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旅する先生と、世界の教室  作者: 最後に残った形


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第22章 第4話:子ども先生の授業――大人が座った小さな机


 こはるは、黒板の前に立つ大人たちを見上げていた。


 小学校の多目的室には、朝から少し落ち着かない空気が漂っている。


 いつもなら子どもたちが集まる部屋に、今日は地域の大人たちが並んで座っていた。自治会の人、商店街の人、民生委員の人、公園管理の担当者、近所の高齢者、保育園の先生、市役所の職員。


 椅子が足りず、何人かの大人は子ども用の小さな椅子に腰を下ろしている。


 膝が机に当たりそうになって、少し窮屈そうだった。


 その様子を見て、こはるは少しだけ口元を緩めた。


 今日の授業は、「子ども先生のまち歩き授業」。


 地域の大人たちが、小学校へ来ている。


 最初、大人たちは自分たちが子どもに町を教えるのだと思っていた。


 町の歴史。


 昔の商店街。


 祭りの由来。


 川の名前。


 地蔵の話。


 そういう話を、子どもたちに聞かせる会。


 こはるも、それは嫌いではない。


 町の昔の話は面白い。


 長谷川自治会長は、昔の写真をたくさん持っている。


 川にまだ小魚が多かった頃の話も、駅前に映画館があった頃の話も、聞けば驚くことがある。


 でも、こはるにはずっと言いたいことがあった。


 大人たちは、この町のことをよく知っている。


 でも、こはるが毎日歩いている町を、本当に知っているのだろうか。


 歩道の段差。


 車のライトがまぶしいトンネル。


 信号待ちで前が見えにくい横断歩道。


 雨の日に水がたまる通学路。


 公園の壊れたベンチ。


 背が低いと見えない掲示板。


 ランドセルを背負っていると通りにくい狭い道。


 大人が「危なくない」と言う場所が、子どもには怖いことがある。


 大人が「たいしたことない」と言う段差が、低学年の子にはつまずく場所になることがある。


 こはるは、前の席に座っている長谷川さんを見た。


 長谷川さんは、この町に七十年以上住んでいる自治会長だった。


 声が大きく、歩くのも速い。


 こはるたちに会うと、いつも「元気か」と言って頭を撫でようとする。


 悪い人ではない。


 でも、こはるが何か言おうとすると、よくこう言う。


「まだ小さいのに、よく見てるな」


 褒めているつもりなのだろう。


 でも、こはるには少し悔しかった。


 まだ小さい。


 小さいから。


 その言葉のあとで、こはるの意見はふわっと軽くなる。


 担任の三井先生は、教卓の横で少し緊張していた。


 子どもたちが町で見つけたことを、大人にちゃんと聞いてもらいたい。


 そのために、何度も準備してきた。


 こはるたちは、まち歩き地図を作った。


 赤いシールは怖い場所。


 青いシールは好きな場所。


 黄色いシールは困る場所。


 緑のシールは残したい場所。


 写真も撮った。


 メモも書いた。


 けれど、大人たちが本気で聞いてくれるかどうかは、まだわからない。


 多目的室の後ろには、一人の先生が立っていた。


 黒い上着に、使い込まれた革の鞄。


 白瀬灯理。


 地域学習の支援者として来ている先生だった。


 灯理は、子どもたちの地図を一枚ずつ見ていた。


 授業の最初、長谷川さんが立ち上がった。


「今日は、町のことをみなさんにお話しできるのを楽しみにしてきました。この町には長い歴史があります。私たち大人が知っていることを、ぜひ子どもたちに伝えたいと思います」


