第22章 第3話:卒業生の授業――戻ってきた空席
律花は、控室の椅子に座れずにいた。
定時制高校の夜の校舎は、昼の学校とは違う匂いがする。
少し冷えた廊下。
古い蛍光灯の白い光。
職員室から漏れるコーヒーの匂い。
階段の踊り場に残る、雨に濡れた靴の匂い。
夕方から夜へ移る時間の中で、生徒たちはそれぞれの生活を背負って学校へ来る。仕事帰りの作業着。家事を終えてからの制服。眠そうな目。急いで食べたパンの袋。鞄からのぞく参考書。
律花も、かつてその一人だった。
この学校の卒業生。
今日は、卒業生交流会に呼ばれている。
在校生に、卒業後の進路や仕事、生活について話す会。
控室には、他の卒業生たちもいた。
介護施設で働いている卒業生。
大学で社会福祉を学んでいる卒業生。
工場勤務を続けながら資格を取った卒業生。
みんな、話すことがあるように見えた。
前に進んでいる人たち。
胸を張って戻ってきた人たち。
その中で、律花だけが、何を話せばいいのかわからなかった。
専門学校に進学した。
でも、続かなかった。
学費と生活費のためにアルバイトを増やした。
授業に遅れた。
体調を崩した。
相談する前に欠席が増えた。
休学の手続きもよくわからず、気づいた時には学校から足が遠のいていた。
中退。
その二文字は、今でも胸の中で重い。
現在はアルバイトをしながら、通信教育で少しずつ学び直している。
生活は続いている。
学びも、途切れたままではない。
でも、今日ここで話す資格があるのだろうか。
成功したわけではない。
夢を叶えたわけでもない。
在校生の前で、何を語るのか。
律花は、膝の上で手を握った。
爪の横が少し白くなる。
控室の扉が開いた。
定時制の教師、大原先生が顔を出した。
「律花さん、大丈夫?」
律花は、反射的に笑おうとした。
「大丈夫です」
大原先生は、その笑顔を見て、少し首を傾げた。
昔からそうだった。
律花は、本当に大丈夫ではない時ほど、大丈夫と言う。
「無理しなくていいですよ。話すのがつらければ、今日は聞くだけでも」
律花は、首を横に振った。
「いえ」
声が少しかすれた。
「でも、私の話って、場違いじゃないですか」
「場違い?」
「みんな、働いてるとか、大学で勉強してるとか、資格取ったとか。ちゃんと進んでる話ですよね」
律花は、目を伏せた。
「私は、途中でやめました」
その言葉を言うだけで、喉が詰まる。
「先生、途中で戻ってきた人の話なんて、授業になりますか」
大原先生は、すぐには答えなかった。
その時、控室の窓際に立っていた一人の先生が振り返った。
黒い上着に、使い込まれた革の鞄。
白瀬灯理。
卒業生交流会の設計支援として、この学校に来ている先生だった。
灯理は、律花の言葉を静かに受け止めた。
そして、問いを返した。
「うん。では、道が途切れた経験は、誰にも渡せない経験なのでしょうか」
律花は、顔を上げた。
「渡せるんですか」
「渡し方を一緒に考えることはできます」
「でも、失敗した話です」
「はい」
「在校生が聞いて、暗くならないですか」
「成功した話だけを聞いて、遠く感じる生徒もいるかもしれません」
灯理は、控室の向こうにある講堂を見た。
「道が途切れた時に、どこへ戻れるのか。誰に相談できるのか。どう学び直せるのか。その話を必要としている人がいるかもしれません」
律花は、膝の上の手を見た。
自分の経験は、誰かに見せるには汚れていると思っていた。
でも、もしそれが、誰かが同じ場所で立ち止まった時の目印になるなら。
そう考えても、まだ怖かった。
講堂には、在校生たちが集まっていた。
夜の七時。
仕事帰りの生徒もいる。
制服の上にパーカーを羽織った生徒。
眠そうに机に頬杖をつく生徒。
ノートをきちんと開いている生徒。
後ろの席で腕を組む生徒。
海斗は、その後ろの席に座っていた。
高校二年生。
学校に通う意味が、最近よくわからなくなっている。
昼間は倉庫でアルバイトをして、夕方に学校へ来る。
授業を受ける。
帰って寝る。
また仕事へ行く。
進路希望調査には、まだ何も書いていない。
卒業後のことを考えると、頭が重くなる。
今日の卒業生交流会にも、あまり期待していなかった。
成功した人たちの話を聞く会。
努力すればできます。
あきらめなければ道は開けます。
先生や周囲に感謝しています。
そういう話を聞かされるのだと思っていた。
そういう話が悪いわけではない。
でも、自分には遠い。
海斗は、配られたプリントを見た。
『卒業生交流会 卒業後の道を知る』
一人目の卒業生は、介護施設で働いている人だった。
定時制に通いながら資格を取り、卒業後に就職したという。
「大変なこともありますが、利用者さんに名前を覚えてもらえると嬉しいです」
