10月9日②
「あ、あのー」
まだ夏の日差しの気配を残しながらも、色付いていく葉の匂いはどこか青々と茂ったそれよりも渋い。それが良い睡眠導入剤となり、夢現だった意識がふんわりと浮上を始める。
「すみませーん!」
誰かが何かに呼びかけているようだ。睡眠の邪魔だと眉間に皺が寄る。顔を背けたかったけれど、枝から落ちないギリギリのバランスを保っている以上、下手に身じろぐのは危険だ。
「お伺いしたいのですがーー!!」
「あーだー! うるせえな! 誰だっ……よ……」
カッと目を開く。上半身を起こした勢いで枝が大きく撓んだ。直角に曲げた腕で拳を構え、声のした方へと視線を下げた。
瞬間、きゅっと心臓が止まる。いや、実際はそんなことはないのだろうけど、そんな錯覚が起きるくらいの衝撃が走った。
時間がやけにゆっくり流れる。木の下でこちらを見上げている少女がメガホンにしていた手を、一分くらいかけて下ろしたように見えた。そのくらい、私の脳は動転していた。
「ああ、良かった。誰もいないからどうしようと思ったんです。ここの生徒の方ですよね? よろしければ、道を教えてくれませんか?」
肩にかかるくらいに揃えられた、緩いウェーブがかった白い髪。大きな桃色の瞳は人懐っこい犬のように愛嬌を湛えている。
迷子になってしまって、と困ったように笑う。その表情にこそ見覚えなどないが、容姿には覚えがある。ありすぎる。なんだったら、成長したことで余計にしっくりくる姿になっていた。
――リリスがなんでここにいる。
頭の中に疑問符が浮かぶ。ラナには遠くに逃げろと釘を刺したはずだ。王都の方へ行かなければヴェント家に拾われることもないからと。
なのにどうしてここにいるんだ。
「もう少しで入学式始まっちゃいますかね? 時計も見当たらなくて。兄さんに言われた通り、腕時計を準備しておくんでした」
私の返事なんか気にせずにリリスは一方的な会話を続けてた。遅れてしまうという焦りを拭おうとしているのか若干早口である。
「そうだ、あなたのお名前は?」
「――っ!」
弾かれるように私は枝から飛び降りた。ナギほどスマートではないが片膝をつくように膝を曲げれば着地するくらい余裕だ。そしてそのまま真っ直ぐ校内に向かって走る。
あの距離だし、枝や葉っぱに遮られて私の顔はよく見えていないことだろう。
これ幸い。このまま巻いてしまえば問題ない。何も見てないし会ってなどいない。
「あっ! 待ってください!! 道、そっちなんですかーー!?」
と思ったのに、あろうことかリリスは私を追いかけてきた。こっちなわけあるか。逃げてるんだ見りゃわかるだろ、届くはずもない文句をサイレントで飛ばす。
いっそのこと本当に会場方面に逃げてしまおうか。サボろうとしていたことがバレれば先公どもに咎められはするだろうが、目的地まで送り届ければリリスも足を止めるだろう。
(よし、そうしよう。冴えてるな私!!)
そうとなったら方向転換。しぶとくついてくるリリスを案内してやろう。最後までついて来れたらの話だけど。
ちなみにここのこの王立学院は無駄に広い。建物に関しては縦に長く、十八階まである。大講義室はそのうち三階の渡り廊下の先。学院内で一番端っこにある部屋である。だから距離だけならそうでもない。階段を二回登って真っ直ぐ行けばいい。
ただ、この階段が長いのだ。その上一階上がる間に四回は方向転換する必要がある。
だもんで普通の生徒は中央にある絡繰仕掛けのエレベーターを使うのが一般的だ。まだ魔導器が発明される前に作られた代物らしく、このエレベーターの動力源は原油だったりする。
鍛錬で鍛えている私であれば、あの階段を登るのはそこまで苦ではないけれど、細っこいリリスは普通に登るだけでも疲れるだろう。
そのままギブアップしてくれてもいいぞ、などと悪魔じみた考えにほくそ笑みつつ、階段ダッシュを決め込む。
途中でちらっと後ろを振り返ると、なんとへとへとになりながらもちゃんとついてきているではないか。なんだってそこまで懸命に追いかけてくるんだ。
速度を上げるか? ここまでくれば、正直うろちょろしてれば標識の一つも見つかるだろう。頭の中で考えを巡らせながら百八十度回転した時だ。
ごん、と不意に何か固いものに頭をぶつけた。いや違う。固いというか、弾力のある壁みたいなのにぶつかった。その拍子に後ろに蹌踉めく。階段の途中に誰かが何か置いたのだろうか。
誰だよいったい……。悪態づきながら頭を上げる。
「ひっ……」
そこにあった顔に小さく後ろに飛び臨戦体制を取る。
右側に掻き上げられた焦茶色の前髪の下から涼しげな目元から紫の瞳が覗く。そのにこやかな笑顔は、女子からは爽やかだと黄色い歓声を得ているらしいが、私には鬼が笑っているようにしか見えない。
ハンサムだとかなんだとかもてはやされている裏で、ちょっとヤンチャな女の子が中指を立てたくらいでその指を曲がらない方向に折るという容赦のない制裁を下す人間だと知っている(後でちゃんと治してもらったが、もうするなよと釘を刺された)
「ひっ、とは随分なご挨拶だな、後輩?」
見習い騎士は一人前の騎士の一人から直接指導を受けるという習わしがある。それも騎士学校に入学することができる適齢、つまり十五歳未満の見習いはほぼつきっきりでその先輩に付き従うのだ。
こいつはその先輩。試験会場で魔術も行使して大暴れした女の私を、面白いの一言で見習い騎士として推薦し、あろうことか自分の後輩として迎え入れた男。
「アルヴィン――なんでここにいるんだよ……?」
「その前に言うことがあるだろう?」
「えっと……。お疲れ様ですそれでは失礼――!」
横を通り抜けようとしたところ、頭をがっと掴まれた。痛い痛い、軋む軋む。
「おはようございます、だろ? 挨拶は騎士道以前の問題だって言ったよな? ディアナ?」
そう言うや否や、すごい勢いで踊り場の床に背中を叩きつけられる。背中の痛みが瞬時に全身に伝搬して震えた。
仮にも学院内で暴力振るうなよエセ紳士が。
「はぁ、はぁ……。な、なんの音ですか?」
「あっ」
「あっ」
目が合った。息を切らしてへとへとなリリスが私を見下ろしている。
ただでさえ紅潮していた頬がより赤くなっていく。丸い目がまん丸に見開かれる。
「黒い髪に青い瞳の勇ましい女性……。もしかしてと思ったけれど、まさかあなたは――」
会ってしまった。見られてしまった。もはや引き攣った笑顔でへつらうことしかできない。
「ディアナ様ですか?」
あーあ。
(なーんで名前まで知ってるんかねぇ)
観念したように、両腕を頭の上に持っていった。




