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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第22章 第5話:灯を渡す授業――先生のいない教室


 結は、駅の改札前で何度も時計を見た。


 朝から降っていた雨は、まだやんでいない。


 駅舎の屋根を叩く雨音と、アナウンスの声が重なっている。濡れた傘の匂い、線路から立ち上る湿った鉄の匂い、足早に通り過ぎる人たちの靴音。


 電光掲示板には、遅延の文字が赤く光っていた。


 灯理が乗る予定だった列車は、大雨の影響で途中駅に止まっている。


 遠方の小さな学校。


 今日、灯理と結はその学校を訪問する予定だった。


 依頼状には、こう書かれていた。


『答えを急ぐ子どもたちがいます。どうか一度、授業を見に来てください。』


 灯理は少し遅れて到着する。


 そう連絡が入った。


 けれど、授業開始時刻は待ってくれない。


 学校では、安西先生と子どもたちが待っている。


 結は、スマートフォンの画面を見つめた。


 灯理からのメッセージ。


『結先生、先に教室へ向かってください。授業は、そこにいる人たちから始められます』


 結は、画面を閉じた。


 胸がざわつく。


 灯理がいない。


 それだけで、足元の床が少し遠くなるような気がした。


 結は、これまで灯理のそばで多くの授業を見てきた。


 問いを急がず置く授業。


 声にならない不安をカードにする授業。


 失敗を地図に変える授業。


 教師が一人で抱えないための授業。


 自分でも少しずつ、教室で試してきた。


 でも、どこかで思っていた。


 灯理がいるからできるのだ、と。


 灯理が問いを返してくれるから。


 灯理が沈黙を怖がらずに待ってくれるから。


 灯理が教室の空気をほどいてくれるから。


 自分は、その横で学んでいるだけなのではないか。


 結は、鞄の持ち手を握り直した。


 改札を出る。


 雨の中、学校へ向かった。


 山あいの小さな学校は、古い木造校舎と新しい増築部分がつながった建物だった。


 校庭には水たまりがいくつもでき、鉄棒の下の砂が黒く湿っている。昇降口の前には、子どもたちの傘が色とりどりに並んでいた。


 安西先生は、玄関で結を待っていた。


 少し疲れた表情をしている。


「結先生、白瀬先生は」


「列車が止まっていて、少し遅れるそうです」


 安西先生の顔に、不安が広がった。


「そうですか……」


 その沈黙に、結の不安も大きくなる。


 安西先生は、小さく息を吐いた。


「実は、子どもたちも今日を楽しみにしていて。白瀬先生が来るって聞いて、少し期待しすぎているところもあります」


「期待しすぎている?」


「はい。答えを急ぐ子どもたち、と依頼状には書きましたが……子どもたちは、外から来る先生が何か特別な方法を教えてくれると思っているようで」


 安西先生は廊下の奥を見た。


「私も、どこかでそう思っていたのかもしれません。白瀬先生が来れば、教室が変わると」


 結は、胸の奥がちくりとした。


 それは、自分の不安と同じだった。


 白瀬先生がいなければ、始められない。


 白瀬先生がいなければ、問いの授業はできない。


 安西先生が言った。


「授業開始まで、あと五分です」


 結は、教室の方を見た。


 子どもたちの声が聞こえる。


 明るく、少し落ち着かない声。


「白瀬先生、まだ?」


「答えを教えてくれる先生でしょ?」


「何の授業するの?」


「早く始めようよ」


 結は、喉の奥が乾くのを感じた。


 自分が立つしかない。


 でも、本当にできるのか。


 その時、手帳の中に挟んでいた一枚のカードが指に触れた。


 以前、自分で書いた言葉。


『問いを消さないために、私も一人で立ち続けない』


 結は、そのカードを見た。


 一人で立ち続けない。


 けれど、今この場には、自分しかいないのではないか。