拍手が起きる。
二人目は、大学へ進学した卒業生だった。
「最初はレポートの書き方もわからなかったけれど、先生に相談しながら続けています」
また拍手。
三人目は、工場で働きながら技能検定を取った卒業生。
「学校で学ぶ習慣が、資格の勉強にも役立ちました」
拍手。
海斗は、机に視線を落とした。
立派だと思う。
でも、遠い。
ちゃんと続けられた人の話。
自分とは違う人の話。
大原先生は、前方で司会をしていた。
最初は、こういう成功例を並べることが、生徒たちの励みになると思っていた。
もちろん、それは必要だ。
進んでいる卒業生の姿を見ることには意味がある。
だが、毎年、この会の後に、どこか遠い顔をする生徒がいる。
自分はああなれない。
うまく進める人だけが話す場所なのだ。
そう感じさせてしまっているのではないか。
大原先生は、控室の方を見た。
次は、律花の番だった。
律花は、講堂の入口に立っていた。
足が重い。
戻ってきた空席が、前方に一つ用意されている。
卒業生席。
そこに座るのが怖かった。
中退した自分が、卒業生として座ってよいのか。
でも、灯理の言葉が残っている。
道が途切れた経験は、誰にも渡せない経験なのか。
律花は、深く息を吸った。
そして、前へ出た。
大原先生が紹介する。
「次は、卒業生の律花さんです。卒業後、専門学校へ進学し、その後、現在はアルバイトをしながら通信教育で学び直しています」
通信教育で学び直しています。
その言葉に、講堂の空気が少し変わった。
海斗も顔を上げた。
律花は、マイクの前に立った。
手が震えている。
最初に用意していた原稿は、きれいすぎた。
専門学校で学んだこと。
今の生活。
これからの目標。
でも、それだけを話したら、今日ここに来た意味がない気がした。
律花は、原稿を机に置いた。
「私は、この学校を卒業して、専門学校へ進学しました」
声は少し震えていた。
「でも、中退しました」
講堂が静かになる。
誰かが椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
律花は、続けた。
「生活費と学費のためにアルバイトを増やしました。最初は何とかなると思っていました。でも、授業に遅れる日が増えて、課題がたまって、体調も崩しました」
言葉が、一つずつ重い。
「相談すればよかったのだと思います。でも、その時の私は、相談したら迷惑をかけると思っていました。自分で選んだ進路なのに、できないと言うのが恥ずかしかったです」
海斗は、机から身を起こした。
成功した人の話ではない。
続けられなかった話。
自分に近いところから聞こえてくる声だった。
律花は、客席を見た。
生徒たちは静かに聞いている。
責めるような目はなかった。
「学校に行けなくなって、退学の手続きをしました。しばらくは、この高校にも連絡できませんでした。先生たちに顔向けできないと思っていました」
大原先生は、少し目を伏せた。
律花が連絡してきた日のことを覚えている。
小さな声で「今さらなんですけど」と言った。
大原先生は、その時、もっと早く連絡してよかったのにと言いかけて、飲み込んだ。
その言葉が、律花を責めるように聞こえるかもしれないと思ったからだ。
律花は言った。
「でも、ある日、大原先生にメールをしました。何を書いたか、今でも覚えています。『失敗した卒業生でも、相談していいですか』って」
講堂の空気が少し揺れた。
海斗は、その言葉を心の中で繰り返した。
失敗した卒業生でも、相談していいですか。
律花は続ける。
「先生は、『相談していいです』と返してくれました。それから、通信教育のこと、アルバイトとの両立、体調のこと、奨学金の返済のことを少しずつ一緒に整理しました」
律花は、机の上に一枚の紙を広げた。
そこには、手書きの地図のようなものが描かれていた。
『卒業後に困った時の地図』
中央には、こう書かれている。
『道が途切れた時』
そこから、いくつもの矢印が伸びている。
『卒業した学校に連絡する』
『担任だった先生にメールする』
『奨学金の窓口に相談する』
『休学・退学前に制度を確認する』
『体調不良は医療機関へ』
『アルバイトを減らす相談』
『通信教育・職業訓練・学び直し』
『ひとりで手続きをしない』
『戻ってきてもよい場所を持つ』
律花は言った。
「私は、中退したことを、まだ完全に受け入れられているわけではありません。悔しいです。恥ずかしいと思う日もあります」
声が少し震えた。
「でも、道が途切れたことを誰にも言えないままだったら、今も動けなかったと思います。だから今日は、成功した話ではなく、途切れた時の話を持ってきました」
