10月20日
生徒たちが勉学に励んでいる時間。
ナギはアルヴィンから呼び出され、一人、四階にあるアルヴィンの職員室の扉を叩いた。
促されるままに入れば、紙束が積み上がっている机の端に白い箱が鎮座しているのを目視する。ターコイズブルーの上品なリボンは、王都でも人気なスイーツショップのものである。ここのモカプリンは甘いものが苦手なディアナが唯一「イケるな」と言った代物で、その発言を聞いて以来、ナギも何度か足を運んでいた。
「それ、持ってけ」
アルヴィンは手に掴んでいる分厚い紙束から視線を上げることもせず、そっけない口調で指図する。
「偶然立ち寄ったんで買ったんだ。あいつらに持っていってくれ」
ナギは僅かに逡巡してから無言で頷く。
その店は、偶然立ち寄って入れる程度の人気ではなかったはずなのだが。
それをわざわざ言葉にするのはおそらく野暮というものなのだろう。
幼い自分だったらできなかったであろう気遣いと共にナギは音もなく廊下へと出ていった。
「うん?」
ギシ、と軋むベンチに腰掛けた私は不意に感じた視線に首をぐるりと回す。
やや土埃に汚れた壁に嵌められている窓の向こうに覗く廊下は閑散としていて誰も通っていない。
「どうしたの?」
当たり前のように隣で弁当の準備をしているリリスがこてんと首を傾げた。
「いや、なんでもない」
もしかしたら木陰に動物がいたのかもしれない。
欠伸を噛み締めながらバスケットの中を覗き込む。お得意のクロワッサンサンドの中身はっと――。
「うわっ、おい、これなんだ」
がっしりと握って目の前にまで持っていたそれのサクサクの生地に指が沈む。ベロンと力無く挟まれている丹色の具材は明らかに痛んでいる。
「あ、それサーモンだよ! 昨日兄さんのお友だちから送られてきたの。ディアナ、魚とか肉が好きって言ってたから挟んでみたんだ」
「生のまま?」
「う、うん。兄さんがサーモンは生に限るって言ってたから」
「……」
試しに一口食べてみる。生温かいそれは、絶妙な生臭さを放ちながらもクロワッサンの小麦の風味とバターの風味に微妙にマッチしている。つまり、まだ大事には至らない。
「生もの弁当に入れるのは、やめとけ」
「え!? 美味しくなかった?」
リリスは驚きとショックを隠しきれないというように目をまんまるに見開いて詰め寄る。
この娘、常識ってもんが欠けているらしい。
「下手すると腹壊すぞ」
「なっ!? 吐いて! 吐いてください!!」
言うや否やリリスは私の背中をバンバンと遠慮なく叩いてくる。おかげで咀嚼していたクロワッサンサンドが収まるべき場所から外れてゲホゲホと咽せる。
どうにか胃に収めた私はリリスをキッと睨みつける。
「死ぬとこだっただろうが!」
「お腹壊すって言うから吐き出させようと思ったんです!」
「だからっていきなり背中叩くか普通。頭使え、頭」
「うう、確かに」しょんぼりと落ち込んだ様子でリリスが隣に腰掛ける。
あの兄にしてこの妹あり。どんな教育したら反射神経で暴力に走るようになる。場合によっては、ヴェントの子育てに異議を申し立てるのもやぶさかではないレベルだ。
「まったく……」
リリスが用意してくれた紅茶で胃を落ち着けてから、再びクロワッサンサンドを口に迎えようと大口を開ける。しかし、パリッとした食感が歯を喜ばせることはなかった。
一瞬の瞬きの隙に、手の中に収まっていた食べかけのクロワッサンサンドは忽然と姿を消した。
かちりと上下の歯がなって、私は目を細める。腹の奥からも抗議の音がグゥーと響いた。
「ふむ……これは、ダメですね」
冷淡な声が降ってきて顔を上げる。端正な顔立ちの男は、切れ長の青い瞳でクロワッサンの間からベロンと飛びてたサーモンを凝視していた。
「おい、ナギ。それ私の昼」
「お嬢様でしたら胃を痛めることはないでしょうが、万が一ということもあります。これは私が責任を持って処分いたします」
「いいって。返せ私のクロワッサン!」
食べかけのクロワッサンをナギの手から奪おうと手を伸ばすも、ナギがくるりと身をひる返したため手は届くことなく宙を掴む。じっとりとした視線でナギを責めるも彼はどこ吹く風といった様子でクロワッサンを処理――自らの胃の中に収め始めた。
「あ! 私の飯!!」
再び奪い返そうとして手を伸ばし、それも難なく逃れられてしまう。ぐぬぬと唇を噛み締める。
不毛な小競り合いは食べかけのクロワッサンの一欠片までがナギの口の中に吸い込まれるまで続いた。
「あー。くっそ」
イタズラに体力を消費してしまった私はどかりとベンチに腰掛ける。情けなく軋むベンチの音にリリスがぴくりと肩を震わせて、キョロキョロとベンチの様子を確認するのを横目に、彼女のバスケットへと手を伸ばす。