 大人たちが頷く。


 こはるは、手元の地図を握った。


 また、大人が教える会になるのだろうか。


 それも大事だ。


 でも、今日はそれだけでは困る。


 こはるは、思わず手を挙げた。


 三井先生が少し驚く。


「こはるさん」


 こはるは立ち上がった。


 大人たちの視線が集まる。


 少し怖い。


 でも、今言わないと、また流れてしまう。


「先生」


「はい」


「大人は私たちの高さから町を見たことがないんですか」


 多目的室が静かになった。


 長谷川さんが、瞬きをする。


「高さ?」


 こはるは、自分の頭の上に手を置いた。


「大人は背が高いから、見えるものが違います。私たちが怖い場所とか、見えない場所とか、通りにくい場所とか、たぶん知らないと思います」


 少し言いすぎたかもしれない。


 こはるは、手元の地図を握り直した。


 灯理が、静かに前へ出た。


 こはるの言葉を受け止めるように頷く。


 そして、問いを返した。


「うん。では、町をよく知っているのは、長く住んでいる大人だけなのでしょうか」


 大人たちは、互いに顔を見合わせた。


 三井先生は、少し息を吐いた。


 灯理は黒板に書いた。


『子ども先生のまち歩き授業』


 その下に、さらに書く。


『今日は、子どもが先生です』


 こはるは、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 子どもが先生。


 その言葉だけで、地図を持つ手に力が戻った。


 灯理は大人たちに向かって言った。


「今日は、まず子どもたちに町を案内してもらいます。大人の皆さんは、解決策を急いで言う前に、子どもたちが何を見ているのかを聞いてください」


 長谷川さんが、少し戸惑ったように笑った。


「私らが教わるんですか」


 灯理は頷いた。


「はい。今日は、そういう授業です」


 子どもたちは班に分かれ、大人たちを案内することになった。


 こはるの班には、長谷川さん、商店街の女性、保育園の先生、市役所の道路担当者が入った。


 灯理は、それぞれの大人に小さなカードを配った。


『低い視点カード』


 そこには、こう書かれていた。


『子どもの歩く速さで歩く』

『子どもの高さで見る』

『ランドセルの幅を想像する』

『すぐに解決策を言わず、まず聞く』

『怖い、困る、好き、遊びたいをそのまま受け取る』

『ほかの人の目線も重ねる』


 長谷川さんは、カードを読んで少し照れたように頭をかいた。


「子どもの高さで見る、か」


 こはるは、長谷川さんを見上げた。


「しゃがんでください」


「今?」


「はい。今から練習です」


 班の子どもたちが少し笑った。


 長谷川さんは、「よし」と言ってその場にしゃがんだ。


 大きな体が低くなる。


 視線が、こはると同じくらいになった。


「どうですか」


 こはるが聞く。


 長谷川さんは、多目的室の机を見た。


「机が高いな」


「そうです」


「黒板も、下の方がよく見える」


「私たちは、いつもこの高さです」


 長谷川さんは、少し真面目な顔になった。


「なるほどな」


 まち歩きが始まった。


 最初の場所は、学校の近くの横断歩道だった。


 大人たちは、いつも何気なく通る場所だ。


 信号もある。


 車道も広い。


 見通しも悪くない。


 長谷川さんは言った。


「ここはそんなに危なくないと思ってたが」


 こはるは、ランドセルを背負い直した。


「じゃあ、ここに立ってください」


 こはるは、横断歩道の手前に立った。


 身長の高い大人なら、駐車場のフェンス越しに車の流れが見える。


 でも、こはるの高さでは、フェンスの下半分と植え込みが視界をふさいでいた。


