10月12日
家庭教師から出された宿題を一通り終えた私は、ふらふらと屋敷の中を彷徨いていた。
今日で、私が頭を打ってちょうど一ヶ月が経つ。
最初の頃は、屋敷を意味もなく彷徨いているだけで使用人たちが畏まった様子で壁際に避けていたけれど、今はあの時ほどの緊張感は見られない。
おそらく皆、私に慣れたのだろう。
特にここ数日、ナギに追いかけ回されていたことも今の私を知るきっかけに繋がったのかもしれない。
満遍なく逃げ回っていたものだから、ほぼ全ての使用人が走り回るお嬢様の姿をその目に焼き付けたに違いない。
(だが、あいつの対処法は考えないとだよな)
このままでは満足に動くこともできなくなってしまう。
どうしたものかねと考えあぐねながら一階まで降りたところで、私の鼻がスンスンと周囲の匂いを嗅ぎ取る。
やけに甘い匂いがした。来客でもあるのだろうかと思案したが、すぐに首を横に振る。
お父様も私も甘ったるいお菓子は好まないから、たとえ来客があったとしても甘ったるい匂いのお菓子なんてものは作られないはずなのだが。
気になって厨房の方へと顔を覗かせると、一人の使用人の女性が立っていた。
赤い短髪でスラリとした長身の女性。背中を向けているため素顔は見えないが、使用人にするには勿体無いモデル体型だ。
(誰だあの人)
使用人の顔を一人一人覚えているわけではないが、あの目の覚めるような赤髪は見たことがない。もしかして新人だろうか。少し気になってのらりと一歩足を踏み入れる。
瞬間、シュッと耳の横を銀色の何かがすごい勢いで通り過ぎ、背後でカランと無機質な音がした。
視線を斜め後ろへと下げると、銀色のナイフがカランと落ちている。
「はっ、も、申し訳ございません!」
呆けている私に、赤髪の使用人は慌てた様子で深々と頭を下げた。
「気配を忍ばせていらっしゃったようなので、てっきり侵入者かと思いまして。大変申し訳ございません」
「え、いや。こちらの方こそ誤解を与えてしまって悪かった……な……?」
刃物を投げつけられた衝撃と、目の前で平謝りする女性との関連性が今ひとつ結びつかないまま、とりあえず何か返さなくてはと思って適当なことを口にした。
だがそれが悪かったらしい。赤髪の使用人は顔を上げたかと思うと血の気の失せた顔を左右に振り被った。
「悪かったのは私ですわ。ディアナ様は何も悪くはございません」
「いや……まあ、別にいいや」さも興味ないと言いたげに呟いて「あんた、名前は?」
赤髪の使用人は青白い顔を瞬時に引き締めると、背筋をピンと伸ばした。やや垂れた切れ長の目元に筆を走らせたような長い睫毛。
正面から見てもやはり美人の分類に入ると思う。
「申し遅れました。私は今月からここの使用人を務めさせていただいております。ラナと申します。先ほどはお嬢様に対してかようなご無礼、誠に申し訳ございませんでした」
恭しくお辞儀をする。その様子からして、どうやら落ち着きを取り戻したらしい。
「解雇でも絞首台でもギロチンでも、謹んでお受けいたします」
物騒な言葉にギョッとした後、いや待てよと視線をスライドさせる。
確かに私がもう一歩でも右側に立っていたならば、耳か目を持っていかれていたかもしれない。そうでなくても、主人の娘を殺しかけたとあっては立派な犯罪。絞首台もギロチンもやぶさかではない。
事実、頭を打つ前の私だったら絶対そうしていただろう。
(うーん……)
暫しの逡巡の後、ひとりでにこくりと頷いた。
「さっきのことを咎めるつもりはない。お父様にも話さないから精々頑張って働いてくれ」
「え、ですが……」
「私がいいと言っているんだ。志願するっていうなら話は別だが?」
「い、いいえ! ありがとうございます!」
ラナは床にのめり込みそうなほど深々と頭を下げる。反応に困って、こほんと徐に咳払いした。
「……でだ。ラナはここで何をしていたんだ?」
彼女は驚いたように目を丸くする。腰だけを回して何かを掴むと、それを私の目の前に差し出した。
黒いトレーの上には、溶岩ドーム状の茶色いケーキのようなものが並んでいる。
「これは?」
「カヌレでございます。ルッタ様のご命令でお作りいたしました」