海斗は、配られたプリントの端を握った。
自分は、卒業後の明るい道を聞きたかったわけではなかったのかもしれない。
うまくいかなかった時、どこへ行けばいいのか。
その話を聞きたかったのかもしれない。
律花の話が終わると、すぐには拍手が起きなかった。
沈黙があった。
けれど、それは冷たい沈黙ではなかった。
誰もが、自分の中のどこかに律花の言葉を置いているような静けさだった。
やがて、一人が拍手した。
それに続いて、講堂全体に拍手が広がった。
律花は、少し頭を下げた。
目が赤かった。
大原先生は、マイクを持った。
「ここからは、卒業生の皆さんへの質問ではなく、在校生の皆さん自身が『卒業後に困った時、何を知っておきたいか』を書いてみましょう」
灯理が、後ろの机でカードを配った。
『聞きたいことカード』
そこには、自由に問いを書ける欄があった。
生徒たちは、最初は戸惑っていた。
けれど、少しずつ書き始めた。
『進学してお金が足りなくなったら、誰に相談すればいいですか』
『仕事を辞めたら、学校に連絡してもいいですか』
『体調が悪くて授業に行けない時、どこまで言えばいいですか』
『進路を変えたら、失敗ですか』
『卒業後に先生へ連絡するのは迷惑ですか』
『中退する前にできる手続きはありますか』
『一度働いてから学び直すことはできますか』
『奨学金が怖いです』
『家族に進路を反対された時、誰に相談できますか』
海斗は、カードを前にしてしばらく動かなかった。
書きたいことはある。
でも、書くと自分の不安が見える。
それでも、律花の話を聞いた後では、白紙のままにしておくことの方が怖い気がした。
海斗は、鉛筆を持った。
『続けられなくなりそうな時、やめる前に誰に何を言えばいいですか』
書いた後、胸の奥が少し苦しくなった。
でも、その問いは自分に必要だった。
灯理がカードを集める。
大原先生は、卒業生たちにも声をかけた。
「成功したことだけでなく、困ったこと、助けになったことも教えてください」
介護施設で働く卒業生が話した。
「就職してから最初の三か月、本当にしんどかったです。夜勤のリズムが合わなくて、辞めようと思いました。相談したのは、職場の先輩と、ここにいた時の先生でした」
大学に進学した卒業生も言った。
「大学は自由だけど、自由すぎて孤独になる時がありました。レポートの書き方がわからなくて、学習支援センターを使いました。最初から知っていれば、もっと早く行けたと思います」
工場で働く卒業生が続けた。
「資格試験に一回落ちました。落ちたことを言うのが恥ずかしくて隠しました。でも、二回目は職場で勉強時間を調整してもらいました」
成功談だけでは見えなかった、途中の道が出てくる。
つまずいた場所。
相談した人。
使えた制度。
使えなかった制度。
知らなかったこと。
知っておきたかったこと。
それらが、在校生の前に少しずつ並んでいった。
灯理は、黒板に大きく地図を描いた。
『卒業後の道は一本道ではない』
矢印がいくつも伸びる。
就職。
進学。
職業訓練。
家族の事情。
体調不良。
休学。
転職。
学び直し。
相談。
戻れる場所。
大原先生は、生徒たちと一緒に、その地図へ相談先を書き込んだ。
『学校の卒業生相談メール』
『奨学金相談窓口』
『ハローワーク』
『若者サポートステーション』
『医療機関』
『通信教育』
『地域の学習支援』
『福祉相談』
『担任・元担任』
『夜間の相談窓口』
海斗は、その地図を見ていた。
卒業後の道は、まっすぐ進む一本の線だと思っていた。
進学する。
就職する。
続ける。
成功する。
もし途中で落ちたら、もう外側に出てしまうのだと。
でも、黒板の地図には、戻る矢印があった。
横へ行く線があった。
休む場所があった。
相談先があった。
海斗は、少しだけ息を吐いた。
交流会の終盤、生徒たちは自分用の「困った時の小さな地図」を作った。
海斗は、紙の中央に書いた。
『続けられなくなりそうな時』
そこから矢印を引く。
『大原先生に相談』
『職場のシフトを見直す』
『体調を記録する』
『奨学金や制度を調べる』
『やめる前に一回話す』
『戻れる場所を消さない』
最後の一行を書いた時、海斗は顔を上げた。
前方で、律花が卒業生席に座っている。
最初はそこに座れなかったように見えた。
でも今、律花はその席に腰を下ろし、在校生の質問カードを一枚ずつ読んでいる。
海斗は、休憩時間に律花のところへ行った。
「律花さん」
律花は顔を上げた。
「はい」
「さっきの話、聞けてよかったです」
律花は、少し驚いた。
「暗くなりませんでしたか」
「なった部分もあります」
海斗は正直に言った。
「でも、ちゃんと進んだ人の話より、近かったです」