「車、見えますか」


 こはるが聞く。


 長谷川さんは立ったまま答えようとして、灯理のカードを思い出したのか、しゃがんだ。


 視線が下がる。


 すると、表情が変わった。


「見えにくいな」


「はい」


「車の屋根しか見えん」


「低学年の子は、もっと見えません」


 市役所の道路担当者もしゃがんだ。


「植え込みの高さが原因ですね」


 こはるは、すぐに言った。


「切ってくださいって言いたいんじゃないです。花は好きです。でも、横断歩道のところだけ低くできないかなって」


 道路担当者は、手帳にメモをした。


「植え込みの管理者を確認します」


 こはるは、少し驚いた。


 本当にメモしてくれた。


 次に、暗いトンネルへ向かった。


 学校から公園へ抜ける短い地下道だ。


 大人にはただの近道かもしれない。


 でも、こはるはここが苦手だった。


 昼でも薄暗い。


 壁に落書きがある。


 雨の日は床が滑る。


 夕方になると、車のライトが入口から差し込んで、足元の段差が見えにくくなる。


 トンネルの入口で、こはるは大人たちに言った。


「ここは、しゃがんで歩いてください」


 長谷川さんが目を丸くする。


「しゃがんで歩くのか」


「はい。私たちの高さで」


 大人たちは、少しぎこちなくしゃがんだ。


 背中を丸め、低い姿勢でトンネルに入る。


 すると、出口の光が大人の立った時とは違って見えた。


 車のライトが、低い視線に直接入る。


 床の小さな段差は、影に隠れてわかりにくい。


 壁の落書きも、子どもの目の高さに近く、思ったより圧迫感がある。


「これは……」


 長谷川さんが呟いた。


 こはるは言った。


「大人が立って歩くと、上の方が見えると思います。でも、私たちはライトがまぶしいです。あと、ここ、雨の日に水がたまります」


 商店街の女性が、床を見た。


「本当だ。端が濡れてる」


 保育園の先生も頷いた。


「小さい子を連れて通る時、ここは怖いですね。手をつないでいても足元が見えにくい」


 こはるは、黄色いシールを地図に貼った。


『ライトがまぶしい』

『段差が見えにくい』

『雨の日に滑る』

『落書きが怖い』


 道路担当者は写真を撮った。


「照明の向きと段差表示、確認します」


 長谷川さんは、まだしゃがんだまま出口の方を見ていた。


「何十年も通ってるのに、この高さで見たことはなかったな」


 こはるは、その言葉を聞いて少し胸がすっとした。


 次は、公園だった。


 こはるの好きな場所でもあり、困る場所でもある。


 大きな木があり、夏は日陰になる。


 ブランコもある。


 でも、ベンチの一つが壊れたままになっている。


 背もたれがぐらぐらして、座ると少し傾く。


 こはるたちは、いつもそこに座らないようにしていた。


 でも、高齢者が知らずに座ろうとして危ない時がある。


 こはるは、ベンチを指した。


「ここ、壊れてます」


 長谷川さんは言った。


「そうか。子どもは遊具ばかり見てると思ってたが、ベンチも見てるんだな」


「見てます」


 こはるは少しむっとした。


「おばあちゃんたちが座るから」


 長谷川さんは、はっとしたようにベンチを見た。


 商店街の女性が実際に軽く座ってみる。


「これは危ないね」


 市の担当者が写真を撮る。


「公園管理に連絡します」


 こはるは続けた。


「あと、この木の下は好きです」


 大きな木の下に、青いシールを貼る。


「夏でも涼しいから。友だちと宿題する時もあります」


 保育園の先生が言った。


「ここは、小さい子のお散歩でも休めそうですね」


 長谷川さんが頷く。


「壊れたベンチを直すだけじゃなくて、木陰に座れる場所を増やせるといいかもしれんな」


