1
「ぶわ……!? 冷て!」
水晶の中。いきなり頭上から降ってきた冷水に惣一は飛び起きた。
「…………ミコシバ? 起きていたのか」
「起こされたんだよ! それも、いきなり水ぶっかけられて! 風邪でもひいたらどうする…………って。……あれ?」
水を払おうと体に手をやって、違和感に惣一は首をひねった。昨日から着ている制服のブレザーやシャツが……全然濡れていない。
「んあ?」
全身くまなく触ってみる。が、手のひらが湿ることはない。
というか、どこも濡れていない。
「水など、ミコシバにかけた覚えはないが」
晶の声に惣一は顔を上げた。
世の中は驚くほどに暗かった。というか、まだ夜中である。水晶自体がほのかに発光している事に惣一はこの時初めて気づいた。
闇の中、白の薄い着物に身を包んだ晶がこちらをみていた。大きな目にかかる睫毛は水に濡れ、切りそろえた黒髪からは水滴が滴り落ちている。
「って、おま……何してんの!? 濡れてんじゃん!」
慌てて球を飛び出す。宙に浮いて初めて状況を把握できた。ここは……恐らく、洞窟の中。小学生の時に修学旅行で行った鍾乳洞を彷彿とさせる場だった。
洞窟の突き当たりには池……と呼ぶには大きすぎる湖が、端から端まで広がっている。端と言っても、厳密に言えば洞窟はさらに深く続いているようだが、人が通れぬ程に穴が小さく、暗所である事も手伝って、今居るこの場から奥を覗く事は叶わない。天井から伝う水滴が長い年月をかけて作り上げた世界なのだろう。
晶はその湖の中心に立ち、腰まで水に浸かっている。古い木桶を手にしたまま、不思議そうに黒瞳を瞬かせて惣一を眺めていた。頭だけではない。全身びしょ濡れだ。
遠くに見える洞窟の入口からは、ごうという音とともに冬の冷風が容赦なく吹きつけて、晶の真っ直ぐな黒髪と、湖の手前に置いてある蝋燭の炎とを揺らし続けていた。見るからに寒そう――というか、痛々しい濡れ鼠の少女にぎょっとした惣一は慌てて飛び寄った。
「大丈夫かよ!? すぐに家に戻って温めないと風邪ひくどころじゃあ……!」
少女の細い肩を掴み、抱きかかえようとした。しかし、半透明の手はすかっと、呆気なく擦り抜ける。
「? 何をそんなに取り乱している?」
慌てふためく惣一の姿を怪訝そうに見上げる晶。ん? 何、俺、変な事言ってる? 目と目が間近でガッチリ合い、惣一は一瞬口ごもった。
「な、何をって……っつうか、おまえだおまえ! おまえこそ何してんだよ!? こんなところで水に浸かって、正気の沙汰とは思えない!」
剣幕に押されて、晶の表情にも僅かな動揺が生じる。
「何って……その、沐浴だが」
「も……くよく?」
聞き慣れない言葉に惣一は眉尻を思い切り下げる。惣一の表情を晶は不思議そうに眺めた。
「そうだ。私は毎朝六時きっかりに神社の裏手にあるこの白池で沐浴し、穢れを落としている」
底が見えるほどに澄んだ冷水の中を、裸足で平然と移動する晶。惣一は固まったまま、呆気にとられたように小さな背中を眺めていた。確かに寒がっている様子はないが……。
「…………日課……ってのか? これが?」
「日課というか、義務と言った方がよいが……まぁそんなところだ」
水から上がると、蝋燭の横に置いてあった籠の中のタオルを手にして体を拭く。指の先まで真っ赤に染まった小さな足が痛々しい。
「……その、寒くない訳?」
「寒いに決まっているだろう」
「! ならやんなきゃいいじゃん! こんなの絶対病気になるって!」
「そういう訳にもいかない。これは私の義務だ」
「義務って……病気になってまでやんなきゃならないのか?」
「私はここ数年、床に伏せたことはない。……が、このままいくとミコシバの言う通り、すごく不味い気がする」
「だろ!? だったら……!」
「だから、早急にここから出て行ってもらいたい。ミコシバ」
「…………な、なんでだよ、俺、これでも心配して言ってるんだぜ? それを……」
「……着替えたいのだが」
「……!」
「………………早く言えっての!」
猛ダッシュ(?)で洞窟の入口横にへたり込んでから、明け始めた紫空の下、惣一はやっとの思いでそう吐き捨てた。




