10月25日②
茜色の夕焼けを見上げながら、私の足は裏庭へと向かう。
この時間になると部活をしている一部(本当に一部)の生徒の姿があるだけで、馬鹿でかい学院は途端に寂しくなる。
鬱蒼と生えた草原の中にマークは仁王立ちで待ち構えていた。日が陰ってきたというのにフードを目深に被っているのは変わらない。
「よう」と臨戦体制のマークに軽く挨拶してみるもむすっと目をほそめられるだけだ。
「逃げなかったんだ」
「逃げると思ってたのか? それとも逃げてほしかった?」
「ふんっ。そんなわけないでしょ。逃げられたら折角の準備が台無しになっちゃうじゃん」
「準備?」と首を傾げる。胸の前で組まれているマークの両腕の先に何か握られているということもなく、かといって辺り一面は何の変哲もない草、草、草。たまに木がニョッキリ生えている程度の侘しい景色が広がっているだけ。
「決闘の準備だよ。もしかして、知らないの?」
「知らないけど」
マークは呆れた、とでも言うように口を逆三角形に開け、じっとりとした視線を向ける。
「まあいいけど。いい? 僕はここの裏庭全体に魔法陣を張り巡らせた。今から僕が魔術決闘を開始するための呪文を唱えるから、君はその呪文に合わせて名前と、命約を言って。それで魔法陣が展開される」
「ふーん。結構本格的なんだな。で、あんたは私に命約の内容を聞かなくていいのか?」
「いい。どうせ僕が勝つ」
「……へえ」
ピキッと、額に筋が浮かぶのを感じる。太々しいやつだとは思っていたが、礼儀も愛想も知らないときたか。
「いいぜ、なら始めようか」
心の中で中指を突き立てながら、声は務めて冷静に。これができる先輩ってもんだ。
(絶対泣かす)
猛禽類のように目尻を吊り上げる先で、マークは何やら徐に注射針みたいなものを取り出し、それで指先の皮をぷつりと貫いた。
赤い血が一滴、たらりと地面に落ちていくと、波紋が広がるように地面に描かれていたらしい魔法陣の文字が淡く輝き出す。
マークの視線が私にも同じことをしろと促す。
魔術師にとって血は重要な意味を持つ。その血を用いる魔術は一種の強力な拘束力であったり、威力を持っている。これも、その類の魔術らしい。
私は袖の中に手を突っ込む。いつの日か、人攫いに一矢報いた仕込みの針がそこには潜めてある。
ナギに影響されて持ち歩いている護身用の大きな針で指の先を刺す。ぷくりと浮いた血は掌を逆さにした途端、重力に逆らうことなく落ちていく。
ポツン
波紋が広がっていく。
淡い光が薄桃色に色付いていく幻想的な光景を背景に、マークの詠唱が静かに響く。
「我が名はマーク・クロニエ。今、この血に命約を刻みしもの。今、汝に命約を刻みしもの」
マークがこちらに目配せする。今のを復唱しろということらしい。無言で頷き、瞳を閉じる。
「我が名はディアナ・ティフォン。今、この血に命約を刻みしもの。今、汝に命約を刻みしもの」
「我が命約は『リリス・ヴェントの解放』。彼女の過去から今までの全てを解放することを、汝への命約とする」
「……我が命約は」
ちらっとマークを見やる。マークは私の視線に訝しげに眉を顰めた。
「『後輩になれ』。具体的には使い勝手のいい後輩としての友好関係を築くよう努力することを、汝への命約とする」
「…………」
マークの野郎が絶句したかのように目を見開いて固まる。
本来であれば命を賭けるような決闘で要求するような内容ではなかったことに虚を突かれたとでも言うべきか。してやったりみたいで少しいい気味だ。
「……今、法の魔法使いに、我らが決闘を捧げる!
ケン・マン・エゼル・ウル・イアー・ヴェントゥース!」
声高らかに詠唱し、マークが左腕を払うと、薄桃色に発光していた魔法陣がグルグルと旋回し出す。
まるで渦潮のように縦横無尽に回転する魔術文字。その光は次第に強くなっていき、熱を持っていくように光は紅に染まっていく。
目玉が焼き切れるような強い光に反射的に瞼を閉ざし、片腕で目元を隠す。
炎のような光が徐々に収まって、次に瞼を開いた時。
視界いっぱいに広がっていたのは、オーロラのような淡い暖色を纏った、四角い白い箱のような空間であった。
ディアナとマークの決闘が始まる少し前、ヴェントの屋敷ではリリスの発狂の声が響き渡っていた。
「うそ、うそ、うそだぁああ!!」
ひっくり返し、片っ端からペラペラして、魂が抜けたようにヘナヘナと座り込む。
「よ、よりにもよって、ベリンダ先生の課題を学校に忘れたなんて」
ベリンダとは魔術学校の魔法薬学の教師である。
70代かそこらの老齢の女性で、魔術学校の教師にしては珍しくこざっぱりとした、裏表のない性格。
そして、おそらく学院一ドライで、怒らせたら怖い人。
ベリンダの鋭い双眼で睨みつけられたが最後、魔術を発動したかのような絶対零度の光線が生徒たちの心臓を凍らせる、という錯覚を抱く。
つまり、そのくらい怖い。
「しかも明日授業あるんだよ! 何やってるんだ私!」
いくら嘆いても課題のペラ紙が見つかるなんてことはない。
窓の外では太陽が今にも沈もうとしている。確か学院は18時には原則として門が閉まってしまう。つまり、今なら滑り込みセーフを狙える。
リリスの前に迫った選択肢は二つ。
一つ目、今からダッシュで学院に行き課題を取って帰る。
二つ目、明日の朝早く登校してから頑張る。
もしリリスに親しい友人でもいれば三つ目の選択肢――友人に答えを見せてもらう、が現れたことだろうが、悲しきかな、リリスにそのような優しい友人もいなければ頼れるクラスメイトもいない。
(考えるまでもない!)
リリスはカバンを手に取って、部屋のドアを開け放つ。
「ラナー!! 忘れ物取りに行ってくるーー!!」
足をフルに動かしながら、リリスは廊下を駆け抜けていった。




