10月25日④
ブーツが水面の床を走るたびに波紋が同心円状に広がっていく。
低空姿勢で走り抜けた後に続くのはマークの火球の連射。
当たったらやけどでは済まないだろうそれに、冷や汗を流しながら避け続ける。
「さっきからずっと逃げてばっかじゃん」
「準備運動はしっかりやるタイプなんでね」
散々逃げ回り続け、マークもやや苛立っているのだろう。時折発せられる挑発の言葉に挑発で返せば、マークはむすっと口を尖らせる。
新たな魔法陣が彼の頭上に描かれる。
『ウィン・ティール(嵐)』
天井へと押し上げられた魔法陣がクルクルと回転し出す。その瞬間、体がふわりと浮かび上がる。
いや、ふわり、という表現は可愛すぎる。水の床ごと足元を掬われるように体が宙へと挙げられる。
吹き付ける風。雫となった水が目玉に直撃して視界が霞んだ。
「何か策があるのかと思って手を抜いてやっていたけど、もういい。本気で決めてやるから。怪我しても、知らないから」
「ハハっ、怒らせたか」
(てか、今までの本気じゃなかったのかよ)
あんなにバカスカ魔術を使って本気じゃないのだとすれば、マークの魔力量は私の比ではないのだろう。
(作戦変更。こっちもさっさと終わらせてやるよ)
バサバサとうるさいフードを外し、クロスさせるように体の周りに二つの魔法陣を描く。
『ユル・エオ・ベオーク(ガード)』
二つの魔法陣は黄色に輝いて私の周りに二重の結界を張る。
がっしりと重くなった体が隕石のように上昇気流を引き裂いて落下していく間に瞬時に別の魔法陣を展開する。
『ニイド(氷結)』
白い冷気が発生している掌を振り翳せば、宙へと舞い上がった雫が結露し、鋭い氷の雨となって床へと体を打ち捨てていく。
マークの冷めた双眼が、ちらりとこちらを見上げた瞬間、床に打ち付けられた氷の雨が白い霧を立ち上らせ、彼の体を覆い隠した。
隕石が如く落下した私の周りの黄色い加護は衝撃に耐えかね、粉々に砕け散る。
「ん?」
そして、地に足つけたことで漸く、私は違和感に気づく。
足が熱い。
とっくに水没したブーツがじわじわと熱せられていく。冷え切った足の指先が、心地よく解凍され、さらに温度が上昇する。
立ち上っていく白い霧は徐々に落ち着いていく風に煽られて広がっていた。
霞む視界の奥でマークはなおも仁王立ちでこちらを見据えている。
「あんた、いつの間に魔術、展開したんだよ」
この熱さは火の魔術による熱だろう。
「霧に隠れて見えなかったんじゃないの」
「あ? んなわけ――」
言葉を区切ったのは、これもマークなりの挑発だと分かったからだ。
チッと舌打ちして視線を走らせる。
(どこかに魔術式でも仕組んでたのか?)
例えば足。
絶賛ダイナミック着地を試みていた私からは、彼の足元はしっかり見えないから確かなことはわからないが、予め靴の裏にでも魔術式を仕組んでおけば、足元で円を描けば魔術の展開できる。可能性としてはゼロではない。
「考え事とは随分と余裕なんじゃない?」
「あ?」
マークの顔へと視線を上げた瞬間、私は慌てて体を逸らす。
眼前を素通りしていったのは氷の礫。人が逡巡する間にも、不躾にも魔術を放ってきたらしい。
「あっぶねえな!」
「今はそういうことをしてるんだ。よそ見していたお前が悪い」
憎ったらしい正論に私は顔を顰める。本当に可愛くない。
「それより、僕の顔なんて見てていいの?」
マークの口の端が僅かに持ち上がる。
一瞬呆けた私はすぐに、その意味を理解する羽目になる。
足に鋭い痛みが走る。ビキビキと肌に亀裂が走るような痛みに思わず苦悶の表情を溢した。
前屈みになったことでその理由は嫌でも目に飛び込んでくる。
「おいおい。こりゃどんな冗談だよ」
もはや笑いすら出てくる。
先ほどまで温泉より少し暑いくらいの暑さで煮立っていたはずのフィールドは、私の足も巻き込んで、カチンコチンの氷面と化していた。
どんなに素早く冷やしたとしても、こんなほぼ一瞬の内に湯を凍らせることなどできるのだろうか。
(天才児とか言われてたが……こりゃもはや異端児だろ)
魔術師の枠を外れている。自然の法則すら、こいつならば覆すことができてしまうのではないか。
そんな絵空事だと一蹴するような考えも笑い事にはならない現象が今起こっている。
「ほら、ディアナ・ティフォン。負けを認めるならここらへんが潮時だと思うよ」
「そう言われると降参したくなくなっちまうな」
強気に口角をあげて見せれば、マークは険を深めた。
「……想像よりは、骨のあるやつだったよ」
見せしめのようにゆっくりと、魔法陣が展開される。
「死なない程度にしておくから、安心して負けていいよ」
不敵に微笑んだまま、私はひっそりと背中に隠していたブツを握る。
(一か八かにかけてみるか……)
失敗する可能性の方が高いが、この小生意気な野郎に一泡吹かせたい気持ちが収まらない。
『ハガル……』
氷の魔術。
ならば、ガードを展開すれば一時は防ぐこともできる。それとも、いっそこちらも氷魔術で応戦するか。将又やっぱり――。
『ティール……』
掌に握る革が冷たい。足元からの冷気も相まって、瞬く間に感覚が消えていく。
なら、時間はない。
おそらく最後の魔術文字が刻まれる前に、私は大きく腕を振り上げる。
手のひらに握られているのは短剣。
アルヴィンに頼んで拝借した学校の備品の一つ。
その切先で魔法陣を描けば、白い光がぐるりと短剣を囲う。光の粒子に当てられた短剣は神々しいほどの輝きを放っていた。
『ラド・ティール……』
バチバチと指先に走る痛み。針を刺すような鋭いそれを制するように手に力を込める。
(大丈夫だ。左じゃない分、こっちの方が御し易い!)
『ダエ――』
マークの魔術式が完成する。
その一瞬を見過ごさないように目を凝らした。
だが、それは別の影によって遮られる。
「だめ! やめて!」
白い髪を振り乱し、両手を広げた少女の背中に私は目を見開いた。
それはマークも同じだったようで、眼鏡越しの瞳が驚愕に揺れ動いていた。
リリスの言葉、そしてマークの動揺など露に返さず、完成した魔法陣から魔術が展開される。
複数の氷の刃が一斉に、私を庇うように立つリリスへと牙を剥いた。