だが、それを再び拒むものあり。
ずいと掌に押し当てられた小瓶に眉を顰める。差し出した本人は、相変わらず能面みたいな無表情でこちらを見下ろしている。
「なんだこれ」
「アルヴィン様からです。偶然立ち寄ったとのこと」
「いや、私はまだ昼飯を満足に食べられてないんだが。甘いものの気分じゃないんだが」
「そちらでいたら万が一の場合でも腹痛には至りません。どうぞ、お食べください」
ナギの野郎、私がちょっと怪しいサーモンクロワッサンサンドを食べるのを阻止しようとしてやがる。
手を右に動かせば、茶色いプリンが入った小瓶も同じ速度で移動する。左に動かせば左に。フェイントをかけても鏡合わせみたいに同じ動きする。
こうなると、ナギは私がこいつを素直に食すまで何時間でもこの無意味な動作を繰り返すだろう。
つまり、折れるならば私。しゃーないと肩を落としてプリンを手に取る。
「貴方の分もお預かりしております。アルヴィン様の妹御、リリス嬢」
そう言うと、リリスにはフロランタンを差し出す。
「えっ!? ――わ、私もですか?」
「アルヴィン様からですので遠慮は必要ございません」
「あ、ありがとう、ございます」
リリスの声が尻窄む。視線は受け取ったフロランタンの上に定まることなく、忙しなく8の字を描いている。
「どうしたんだ?」
しれっと手渡されたスプーンでモカプリンの苦味を堪能しながらつい口を挟む。リリスは全身をビクッと跳ねさせて。
「な、なんでもない!」
などと顔を左右にブンブン、両手を顔の前でブンブン振る。挙動不審過ぎる反応に眉間の皺がますます深くなる。
「あ、いや。なんでもなくは、ないんだけど……」
私の不機嫌を察知したのか、弱々しい声で否定をくるりとひっくり返した。首を縮めて、捨て猫よろしくナギを見上げる。
少し目を離した隙にバスケットを横取りしていたらしい彼は、クロワッサンに挟まっていたサーモンをハムやらチーズに入れ替えている最中であった。リリスの視線に気づくと無の瞳が彼女を見返す。
リリスは暫く口元をゴニョゴニョさせた後、意を決したように口元を引き締める。
「あ、あの!」
勢いよく立ち上がった拍子にぎしっと古いベンチは茶々を入れるように軋む。
「あなたはディアナとどんな関係ですか!? 親しいようですが」
「? 付き従う関係です」
さらりと口にしたナギの言葉にリリスは顔を真っ赤に染める。
「付き従う!? 生涯をですか!?」
「確かにこの命尽きるまでお側におります」
能面の顔はこくりと力強く頷く。
「つまり、恋人が、いた……」
(……あ?)
いやいや、待て待て。あんた今なんて言った? 恋人って言ったか?
「違う違う。恋人だったら付き従うってのはおかしいだろうが。そんなんじゃない」
「じゃあ何? 命尽きるまでなんて熱い想いを抱いてるんでしょ? あ、兄妹!?」
「余計におかしいだろ。見た目似てないし、そんなねっとりした兄妹いてたまるか」
「目の色は似てると思ったんだけど……。えぇ、なら何? だって従者とかにしてはあまりにも綺麗な人だし」
「それだよ、それ」
答え出てるじゃねえか。
「え? で、でもこの人……。え?」
リリスは狼狽しながらナギの頭の先からつま先まで、視線を慌ただしく行き来させ、首元の一点でピタリと止めた。
「藍色のループタイ……ってことは本当に従者さん? どこぞの貴族ではなく?」
「確かにどこぞの貴族でもおかしくないナリだけどな。こいつは、正真正銘私の世話係だ」
親指でナギを指す。
「え、だって、クラスの子達がどこの家の方かしらって。だから、てっきり私は……。し、しかも世話係って――?」
リリスは目を白黒させながらしどろもどろに言葉を撒き散らしている。勝手に勘違いして勝手に混乱しているらしい彼女のところにクロワッサンの中身を入れ替えたナギが歩み寄る。
「申し遅れました。私はナギ。お嬢様の世話係でございます」
「と言うことは、同じ場所に住んでる?」
「ええ。諸事情により、現在はお嬢様と二人で暮らしております故、身辺の雑事は全て私が担当しております。以後お見知り置きを」
リリスにバスケットを差し出しながら、全く親しみを感じさせない無表情でよろしくお願いする。
「あ、はい。私はリリス・ヴェントです。……うん?」
彼女は何かに気づいたように首を傾げ、ぐいっと私へと顔の正面を向けた。
「ふ、二人で暮らしてるの?」
「そうだけど」
それがどうした、なんて問うよりも早く、リリスはムンクにも負けない叫び声を響かせたのだった。




