帆は手を止めた。
「不備があったら、もうだめなのかと思っていました」
倉本さんの顔が少し曇った。
「受付できない、と言われると、そう感じますよね」
真帆は頷いた。
「母が前に言われて、それで行けなくなりました」
倉本さんは、静かに息を吐いた。
「言い方も、戻り方も足りなかったのだと思います」
灯理は言った。
「では、『不備があった時の戻り方カード』を作れますか」
倉本さんは、すぐにメモを取った。
『今日は受付できません』ではなく、
『今日はこの書類が足りません』
『必要なものはこれです』
『次に来る時は、これを持ってきてください』
『わからない時は、この窓口に聞いてください』
『もう一度申請できます』
真帆は、そのカード案を見た。
それだけで、ずいぶん違うと思った。
だめです、で終わらない。
次に何をすればよいかが見える。
それなら、母ももう一度来られるかもしれない。
休憩の時間、真帆は母に電話をした。
母は仕事の合間だった。
「真帆? どうだった?」
「まだ出してない。でも、書き方を一緒に見てもらってる」
「ごめんね。お母さんが行けばよかったのに」
「ううん」
真帆は、手元の流れ地図を見た。
「お母さん、前に不備って言われた時、何が足りないか書いてもらった?」
「ううん。たぶん説明されたけど、わからなくて」
「今度は、足りないものカードをもらえるようにしてくれるって」
母は、少し黙った。
「そんなの、あるの?」
「今、作ってる」
電話の向こうで、母が小さく笑った。
「作ってるって、すごいね」
真帆も少し笑った。
「うん。私もよくわかんないけど」
母の声が少し柔らかくなった。
「一緒に見てもらえるなら、今度は行けるかもしれない」
「うん。一緒に行こう」
電話を切った後、真帆は胸の中が少し軽くなっていることに気づいた。
申請することは、恥ずかしいことではないのかもしれない。
助けを求めることは、負けることではないのかもしれない。
制度は、自分たちがずるをするためのものではなく、生活と学びを守るためにある。
それでも、たどり着く道が見えなければ、使えない。
だから、道を作る。
午後、真帆たちは「やさしい説明版」を作った。
市役所の通常の説明文を、真帆が読んで、つまずいたところに印をつける。
倉本さんが制度として必要な情報を確認する。
宮下さんが学校から見た家庭への伝わり方を考える。
灯理が、情報の順番を整理する。
最初に置いたのは、制度名ではなかった。
『学校で必要なお金に困った時、使える制度があります』
その次に、
『申請すると、給食費や学用品費などの一部が助けられることがあります』
さらに、
『申請しても、学校の友だちに知らされるものではありません』
真帆は、その一文を見てほっとした。
ずっと気になっていたことだった。
次に、
『まず持ってくるもの』
『後で必要になることがあるもの』
『わからない時に聞く場所』
『申請書を一緒に読める場所』
『不備があった時の戻り方』
難しい言葉は、横に言い換えをつけた。
『世帯員=一緒に住んでいる家族』
『振込先=お金を受け取る銀行口座』
『添付書類=申請書と一緒に出す紙』
『不備=足りないところ、直すところ』
真帆は、自分が最初に赤で印をつけた言葉が、少しずつ読める形へ変わっていくのを見た。
紙は、まだ紙だった。
でも、壁ではなくなっていく。
地図になっていく。
数日後、真帆は母と一緒に市役所へ来た。
母は、入口で少し立ち止まった。
以前、不備と言われた記憶が残っている。
足が重そうだった。
真帆は、鞄から確認カードを出した。
「大丈夫。足りなかったら、何が足りないか書いてもらえるから」
母は、真帆を見た。
「真帆の方がしっかりしてるね」
「私もわかんなかったよ」
真帆は正直に言った。
「でも、わかんないところに印をつけたら、聞けた」
窓口には、倉本さんがいた。
真帆と母に気づくと、穏やかに会釈した。
「お待ちしていました」
母は、少し緊張した声で言った。
「書類、見ていただけますか」
「もちろんです。一緒に確認しましょう」
倉本さんは、申請書を上から順に確認した。
足りないところが一つあった。
振込先の支店名が空欄だった。
母の表情が固まる。
倉本さんは、すぐにカードを出した。
『今日足りないもの』
『銀行の支店名』
『確認方法』
『通帳の表紙裏を見る、または銀行アプリ・キャッシュカードで確認』
『次にすること』
『支店名がわかったら、この欄に記入してください』
『もう一度来る必要はありません。今日ここで確認できれば受付できます』
母は、カードを見て、ゆっくり息を吐いた。
「だめ、ではないんですね」
「はい。ここを確認すれば大丈夫です」
母は鞄から通帳を出した。
倉本さんが、支店名の場所を指した。
真帆が申請書に書き込む。
母が署名する。
受付印が押される。