律花は、静かに海斗を見る。
「俺、続けられるか自信ないんです。仕事も学校も。卒業してからも、たぶんまっすぐ行けない気がします」
「うん」
「でも、まっすぐじゃない道の話を聞けたので、少しだけ安心しました」
律花は、目を細めた。
「私も、戻ってきてよかった」
海斗は、少し照れたように頷き、席へ戻った。
律花は、机の上に置かれた交流会ノートを開いた。
卒業生が感想を書くノートだった。
ページの上で、ペン先が少し止まる。
それから、ゆっくり書いた。
『戻ってきた席は、失敗の席じゃなかった』
その文字を見た瞬間、胸の奥にあった硬いものが少しほどけた。
中退した事実は消えない。
専門学校を続けられなかった悔しさも、なくならない。
でも、その経験を話したことで、海斗のような生徒が少し顔を上げた。
それなら、この席はただの失敗の席ではない。
道が途切れた時の話を置ける席だった。
交流会が終わった後、講堂には椅子の擦れる音が残っていた。
在校生たちは、作った地図を鞄にしまって教室へ戻っていく。
卒業生たちも、それぞれ大原先生に挨拶をして帰っていった。
律花は、最後まで少し残っていた。
灯理が近づく。
「律花さん」
「はい」
「話してくださって、ありがとうございました」
律花は、首を横に振った。
「怖かったです」
「はい」
「今も、全部よかったとは思えません。中退したことは、やっぱり悔しいです」
「はい」
「でも、今日話して、少しだけ違う形になった気がします」
「違う形」
「自分の中では、ただの失敗だったんです。でも、誰かに渡すと、地図の一部になることもあるんですね」
灯理は、静かに頷いた。
「途切れた道も、次の人には目印になることがありますね」
大原先生も、二人の横に来た。
「律花さん、来てくれて本当にありがとう」
律花は、少し照れたように笑った。
「また、来てもいいですか」
「もちろん」
大原先生の声は、少し弾んだ。
「成功した時だけじゃなく、途中でも、迷っている時でも、来てください」
律花は、深く頷いた。
夜の校舎を出る時、律花は一度振り返った。
窓の向こうに、講堂の明かりがまだ残っている。
かつて自分が通った学校。
卒業して、離れて、失敗したと思って、近づけなくなった場所。
でも、今日、そこに戻ってきた。
戻ってきた空席は、失敗の席ではなかった。
誰かの隣に、少しだけ地図を置く席だった。
灯理は、校門の近くで大原先生と並んでいた。
夜風が少し冷たい。
遠くで電車の音がした。
「白瀬先生、ありがとうございました」
大原先生が言った。
「こちらこそ、戻ってきた席に置かれた学びを一緒に見せていただきました」
大原先生は、講堂の方を見た。
「卒業生交流会は、成功した卒業生を紹介する場だと思っていました」
「はい」
「でも、成功談だけでは届かない生徒がいる。むしろ、困った時の戻り方や、相談先や、途切れた経験の方が必要な生徒もいるのですね」
灯理は頷いた。
「道が続く話だけでなく、途切れた時にどうつなぎ直すかも、進路の学びですね」
「はい。来年からは、卒業後に困ったことを話せる時間を最初から入れます。戻ってきてよい場所だと、在校生にも卒業生にも伝えたいです」
灯理は、夜の校舎を見上げた。
定時制の窓には、まだいくつか明かりがついている。
教室では、夜の授業が続いている。
誰かがノートを開き、誰かが眠気と戦い、誰かが進路の紙を見つめている。
そのどこかに、今日の地図が残っている。
卒業後の道は一本道ではない。
夜、灯理は学校を出た。
鞄の中には、小学校と地域住民によるまち歩き授業から届いた依頼状が入っている。
けれど、まだ開かなかった。
卒業後を学ぶことは、成功した道だけを見ることではない。
進学した人。
就職した人。
資格を取った人。
続けている人。
その姿は、確かに誰かの励みになる。
けれど、道はいつもまっすぐ続くとは限らない。
学費が足りなくなることがある。
生活費のために働きすぎることがある。
体調を崩すことがある。
孤独になることがある。
相談できないまま、学校や職場から足が遠のくことがある。
その時、失敗したから終わりではなく、戻れる場所や相談できる人が見えているかどうか。
それも、進路の大切な学びだった。
道が途切れた経験は、恥だけではない。
誰かが同じ場所で立ち止まった時に、ここで相談できる、ここで休める、ここから学び直せると示す目印になる。
灯理は、校舎の明かりを振り返った。
講堂の机には、律花が書いた交流会ノートが置かれている。
そこには、律花の字で一文が残っている。
戻ってきた席は、失敗の席じゃなかった。
その言葉を胸に、灯理は静かな道をゆっくり歩いていった。