 いや、違う。


 教室には安西先生がいる。


 子どもたちがいる。


 これまで出会った人たちの問いがある。


 灯理がいなくても、灯理が置いてきた方法は、結の中に残っている。


 結は、ゆっくり息を吸った。


「安西先生」


「はい」


「白瀬先生が来るまで、始めましょう」


 安西先生は、少し驚いた。


「結先生が?」


 結は頷いた。


 まだ怖い。


 でも、怖いまま教室に入ることはできる。


「はい。私たちで始めます」


 教室に入ると、子どもたちの視線が一斉に結へ向いた。


 小学五、六年生の合同授業。


 机は班ごとに並べられ、黒板には安西先生が書いた今日のテーマが残っている。


『答えを急ぐ前に』


 けれど、その下は空白だった。


 一番前の席にいた朔が、すぐに手を挙げた。


「白瀬先生は?」


 結は答えた。


「少し遅れています」


 教室がざわめいた。


「えー」


「じゃあ、授業どうするの」


「待つ?」


 朔が言った。


「先生、結局、正解は誰が教えてくれるんですか」


 その声は、責めるようでもあり、本気で困っているようでもあった。


 朔は、何でも早く正解を知りたがる子だった。


 算数の問題も、考える前に解答集を見たがる。


 調べ学習では、検索結果の一番上をすぐに写す。


 作文では、AIに例文を出してもらい、それを少し直す。


 間違えることが嫌いだった。


 わからない時間が嫌いだった。


 考えている間に誰かに先を越されるのが嫌だった。


 早く正解を知れば安心できる。


 それが朔の考えだった。


 結は、朔を見た。


 以前の自分なら、すぐに説明したかもしれない。


 答えを急がないことの大切さ。


 考える過程の意味。


 間違いから学ぶ価値。


 けれど、今はそれを言葉だけで渡しても届かない気がした。


 結は、黒板の前に立った。


 チョークを持つ。


 手が少し震えている。


 黒板に書いた。


『答えを急ぐ前に、何を確かめたいのか』


 教室が少し静かになった。


 朔が眉を寄せる。


「正解を知りたいんです」


 結は頷いた。


「うん。では、正解を知る前に、今の自分が何を急いでいるのか見てみませんか」


 言った瞬間、結の中で灯理の声が重なったような気がした。


 でも、それは灯理の言葉を真似ただけではなかった。


 自分の声だった。


 結は、安西先生に目で合図した。


 安西先生が、用意していたプリントを配る。


 プリントには、算数の文章題と、調べ学習の短い課題が載っている。


 普通なら、解き方を考えて答えを書く。


 けれど、今日のプリントには、答え欄の前にいくつもの小さな欄があった。


『すぐ答えを見たい理由』

『間違えると怖いこと』

『今わかっていること』

『今わからないこと』

『答えを見る前の予想』

『友だちの考えから聞いたこと』

『答えを見た後に変わったこと』

『途中で急いだ場所』


 子どもたちは、プリントを見てざわついた。


「答えの欄、最後じゃん」


「先に予想って何」


「間違えたら恥ずかしい」


 朔は、すぐにプリントを裏返した。


「解答ないんですか」


「今日は、まだ配りません」


 結が言うと、朔は不満そうに椅子にもたれた。


「じゃあ、時間かかる」


「はい。少し時間をかけます」


「時間かけても間違えたら意味ないじゃん」


 結は、少し間を置いた。


「朔さんにとって、間違えることはどういうことですか」


 朔は、鉛筆を指で回した。


「無駄」


「無駄」


「だって、正解じゃないなら、消すだけだから」


 教室の何人かが頷いた。


 結は、黒板に書いた。


『間違い=消すだけ?』


 そして言った。


「今日は、消す前に、間違える前の自分が何を考えていたのかを残してみます」


 朔は、まだ納得していない顔だった。


 それでも、鉛筆を持った。


 最初の問題は、川の水量と橋の幅を考える算数の応用問題だった。