その音が、小さく響いた。
ぽん。
真帆は、その音を聞いた瞬間、胸の奥にあった固いものが少しほどけるのを感じた。
申請が通るかどうかは、審査がある。
すぐに結果が出るわけではない。
でも、入口で止まらなかった。
紙の前で固まったまま、帰らなかった。
母も、帰らなかった。
市役所を出る時、母は小さく言った。
「怖くないわけじゃないけど、前よりは来られるかもしれない」
真帆は頷いた。
「うん」
学校では、その後、宮下さんが事務室前に新しい案内を置いた。
『申請書を一緒に読む時間があります』
小さなカードも作られた。
『わからない言葉に印をつけて持ってきてください』
『何が必要か一緒に確認します』
『市役所へ聞くことを整理できます』
『不備があっても、戻り方を確認できます』
生徒や保護者が手に取りやすいように、封筒の中にも入れられた。
市役所の窓口にも、やさしい説明版が置かれた。
倉本さんは、窓口で説明する時、最初にこう聞くようになった。
「この紙の中で、わかりにくい言葉はありますか」
以前は、「ご不明点はありますか」と聞いていた。
似ているようで、違った。
わからないところを出してよい空気が少し生まれる。
完璧ではない。
すべての人がすぐに申請できるようになったわけでもない。
でも、紙は少しずつ、壁ではなく道になっていった。
夕方、真帆は高校の事務室で、申請書のコピーを見直していた。
宮下さんが、確認済みの書類をファイルに挟む。
「真帆さん、よく頑張りましたね」
真帆は首を横に振った。
「一人だったら、無理でした」
「一人で読む紙ではなかったのかもしれませんね」
その言葉に、真帆は少し笑った。
机の上には、最初に赤い印をつけた申請書のコピーがあった。
難しい言葉だらけの紙。
その余白に、真帆は鉛筆で一文を書いた。
『読めない紙の向こうにも、助けはあった』
書き終えてから、その文字を見つめる。
読めない自分が悪いのではなかった。
読めないままにされている道があった。
そこに印をつけ、聞き、言い換え、カードにし、地図にすれば、少しずつ進める。
助けは、紙の向こうにあった。
でも、その紙を一緒に読む人が必要だった。
夜、灯理は市役所を出た。
自動ドアが開くと、外の空気は少し冷たかった。庁舎の窓には、まだいくつもの明かりが残っている。生活支援窓口の奥では、倉本さんがやさしい説明版の配置を整えていた。
宮下さんが、隣に立った。
「白瀬先生、ありがとうございました」
「こちらこそ、書類が地図に変わる時間を一緒に見せていただきました」
宮下さんは、市役所の窓を見た。
「学校では、制度の案内を配っているつもりでした」
「はい」
「でも、配ることと、申請まで届くことは違うのですね。家庭が読めないまま抱えている紙が、どれだけあるのか考えさせられました」
灯理は頷いた。
「紙の前で止まっている人は、制度を拒んでいるわけではないかもしれませんね」
「はい。これからは、事務室も入口の一つになれるようにしたいです」
少し離れたところで、倉本さんも灯理に頭を下げた。
「白瀬先生、私も学びました」
「何をでしょう」
「制度を説明することが、支援だと思っていました。でも、説明の紙を渡しただけでは、たどり着けない人がいる。制度への道を一緒に作ることも、窓口の仕事なのですね」
灯理は静かに微笑んだ。
「はい」
倉本さんは、手元のカードを見た。
『不備があった時の戻り方カード』
「受付不可、で終わらせない言葉を増やします」
灯理は頷いた。
市役所の前の道には、仕事帰りの人が足早に通っている。
誰かの鞄の中にも、読めない紙が入っているのかもしれない。
誰かの家のテーブルにも、開けられない封筒が置かれているのかもしれない。
支援を学ぶことは、制度名を覚えることだけではない。
就学援助。
医療費助成。
生活支援。
子育て支援。
それらが存在することは大切だ。
けれど、存在しているだけでは届かない。
申請者。
世帯員。
添付書類。
所得証明。
不備。
受付不可。
その言葉の前で止まる人がいる。
窓口へ行く時間がない人がいる。
オンライン申請を途中で閉じてしまう人がいる。
過去に戻された経験で、もう一度来られなくなる人がいる。
だから、道を作る。
わからない言葉に印をつける。
必要書類を実物で見る。
今日できることと後日必要なことを分ける。
不備があった時の戻り方を示す。
学校から窓口へつなぐ。
一緒に紙を読む。
制度の入口を、紙の向こうからこちら側へ少し引き寄せる。
灯理は、庁舎の明かりを振り返った。
そのどこかの机に、真帆が赤い印をつけた申請書のコピーが残っている。
余白には、真帆の字で一文が書かれている。
読めない紙の向こうにも、助けはあった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




