9月14日
決意を新たにしたのは良いものの、私は早速困っていた。
悪の道に行かないためには、少なくともレビンとお父様からは距離を取らなくてはいけない。
レビンは元より家同士の付き合いの延長。
向こうは多少馴れ馴れしいところはあるが、おそらくあれも私に取り入ろうという下心があってのことだったのだろう。ならば、私が完全に拒み出せば向こうだって下手に近づいては来まい。
だから、問題はお父様の方だ。
元からこちらへの関心はないとはいえ、親子という関係上、付かず離れず以上はない。
しかも、ティフォン家の跡取りは私だけだから、周りも当然次期当主として扱う。親子仲に関係なく、私がティフォン家の一人娘であるという事実は変えられない。
(仮に私が真っ当に育ったとしても、お父様が悪いことをしているのには変わらないし、それが公になれば、ティフォン家は潰される)
そして例え私がお父様の何某かに関与していなかったとしても、跡取りという関係故に、私の地位は没落を免れないだろう。
下手すればエーギル・ティフォンの娘というだけで処罰される可能性すらある。
そうなれば私は良くて使用人、悪くて貧民街でゴミ漁り。最悪あの世行き。
魔術師社会は足の引っ張り合いだから、少しでも後ろ暗い話があれば、あとはあることないこと言って、その家を潰そうとすることは珍しくない。
現に数年前にも魔術師同士のゴタゴタがあり、それなりの大きさの家が消されたばかりだ。
そうなってしまえば真相は闇の中、他人の構想に巧く乗せられてしまえば最期なのだ。
(この家を出る? でも行く当てなんてないし、一人で生きていける自信もないし……)
何よりこの家を出て行けばリリスを放置することになる。
彼女を放置しても、ゲームの流れに沿うのであれば、近い将来に彼女を助け出してくれる人が現れる。
しかし、それだと彼女はなんだかんだ攻略対象の一人の実家に保護されることになり、王立学院なる物語の舞台へ足を踏み入れることになる。
(で、レビンやお父様に狙われる)
あのゲームの中にはいくつかエンディングがあった。
一つは攻略対象と結ばれてめでたしめでたしみたいな雰囲気のハッピーエンド。
もう一つは途中で選択肢を間違ったり、攻略対象の好感度とかいうものが足りない場合に辿り着くバッドエンド。
このバッドエンドの中にはレビンやエーギルの思惑通りになってしまうものも結構な数、あった気がする。
(リリスがゲームの流れに沿わないように動けば、あの人たちの思い通りになる未来は少なくなるかも)
少なくとも、彼女は少しでも早くこの屋敷から逃すべきだ。そしてどこか遠くへ逃げてもらう。
(……やることが多いわ)
うーんと唸る。
一日ベッドで体を休めたおかげでもう十分に回復している私は、椅子に座って机と対面していた。
机の上には真っ新な紙の束がお行儀良く縦に整列し、分厚い魔術の本の表紙の上にはインクのついていない羽ぺんが転がっている。
お父様に気に入られるという目標を失った今、魔術の勉強にも身が入らなかった。こんなこと生まれて初めての体験で、人は目標を失うとここまで堕落するものかと肩を落とす。
思い返せば、私の十年間はお父様に捧げたようなものだった。
物心ついた時には既に寝る時以外、ずっと魔術の勉強ばかりしていた。子どもらしく元気に外で遊ぶこともなく、交友関係はお父様が決めた家柄上の友だち――その中でもちゃんと友人として接することができていたのはレビンだけ。だから現状から鑑みても、レビンに依存した未来があったとしても納得できてしまう。
自分のことながら情けない。これでは無気力になってもしょうがない。
手持ち無沙汰な指先で、表紙の上のペンをクルクル回す。
悪役にならないためには、できる限りレビンやお父様から距離を取らなくてはいけない。絶縁できればいいのだろうけど、少なくとも今の段階では、そこまで思い切る勇気もなければ、行動を起こすためのバックアップもない。
できてそう……完全にお父様から見放されるように振る舞うとか。あとは……。
あーだ、こーだと考えたことを適当に紙の上に書き連ねる。子どもの頭で考えられることなんてたかが知れている。陳腐な案しか浮かんでこなかった。