 数値を読み取り、条件に合わせて計算する。


 朔は、問題文を一度読んだだけで顔をしかめた。


「こういうの、嫌い」


「どこが嫌ですか」


 結が聞く。


「何を計算すればいいかわからない」


「では、それを書きましょう」


「え?」


「『今わからないこと』の欄に」


 朔は、しぶしぶ書いた。


『何を計算するかわからない』


 結は頷いた。


「それは大事な情報です」


「情報?」


「はい。朔さんは、答えがわからないだけではなく、何を計算するかを探しているところにいます」


 朔は、少しだけ鉛筆を止めた。


 次に、『すぐ答えを見たい理由』の欄。


 朔は迷わず書いた。


『間違えたくないから』


 さらに、『間違えると怖いこと』。


 手が止まる。


 結は急がせなかった。


 教室には、鉛筆の音と雨の音が響いている。


 朔は、小さく書いた。


『みんなより遅いと思われること』


 その文字を見た時、結はすぐに何か言いたくなった。


 遅くてもいい。


 比べなくていい。


 でも、今日はその問いをすぐに閉じない。


「書いてくれてありがとう」


 それだけ言った。


 朔は、少し驚いたように顔を上げた。


 授業の途中、安西先生が用意していたオンライン接続が開いた。


 灯理はまだ到着していない。


 でも、今日は灯理が事前につないでくれていた過去の教室の人たちが、短く参加する予定になっていた。


 画面に、最初の顔が映った。


 杏奈だった。


 子ども議会で、マイクの前で声が届かなかった少女。


 今は少し背が伸び、画面越しに落ち着いた声で話した。


「私は、前は大きな声で発表できないと、意見はなかったことになると思っていました。でも、地図やカードに書いたら、小さい声でも消えませんでした」


 杏奈は、手元のカードを見せた。


『小さい声だった。でも、地図の上では消えなかった』


 結の教室の子どもたちは、画面を見つめた。


 杏奈は続ける。


「答えを急ぐ時って、私は『ちゃんと言わなきゃ』って焦っていた時に似ている気がします。言葉になる前のものも、カードに残すと後で見られます」


 朔は、プリントの自分の欄を見た。


『みんなより遅いと思われること』


 消そうとしていた鉛筆の跡を、そのまま残した。


 次に画面に映ったのは、誠司だった。


 職業訓練センターで、古い資格証のとなりに新しい修了カードを置いた人。


 誠司は作業着姿で、少し照れくさそうに話した。


「私は、新しい機械の画面を見るのが怖かったです。自分の古い経験が役に立たない気がして。でも、古い手の感覚と、新しいデータを並べたら、どちらも使えました」


 誠司は言った。


「答えだけを見ると、自分の途中の考えが消えます。途中に何を見ていたかを残すと、次に使えることがあります」


 黒板に、結は書き足した。


『途中は、次に使える』


 次に、こはるがつながった。


 子ども先生のまち歩き授業で、大人に町を教えた少女。


 こはるは、画面の向こうで小さく手を振った。


「私は、大人が町のことを全部知っていると思っていました。でも、大人は私たちの高さから見た町を知りませんでした」


 こはるは、まち歩き地図を掲げる。


『小さいから見える町もある』


「答えも、大人の高さから見る答えと、子どもの高さから見る途中があると思います。小さい気づきも、書いたら授業になります」


 朔の隣の子が、小さく言った。


「途中も高さなのかな」


 結は、その呟きを聞き逃さなかった。


「今の言葉、黒板に書いてもいいですか」


 その子は、少し照れながら頷いた。


 結は書いた。


『途中にも高さがある?』


 教室の黒板には、少しずつ問いが増えていく。


『答えを急ぐ前に、何を確かめたいのか』

『間違い=消すだけ?』

『途中は、次に使える』

『途中にも高さがある?』


 安西先生は、その黒板を見ていた。


 自分の教室で、こんなふうに問いが並ぶのを初めて見た気がした。