 こはるは、驚いて長谷川さんを見た。


 今まで、大人は壊れたものを直す話しかしないと思っていた。


 でも今、長谷川さんは「好きな場所」を増やす話をしていた。


 灯理は、少し離れた場所でそのやり取りを見ていた。


 子どもが「怖い」と言う場所。


 「困る」と言う場所。


 それだけではない。


 「好き」と言う場所も、町を作るための大切な知識だった。


 次に、商店街へ向かった。


 古い店が並ぶ道は、こはるには好きな道だった。


 パン屋の匂いがする。


 文房具屋の前に、季節の飾りがある。


 駄菓子屋のおばさんが、帰り道に手を振ってくれる。


 でも、困る場所もある。


 店先ののぼり旗が歩道にはみ出していて、ランドセルに当たりそうになる。


 雨の日は、傘とランドセルと買い物袋を持った大人で道が狭くなる。


 自転車が通ると怖い。


 こはるは、ランドセルを背負ったまま歩いた。


「ここ、見てください」


 のぼり旗の横を通る。


 ランドセルの端が旗の棒に触れた。


 からん、と小さな音がする。


「大人は体が細い方向で通れるけど、ランドセルがあるとぶつかります」


 商店街の女性が、手を口に当てた。


「気づかなかった。店の前、にぎやかにしたくて出してるけど」


 こはるは慌てて言った。


「旗が嫌いなわけじゃないです。お店が開いてるのがわかるから好きです。でも、少し内側にできたら」


「できるわ」


 女性はすぐに言った。


「今日、商店街で話す」


 こはるは、また驚いた。


 自分の言葉が、その場で少し動く。


 大人が「あとでね」と流さずに、町の話として受け取ってくれる。


 それは、こはるにとって初めてに近い感覚だった。


 まち歩きの最後、班は学校へ戻った。


 多目的室には、他の班も帰ってきていた。


 それぞれの地図には、シールや付箋が増えている。


『信号が短い』

『公園の水飲み場が高い』

『バス停に座るところがない』

『夜、街灯が少ない』

『猫がいる路地が好き』

『川沿いの道は風が気持ちいい』

『階段が多くてベビーカーが大変』

『ゴミ置き場の匂いが強い』

『夏の日陰が少ない』

『雨の日に水たまりで靴が濡れる』


 三井先生は、それらを黒板の横に貼った。


 大人たちは、最初に座っていた子ども用の机にもう一度腰を下ろした。


 今度は、ただ窮屈そうにするだけではなかった。


 小さな机に座ることで、黒板が少し高く見える。


 掲示物の上の方が見えにくい。


 机の下に膝が入りにくい。


 子どもたちが普段使っている場所の高さが、少しだけ体に伝わっているようだった。


 灯理は言った。


「では、子ども先生から今日の授業のまとめをお願いします」


 こはるは、黒板の前に立った。


 チョークを持つ手が、少し汗ばんでいる。


 大人たちが、自分を見ている。


 いつものように「小さいのに」とは言わない。


 今日だけかもしれない。


 でも、今はちゃんと聞こうとしている。


 こはるは、黒板にゆっくり書いた。


『町は、見る高さで違って見える』


 書き終えると、振り返った。


「私は、町のことを大人が全部知っていると思っていました。でも、今日、大人も知らないことがあるとわかりました」


 長谷川さんが、真剣な顔で聞いている。


「私たちは小さいから、見えないことがあります。でも、小さいから見えることもあります。横断歩道の植え込みとか、トンネルのライトとか、ランドセルがぶつかる道とか」


 こはるは、地図を指した。


「怖い場所だけじゃなくて、好きな場所もあります。木の下とか、パン屋さんの匂いとか、猫がいる路地とか。町を直す時、怖いところをなくすだけじゃなくて、好きなところも残してほしいです」