「ルッタ?」
ルッタとは使用人頭の女性だ。
今日は来客もないのだから、厳格な彼女がお菓子を作るよう命令する意図がわからず、なぜ? と疑問をそのまま口にする。
「使用人たちへの褒美とのことです。月に二回ほどこのような菓子を作って英気を養うと……。も、もしかしてこれは、ご主人様やお嬢様には内密にしなくてはならないことだったのでしょうか?」
今更小声にしてももう遅いのだが。
「知らないけど。仕事に支障をきたさないのであれば、お父様もダメとは言わないんじゃないか?」
そもそも、娘のことすら我関せずのあの人のことだから、使用人が何をしていても道端の小石ほどの意識も向かないだろう。
「それにしても使用人って料理できるんだ」
ここには使用人とは別に料理長がいる。使用人は配膳とかその他の家事手伝いを行うもの、というのが私の中の常識だった。
「えっと、個人によるかと。私が以前勤めていたお屋敷では料理も含めて使用人の仕事だったので」
「ふーん。……そうだ。それ一つくれよ」
私は思いつきでカヌレを指差した。
「構いませんが……お口に合うかどうか」自信のなさから声が尻すぼみになっていく。
「あー違う違う。食べるのは私じゃない。甘いの苦手だし。じゃ、一個もらっていくよ」
ひょいと手前のやつを一個摘んだ。
「お待ちください、今お皿を用意いたしますから!」
「いいっていいって。じゃあな」
呼び止める彼女の声を無視して、私は厨房を後にした。
一階の階段下まで来ると、私は足を止めた。周囲を見渡しても人影らしいものはない。
「ナギ、いるんだろ?」
普通の声量で呼び掛ければ、不意に背後にトスンと足音が落ちてきた。やれやれと肩を落とす。
「あんたは普通に出てこられないのか?」
「どこで監視しているかによります」
「そーかい。ん」
無愛想な回答を適当に受け流し、私は摘んでいたカヌレをナギの胸の辺りに突き出した。彼は無表情のままそれをじっと見る。
「先ほどの使用人からの頂き物ですね」
「そう。あんたにやる」
「いいえ。受け取るわけにはまいりません」
「いいから受け取れよ。私甘いの苦手だし、捨てるのは申し訳ないだろうが」
「であれば最初から頂かなければよろしかったのではないですか」
正論を言われ、私は不機嫌を隠そうとすることもなく目を細めた。じっとりと眼前の蝋人形を見つめる。
「あんたさ、いつ食事してんだよ」
「適当な時間に」
「私の隙をついてってか?」
「そうです」
「ふーん」
私を見張りながら器用に食べているのだとすれば、こいつが余程の早食いとかでない限り、私が寝ている時以外は携帯食くらいしか食べられないんじゃないのだろうか。
「じゃあこれはその適当な時間のお菓子だ」
だらりと垂れていた手を掴んで無理やり握らせ、すぐにくるりと背中を向けた。
「んじゃちゃんと食べろよー」
手をひらひらさせながら、玄関の方へと足を進めた。
扉を開く直前にちらっとナギの様子を伺えば、階段下で、カヌレ片手に棒立ちしている美少年の図があまりにもミスマッチで、ククと喉を鳴らした。
ナギはじっと掌に収まったそれを眺めていた。
茶色い山の形をした菓子。菓子に使われている砂糖は、トルドナ国では高級品に分類される。
故に使用人が自分たちの英気を養うためという理由で菓子を作っていると聞いた時は心の中で顔を顰めたものだが、ここがトルドナで指折りの富豪であることを思い出して考えるのをやめた。
鼻先に持っていき、匂いを嗅いでみる。甘ったるい砂糖の匂いとバニラのふんわりとした香りは彼にとって馴染みのないもの。いや、もしかしたら初めて嗅いだものかもしれない。
(毒が入っていてもこれなら多少誤魔化せるな)
物騒なことを考えながらとりあえず表面を舐めてみる。艶々とした舌触りに首を傾げた。奇妙である。
歯を突き立ててひと齧りする。カリッと、むにゃっとしていてやはり奇妙である。
毒は、流石に入っていないようだ。
(……甘い)
舌の上で念入りに転がしてから、音もなく嚥下した。
(……おかしいな)
ナギは片手に握った菓子をまじまじと見つめ、訝しげに眉を顰めた。