 これまで、子どもたちが答えを急ぐたび、安西先生も焦っていた。


 もっと考えなさい。


 すぐ調べない。


 答えだけ写さない。


 そう言ってきた。


 でも、子どもたちがなぜ急ぐのかを、聞いていなかったのかもしれない。


 間違えたくない。


 遅いと思われたくない。


 わからない時間が不安。


 評価されるのが怖い。


 そうした理由を置かないまま、考えなさいと言っても、子どもたちは答えに逃げるしかなかったのかもしれない。


 授業の後半、子どもたちは班で問題に取り組んだ。


 答えを見る前に、それぞれ予想を書く。


 友だちの考えを一つ聞く。


 自分と違うところを赤ではなく青で囲む。


 間違いを消す前に、どう考えたかを短く書く。


 朔は、最初、何度も「答えまだ?」と聞いた。


 でも、隣の子が自分とは違う考え方を書いているのを見て、少しだけ手を止めた。


「なんで先にそこ計算したの」


「橋の幅が先に必要だと思ったから」


「でも、水量もいるじゃん」


「うん。だから、どっちが先かなって」


 朔は、自分のプリントに書いた。


『幅と水量、どっちを先に使うかわからない』


 それから、少し考えて、矢印を引いた。


『条件を分ける?』


 結が近くを通りかかった。


「今、何をしていますか」


 朔は、少しむっとしながらも言った。


「答えじゃなくて、条件を分けてます」


「はい」


「でも、たぶん間違ってます」


「間違っているかどうかを見る前に、朔さんがどこを分けようとしたかが残りましたね」


 朔は、プリントを見た。


 いつもなら、すぐ消していた途中の線。


 今日は残っている。


 ぐちゃぐちゃで、少し恥ずかしい。


 でも、その線を見れば、自分がどこで迷ったのかがわかる。


 やがて、結は解答を配った。


 教室が少しざわつく。


 子どもたちは、急いで丸つけを始めようとした。


 結は言った。


「丸つけの前に、答えを見た後に変わったことを書きましょう」


「えー」


「先に丸つけしたい」


「はい。その気持ちもありますね」


 結は微笑んだ。


「でも、今日は変わったことを一つだけ書いてからにしましょう」


 朔は、解答を見た。


 自分の答えは違っていた。


 やっぱり。


 一瞬、全部消したくなった。


 でも、横にある欄を見た。


『答えを見た後に変わったこと』


 朔は、しばらく考えた。


 そして書いた。


『水量を先に全部使うんじゃなくて、条件ごとに分ける。僕は全部いっぺんに見ようとして急いだ』


 さらに、最後の欄。


『途中で急いだ場所』


 朔は、鉛筆を止めた。


 教室の雨音が、少し大きく聞こえた。


 答えを見たい。


 早く丸かバツを知りたい。


 みんなより遅いと思われたくない。


 わからないままいるのが嫌。


 その全部が、自分の手を急がせていた。


 朔は、ゆっくり書いた。


『わからないところを書かないで、すぐ答えを見ようとしたところ』


 書いた後、少しだけ息を吐いた。


 結は、教室の後ろからそれを見ていた。


 灯理はまだ来ていない。


 でも、授業は進んでいる。


 子どもたちは、答えだけではなく、途中を見始めている。


 その時、廊下から足音が聞こえた。


 教室の扉が静かに開く。


 雨に濡れた黒い上着。


 使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理だった。


 教室の子どもたちが振り向く。


「あ、白瀬先生?」


「遅れてきた!」


 灯理は、少し息を整えながら微笑んだ。


「遅くなりました」


 安西先生が、ほっとしたように近づこうとした。


 でも、灯理は黒板を見た。


 そこには、すでに問いが並んでいる。


『答えを急ぐ前に、何を確かめたいのか』

『間違い=消すだけ?』

『途中は、次に使える』

『途中にも高さがある?』


 机の上には、途中の問いカードが広がっている。