 多目的室が静かになった。


 長谷川さんが、ゆっくり手を挙げた。


「こはる先生」


 こはるは、少し目を丸くした。


「はい」


「今日は、教えてくれてありがとう」


 その言葉は、からかうような調子ではなかった。


 長谷川さんは続けた。


「私は、この町に長く住んでいます。だから、町のことはよく知っていると思っていました。でも、今日しゃがんでみて、知らない町がありました」


 長谷川さんは、自分の低い視点カードを見た。


「子どもの高さの町です。ベビーカーの高さ、車椅子の高さ、高齢者が休みながら歩く町も、きっとまだ見えていないのでしょう」


 市役所の担当者が言った。


「今日の地図を、地域の安全点検に使わせてください。すぐ直せるものと、時間がかかるものに分けて、学校へ返事をします」


 商店街の女性も言った。


「のぼり旗の位置は、今週の会議で話します。お店がにぎやかでも、通りにくかったら困るものね」


 三井先生は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 子どもたちの声が、発表で終わっていない。


 町の大人たちの手元に渡っている。


 終わりの時間、子どもたちはまち歩き地図の端に一言を書くことになった。


 こはるは、自分の地図を見た。


 赤、青、黄色、緑のシール。


 横断歩道。


 トンネル。


 公園。


 商店街。


 木陰。


 ベンチ。


 のぼり旗。


 しゃがんだ長谷川さん。


 子ども用の机に座った大人たち。


 こはるは、地図の端に書いた。


『小さいから見える町もある』


 その文字を見て、胸の中にあった悔しさが、少し違う形になった。


 小さいことは、ただ足りないことではない。


 低いことは、ただ不便なことではない。


 そこからしか見えない町がある。


 その町を、大人に教えることができる。


 数日後、町には小さな変化が生まれた。


 横断歩道の植え込みは、視界をふさぐ部分だけ低く整えられた。


 トンネルには、足元の段差を示す明るいテープが貼られ、照明の向きも確認された。


 公園の壊れたベンチには修理予定の札がつき、木陰にもう一つベンチを置けないか検討が始まった。


 商店街では、のぼり旗の位置を少し内側に寄せる店が増えた。


 すべてがすぐに変わったわけではない。


 街灯の増設や信号時間の変更には、まだ調査と手続きが必要だった。


 でも、子どもたちの地図には、大人からの返事が付箋で貼られていった。


『確認中』

『今週修理予定』

『商店街会議で相談』

『市役所で調査』

『学校へ結果を返す』


 返事が来るたび、こはるたちは地図の横に新しい欄を作った。


『大人から戻ってきたこと』


 自分たちの声が、行ったきりにならない。


 戻ってくる。


 それも、学びだった。


 夕方、灯理は小学校の校庭に立っていた。


 校庭の端では、低学年の子どもたちが鬼ごっこをしている。鉄棒の向こうには、まち歩きで通った商店街の屋根が見えた。風に乗って、どこかの店のパンの匂いがかすかに届く。


 三井先生が、灯理の横に来た。


「白瀬先生、ありがとうございました」


「こちらこそ、子ども先生の授業を一緒に見せていただきました」


 三井先生は、多目的室の窓を見上げた。


「子どもたちの声を大人に届けたいと思っていました。でも、発表させるだけでは足りなかったのですね」


「はい」


「子どもたちを、町を教える先生として位置づける。大人が本当に学ぶ姿勢を持つ。そうすると、子どもたちの声の重さが変わるのだと思いました」


 灯理は頷いた。


「大人が座る机の高さも、授業の一部でしたね」


 三井先生は笑った。


「長谷川さん、帰りに『来月の自治会も小学校の机でやるか』って言っていました」


「それは、少し大変そうですね」


「でも、少し面白そうです」


 二人は、校庭の方を見た。


 こはるが、友だちと一緒にまち歩き地図を持って走っている。


 大きな地図を抱えているので、少し走りにくそうだ。


 でも、その顔は誇らしげだった。


 夜、灯理は小学校を出た。


 校門の外には、夕方の町が広がっている。横断歩道の植え込みは少し低く整えられ、子どもの高さからも車の動きが前より見えやすくなっていた。


 灯理は、少し膝を曲げて、その高さから町を見た。


 大人の視線では気づかなかった看板の影。


 車のライトのまぶしさ。


 歩道の小さな傾き。


 そして、木の下の涼しさ。


 町は、見る高さで違って見える。


 鞄の中には、遠方の小さな学校から届いた依頼状が入っている。


 けれど、まだ開かなかった。


 子どもから学ぶことは、大人が教える立場を失うことではない。


 長く住んできた人には、長く住んできた人の知識がある。


 歴史。


 祭り。


 川の名前。


 昔の道。


 店の移り変わり。


 それらは、大切に受け継ぐべきものだ。


 けれど、子どもにも町の知識がある。


 低い視線から見る横断歩道。


 ランドセルがぶつかる狭い歩道。


 車のライトがまぶしいトンネル。


 壊れたベンチを心配する目。


 好きな木陰。


 パン屋の匂い。


 猫がいる路地。


 怖い、困る、好き、遊びたい。


 その一つひとつが、町を知るための大切な言葉だった。


 大人が小さな机に座る。


 しゃがんで横断歩道を見る。


 子どもの歩く速さで歩く。


 すぐに解決策を言わず、まず聞く。


 そうして初めて見えてくる町がある。


 灯理は、夕暮れの通学路を振り返った。


 多目的室の壁には、こはるたちのまち歩き地図が貼られている。


 その端には、こはるの字で一文が残っている。


 小さいから見える町もある。


 その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。

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