せめて足立花がもっと理知的で経験豊富な大人だったら良かったのに。どうして子どものうちに死んでしまったのか。その記憶は残念ながら思い出せない。
(どうせ碌でもないことなのでしょうけど)
断片的な記憶だけれど、足立花という女がかなり喧嘩慣れしていて、孤立していたヤンキーであったことは間違いない。
思い出せる記憶思い出せる記憶、だいたいが喧嘩をふっかけられてやり返している記憶ばかりだから、どうせ死因もそういう感じなのだろう。
でも、だからこそ一際輝く記憶があったのも事実。
唯一の友人の梨々子との記憶。
どれも他愛のないやり取りだけれど、胸の中に経験したことがない、温かな感情が流れ込んでくる。
温かくて、ふわふわして、少しこそばゆい。
この感情の名を、たかだか十年生きただけの私は知らない。
「蛮族……ではなく、ヤンキー、ヤンキーかぁ」
私は椅子からぴょいと立ち上がり、大きく脚を広げ、そのまま腰を下ろす。あの私がよくやっていたポーズ。
貴族の令嬢であれば、こんな格好をすることはない。またの名をうんこ座り。名前まで下品だ。誰かに見られたら恥ずかしくて首を掻き切ってしまうかもしれない。そんな羞恥心を内包しつつ、こほんと咳払いを一つし、「てめぇ、なに、みてんだよっ」。
などと、真似事をしてみるのだが、何か違う。
「うっせえなあ」「だりぃ」「うられたけんかは、かうのがれいぎだかんな」……ヤンキーの礼儀とやらは倫理観が狂っているらしい。それとも、騎士が決闘を申し込む時のような暗黙のルールってやつに該当するのかもしれない。「くっそねみ」。
私は思い出せる限りの一際態度が悪い時の言葉を口に出してみる。
年齢的にも仕方ないかもしれないけれど、彼女のような威圧感のある声。もといドスの効いた声は出ない。これでは子犬が必死に吠えているくらいにしか思われなさそうだ。
でも、これを鍛えれば? 汚い言葉を好んで使うお嬢様なんて前代未聞だろう。
少なくとも、由緒正しき賢人の血縁、ティフォン家の令嬢がして良い振る舞いではない。次期当主としての面目丸潰れで、ティフォン家の名折れと囁かれるかもしれない。
(いや、いや、違う。思い出せ私)
自分の頬を叩く。
お父様は私を見ていない。個人としての私はどうでもいい。道具としての使い道を見出せれば、彼は私に利用価値を見出すだろう。ならば、これだけでは足りない。
やはり、私は魔術とは別の道へと行かなくてはならない。それが私を蔑ろにしたお父様と、私を殺したレビンに一矢報いるための一歩であり、それなりに長く生きるための選択だ。
「お嬢様、失礼しま……えっと、いかがいたしました、か?」
うんこ座りをした私を前に、使用人は眉を顰め、訝しげな視線を落とした。目下の者にそのような表情で見下ろされるのが初めてだったからか。はたまた、単なる羞恥心からか、顔がかっと熱くなる。
「う、うるせえぇぇ!!! 何でもねえよ!! 出ていきやがれ!!!」
ティフォン家の使用人たちは実しやかに囁くのは、当主エーギル・ティフォンの娘のことである。
ある日を境に人が変わったように汚い言葉を吐き、低俗な振る舞いをするようになった。
一日たりとてサボったことのない魔術の勉強にも身が入らないようで、自習を怠りベッドで横になっていたかと思うと、次の瞬間には庭を駆け回っている。曰く、鍛錬とのことだ。
……なんの? と思っても使用人は所詮使用人。疑問を口にすることなどできない。
頭を打って人格が変わられてしまったのだと憐れむ者もいた。悪霊が取り憑いたとか、呪いをかけられて狂ってしまったなどと騒ぎ立てる者もいた。
しかし、全てが憶測にすぎず、誰も真実は知らない。知ろうとも思わない。
かつてのディアナは幼くして感情を失ったように無表情。泣き言は言わないが笑顔もない。怒りが顔に浮かべることはないが、粗相には相応以上の罰を与える、冷徹な少女であった。
だからか、今の自由奔放な姿の方が好ましいと感じる者もいた。
最近来た使用人の女は眩しそうに目を細めながら、彼女のことをこう評した。
「あの方は生きた目をしておいですのね」