 子どもたちは、答えだけでなく、自分がどこで急いだのかを書いている。


 灯理は、前へ出なかった。


 教室の後ろに立ち、その光景を静かに見守った。


 結は、一瞬だけ灯理を見た。


 助けを求めそうになった。


 でも、灯理は何も奪わなかった。


 ただ、頷いた。


 その頷きだけで、結は続けられる気がした。


 授業の最後、子どもたちは「途中の問いカード」を一枚ずつ書いた。


 正解ではない。


 今日、自分の中に残った問い。


『間違いを消す前に、何を残せるか』

『早く答えを見ると、何を見ないままにしているのか』

『友だちの途中を聞くと、なぜ自分の途中も見えるのか』

『わからない時間を、どうやって怖くなくできるか』

『正解を知った後、途中の考えはどこに行くのか』


 朔は、カードを前にして長く考えていた。


 結は急がせなかった。


 やがて、朔は書いた。


『正解を見る前に、僕がどこで急いだのかを見たい』


 書き終えると、朔はそのカードを少し離して眺めた。


 自分で書いたのに、少し不思議だった。


 正解を見たい気持ちは、まだある。


 きっと明日もある。


 問題を見たら、すぐ答えを探したくなる。


 でも、その前に、自分がどこで急いでいるのかを見る。


 それなら、できるかもしれない。


 カードを黒板に貼る。


 結は、そのカードを見て胸の奥が熱くなった。


 授業が終わった後も、子どもたちはしばらく黒板の前に集まっていた。


 自分のカードを見る子。


 友だちのカードを読む子。


 答えの丸バツより、途中の言葉について話している子。


 安西先生は、その様子を見ながら灯理に言った。


「白瀬先生、すみません。到着が遅れて大変だったでしょう」


 灯理は首を横に振った。


「私は、遅れてよかったのかもしれません」


 安西先生は驚く。


「え?」


 灯理は、結を見た。


 結は、子どもたちと一緒に問いカードを整理している。


「もう、教室には灯がありましたね」


 安西先生は、黒板を見た。


 そして、結の後ろ姿を見た。


 灯理がいなくても、授業は始まっていた。


 結が問いを置き、安西先生が支え、子どもたちが途中を残した。


 外から来た誰かが教室を変えたのではない。


 教室の中にいる人たちが、自分たちで問いを持ち始めていた。


 放課後、結は灯理と並んで教室に残った。


 雨は小降りになっている。


 窓ガラスには水滴が残り、校庭の水たまりに薄い空が映っている。


 黒板には、まだ子どもたちの問いカードが貼られていた。


 結は、ぽつりと言った。


「怖かったです」


「はい」


「白瀬先生がいないと、私はできないと思っていました」


 灯理は、結の言葉を待った。


「でも、教室に入ったら、子どもたちがいて、安西先生がいて、これまでのカードがあって。私は、一人で何か特別なことをしたわけではありませんでした」


「はい」


「問いを置く方法を、少しずつ受け取っていたのだと思います」


 結は、黒板の朔のカードを見た。


「受け取ったものを、そのまま真似るのではなく、自分の教室で使う。それが、灯を渡すということなのかもしれません」


 灯理は微笑んだ。


「結先生の授業でしたね」


 結は、少し照れたように笑った。


「まだ、そう言われると落ち着きません」


「はい」


「でも、今日は少しだけ、自分の手で置けた気がします」


 灯理は頷いた。


 教室の後ろでは、安西先生が問いカードを写真に撮っていた。


 この授業を一度きりで終わらせないために。


 次の算数でも。


 調べ学習でも。


 作文でも。


 答えを見せる前に、途中を残す時間を作るために。


 安西先生は、結に言った。


「今日のプリント、学校用に作り直してもいいですか」


 結は驚いた。


「もちろんです」


「答えを急ぐ前に、何を確かめたいのか。これを、うちの教室でも続けたいです」


 結は、少し考えてから言った。


