9月12日
うう、と呻き声を漏らしながら身動ぐ。
体が痛い。変な寝方をしてしまったのか全身が凝り固まっている。
緩慢な動作で瞼を開くと一面には暗闇が広がっていて、そこが倉庫の中であったことを思い出す。
床に頬を引っ付けている不衛生極まりない状況に鳥肌を立てながら飛び起きる。
ぎゅっと両手を胸の前で握り、目を凝らしながら室内を見回す。
(今は何時なのかしら? 部屋の中から見上げた時ですら、月が出ていたのだから今もまだ、夜の続きなのかもしれないけれど……)
キョロキョロと顔ごと視線を上へ左右へと動かす。
どこを見ても外からの光一つ差さない完全な暗闇。
確か外から見た時は窓が左右に二つか三つは並んでいたはずだが、中から見る限りは窓のひとつもない。
(窓があった、というのは私の記憶違いだったり?)
あまり立ち寄らない場所だからその線が濃厚かもしれない。
暗闇の中で壁はただ伸びているだけで、倉庫と呼ばれていた古い屋敷の中は伽藍堂、もの一つ落ちていない。
ここはなんだ?
心が騒めいた。
こんな場所に留まっていてもいいことはない。引き返すのであれば今のうち。そんな警告が胸中に響く。
私は立ち上がって、暗がりの中、壁をぺたぺたと触りながら扉を見つけ出す。力一杯押してみたが、どういうわけか開かない。
「嘘でしょ、鍵をかけられた? ――誰か! ここを開けて!!」
叫んでみるも、声は虚しく反響するばかり。心細さだけが募っていく。
実はこの扉、実際は鍵などかかっていないのだが、恐怖心でいっぱいの私はそこまで頭が回らない。
誰かが私が中にいることに気づかずに閉めてしまったと思い込んでいた。
「そ、そうよ。倉庫なのだもの。どこかに明かりくらいあるでしょ」
自分を奮い立たせるように言葉を発し、私は壁伝いに歩き始めた。
扉の横の壁から時計回り。角に差し掛かったので折れてまっすぐ歩く。
足にものが触れる感覚はやはりない。
もしかしたら、本当に何も置いていないのかもしれないと思い始める。
見た目からしてオンボロだったし、倉庫とは名ばかりで、倉庫の役割すら担っていなかった可能性もあるのではいだろうか。
また角に当たった。曲がって歩いてみる。不意に壁がなくなった。少しだけ闇に慣れた夜目を凝らす。
人一人分程度、壁にぽっかりと長方形の穴が空いている。元々扉があったけれど、取り除いた。そんな感じの穴。
(そんな広い倉庫には見えなかったけど)
少なくとも私の知っている倉庫の外観は長方形の二階建てのボロ屋敷といった様子だったはずだ。
なぜこんなものが由緒正しいティフォンの屋敷にあるのかと昔から疑問を抱く程度にはボロボロで、壁を覆い尽くさんばかりに蔦が伸びていて気味が悪かった。
(そういえば、あれだけオンボロだったのに隙間一つないのね)
ネズミ一匹入り込めるような隙間があれば、この停滞した倉庫の中でも時間を感じることができるのに、と少し恨めしく思いながら、吸い込まれるように穴の方へと折れた。
その先はまっすぐな通路になっていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、キーンと甲高い音が脳を直接揺さぶった。何かが私に語りかける。
――私は、この光景を知っている。
だけど、一体どこで? 私はこんなお化けが住んでいてもおかしくない倉庫の中に入ったことなんてないはずだ。
そんな疑問は思考を空回り、私の足は細い糸で引っ張られるように歩き始めた。
歩を進める。
どうしてか、私ははここを知っている。真っ暗で何もない。しかし、この先にあるものを知っている気がする。
歩を進める。
そのうち高い高い天井に古びたシャンデリアが出てくる。普段は灯りを灯されることがないそれが、光を灯した様を知っている。
歩を進める。
壁に突き当たる。これ以上進めない。
(いいえ、違う)
この先があることを私は知っていた。
指先の皮を歯で剥いだ。ぷくりと膨らんだ血を一滴壁に押し当てる。
赤く光る魔法陣が浮かび上がる。ぐるぐると回転したそれが音もなく消えた時、壁も一緒に霧散する。
臭いがする。腐敗臭と泥水と鉄の臭いが混ざったそれに思わずえずく。
気持ち悪い、気持ち悪い、思い出したくない。私はこれの臭いを知っている。
歩を進める。
冷たい鉄格子。蝋燭が薄く室内を照らすのは人の形。
這いつくばって、生きているかもわからない人間がその中にいた。
目は合わない。格子の中には銀のお椀に泥のような何かが盛られている。それが何を意味するのか、想像したくもない。
歩を進める。
呻き声が聞こえた。発狂する声が響いた。何事かを話す声が聞こえた。
どれも言語の形をしていなかった。ただ苦しんでいるということだけがわかった。
歩を進める。
突き当たりに一際大きな牢屋があった。銀色の杭が伸びたその中で、一人の少女が手折られたように頭を前に倒し、背を丸めて横たわっていた。
痩せ細った四肢。白い髪が彼女の秘部を隠すように流れる。力無く開いた口からは泥が漏れている。
ゆっくりと薄い瞼が持ち上げられて、虚な瞳がこちらを見上げた。
鼓動が五月蝿く脈打った。冷や汗が全身から吹き出す。
――ああ、私はこの子を知っていた。
彼女はきっとこの世界のヒロインで、奇跡を起こした主人公。
愛する人と結ばれて幸せになるべき女の子。
――その名はリリス。
瞬間、ジジと砂嵐を前にしたかのように視界が乱れる。
その虚な瞳に別の面影が重なって、私は思わず身を屈めた。
頭が殴られたような衝撃に目を白黒させ、頭を両手で押さえる。
乱れた視界にいたのは、女の子だった。
目の前のリリスという名の少女ではない。
もっと、親しみのある語感。それに容姿は黒い髪と黒い瞳。童顔なところは、少し似ている。
その女の子が、今のリリスと同じようにボロボロの姿で体を折って、虚な瞳でこちらを見上げていた。
ドクリ、心臓が鷲掴みされたように畝る。
「……梨々子」
口を吐いて出てきた名前は、私の、過去の親友。
ディアナとして生まれる前の、足立花という女の人だった時の、私の一番大切な人。
くらりと頭が揺れた。踵を返して逃げ帰るように一目散に走った。
扉に突き当たった。ガタガタと揺らせば、その扉が引けることに気づく。なんだ、最初から引いていればよかったんだとこの時になって理解する。
ギギと鈍い音をたて開いた扉の隙間に、入る時と同じように体を滑り込ませた。
暗い木々に囲まれたそこに、白んだ光が降り注ぐ。
黒を塗り固めたような空に、ぽっかりと白い月が浮かんでいる。