「私も、今日の授業で変えたいところがあります。もっと子どもたちが自分で問いカードを作れるようにしたいです」


 安西先生が頷く。


「一緒に作りましょう」


 灯理は、その会話を聞いていた。


 問いが、渡っている。


 灯理から結へ。


 結から安西先生へ。


 安西先生から子どもたちへ。


 子どもたちから、また次の授業へ。


 その流れは、誰か一人のものではなかった。


 夕方、雨はあがった。


 校庭の水たまりに、雲の切れ間からの光が差している。


 子どもたちは帰り支度をしながら、まだ今日の問題のことを話していた。


「俺、途中めっちゃ汚かった」


「でも、どこで間違えたかわかったじゃん」


「次から答え見る前に、わからないところ書く」


「めんどいけど、ちょっと面白かった」


 朔は、鞄に問いカードのコピーをしまっていた。


 結が声をかける。


「朔さん、そのカード、持って帰るんですね」


「うん」


「どうしてですか」


 朔は、少し考えてから言った。


「家で宿題する時、すぐ答え見そうになるから」


「はい」


「その時、どこで急いでるか見る」


 結は頷いた。


「いいですね」


 朔は、少し照れたように言った。


「でも、答えも見ます」


「はい。答えも大切です」


「途中も、ちょっと見る」


「はい」


 朔は、鞄を背負って教室を出ていった。


 その背中を見送りながら、結は深く息を吐いた。


 完璧な変化ではない。


 明日になれば、またすぐ答えを見たくなるかもしれない。


 でも、朔の鞄には、問いカードが入っている。


 それだけで、今日の授業はどこかへ続いている。


 校門の前で、安西先生が灯理と結を見送った。


 雨上がりの空は、薄く明るい。


 山の木々から水滴が落ち、土の匂いが立ち上っている。


「今日は、本当にありがとうございました」


 安西先生が言った。


 結は首を横に振った。


「こちらこそ、一緒に授業を作らせていただきました」


 安西先生は、少し笑った。


「白瀬先生を待っていたはずなのに、待っている間に授業が始まりました」


 灯理は言った。


「待つ時間にも、始められることがありましたね」


 安西先生は頷いた。


「これからは、外から来た先生に変えてもらうだけでなく、自分たちの教室で続けられる形を考えます」


 結は、校舎を振り返った。


 教室の黒板には、まだ問いカードが残っている。


 朔のカードも、その中にある。


 正解を見る前に、僕がどこで急いだのかを見たい。


 その一文が、夕方の教室に静かに残っている。


 灯理は、鞄を肩にかけ直した。


 中には、新しい依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 学びが受け継がれるとは、先生本人がそこにいることだけではない。


 問いを置く方法。


 沈黙を待つ時間。


 カードに残す工夫。


 声にならない不安を見えるようにする地図。


 失敗を次の人のために編集するノート。


 人の手が何を見ているのかを受け取る記録。


 戻ってきた席を失敗で終わらせない場。


 小さい高さから町を見るまなざし。


 それらが、誰かの手に渡り、その場所に合わせて変わりながら続いていくことだった。


 灯理が黒板の前に立たなくても、問いは置かれる。


 灯理が答えを返さなくても、誰かが問いを返す。


 灯理が待たなくても、誰かが沈黙を待つ。


 先生のいない教室ではなく、灯が渡った教室。


 そこでは、もう次の人がチョークを持っている。


 灯理は、雨上がりの校舎を振り返った。


 教室の黒板には、朔の問いカードが貼られている。


 そこには、子どもの字で一文が残っている。


 正解を見る前に、僕がどこで急いだのかを見たい。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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