第八話
久々に見る師匠譙周の顔は、以前よりも老けていた。皇太子の教育係というのは苦労が絶えないのかもしれない。以前は黒く立派だった髭は、白混じりでハリがなくなっていた。
「上等な酒だな。高かったろう。すまぬな」
「来るとわかっていればもっと買ってきましたのに。師匠はいつも突然現れ、突然いなくなる」
「予定などつまらん。衝動こそ、人を更なる高みに押し上げる原動力となる。それに、よい酒は呑みすぎてしまうから、少なくていいのだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。これは私の専門分野ではないが、万事に通じる真理の一つだ」
「久々に会えたのです。もっと沢山呑みたいものです」
「お前は良い奴だなぁ承祚。みんな、私を敬いこそすれども、共に酒を呑むのは嫌う。私が突然歌いだし、庭や野山へ行くのを嫌うからだ」
「俺もそれは嫌いですよ。しかし師匠のお考えは、儒学者でありながら守りに入らず、常に新しく正しいものを追いつづけている。お言葉を聞き漏らしたくないのです」
「だが今日は、面白い話などもちあわせてはいない。宮殿にこもり、太子に学問を教え、時として陛下の話し相手となる。名誉あることなれども、新しい発見などなく退屈だ」
いつになくつまらなそうな言いように、陳寿は笑ってしまった。皇太子に施す教育には、礼も含まれる。これは儒学者の本分とも言えるものなのに、譙周は極めて無礼であり、およそ教育者には不向きな性格であった。ただ、世の真理を探求するために学問を修めただけの彼にとって、国に仕えることなど、志ではなくただの食い扶持の確保に過ぎない。それは人々の目には奇怪に映ってしまうようだが、それが陳寿にとっては、師匠譙周が机上の空論で語る腐れ儒者ではなく、真の賢者であると思わせる要因であった。
譙周は盃の酒をぐいっと呷って、飲みこんだ。裾で雑に口許をぬぐった。それから瓶の酒をちょびちょびと注ぎながら、口を開いた。
「今日は、国の大事について話をしにきたのだ」
「夏侯覇ですか、その大事というのは」
「そうだ。陛下はこの私に、伝令のような役目を与えておるのだ」
「と、いいますと?」
「お前が夏侯覇より聞き及んだことを、私が直接、陛下のお耳に入れるのだ。費禕よりも先に、陛下自らが知ろうというのだよ。陛下は政において、費禕と姜維、益州人士と荊州人士、どちらかの力が強まり、偏ることを恐れておいでだ」
「恐れながらお聞きします。ならばなぜ陛下は、夏侯覇の降伏を受けいれたのですか。国内の偏りの種を、未然に殺してしまえばよかったものを」
「それは陛下の気まぐれだろう。陛下に気高い志など感じられない。ただ、この蜀漢を生きながらえさせようとする、一介の君主にすぎない」
「口が過ぎるのではありませんか」
「構わぬ、阿るだけでは本音を隠し、優れた見解も埋もれてしまう。陛下は私にそんなことを望まぬ」
「それで、夏侯覇のどんな話を聞きたいのですか」
「日に七度の問いを、百日続けると聞いている。数日経って、お前は夏侯覇にどんな問いをしているのだ」
「どんな問いですと? そりゃあ降伏の目的を探るための問いに決まっていますよ。奴は魏の重鎮。なぜよりにもよってこの蜀漢に降伏したのかを探るのが、俺の役目です」
「ほう、それで成果はどうだ」
「未だ、分かりません」
「一つ聞くが、そもそもお前はどうして夏侯覇の目的を探ろうとしているのだ」
「一つは、俺がなぜこの危険な遊びに参加させられたのか知るためです。もう一つは、奴からこの蜀漢を守るためです」
陳寿は、夏侯覇との問いの中で、その目的が蜀漢を滅ぼすことにあるという推察を披露した。しかしそれを聞いた譙周の反応は、冷ややかなものであった。
「なるほど、仲間がいることから、魏による我が国の攻略のために偽装投降した……という仮説を立てたのだな。確かにその仮説は支離滅裂ではないが、飛躍しすぎだ。根拠が足りなすぎるではないか。それにお前は一つ、大事なことを見落としている」
「なんです、教えてください!」
「夏侯覇の目的が一つであると、決めつけている。降伏の理由、蜀漢を選んだ理由、仲間がいる理由をごちゃ混ぜにしているのではないか。お前は賢い。だがそれ故、点と点を線で繋げたがる。気づいたことの全てに因果がある訳ではない。頭を冷やせ」
陳寿は酔い覚ましのために置いていた水を手に取り、飲み干した。
「良いか承祚よ、どんな英雄も一人で天下を動かすことはできない。夏侯覇がなぜこの蜀漢に降ったのか、よく考えたら分かるはずだ。奴の外戚関係を思いだせ」
「思いだすもなにも、知りませんよ。魏の情報など、この険しき巴蜀には伝わりません」
「ならば、蜀漢の有力者の姻戚関係を思いだせ、夏侯氏が紛れているはずだ。お前の産まれる前だがな」
「桓侯……! 桓侯の奥方は夏侯淵の姪だ!」
桓侯とは先帝劉備の義兄弟、張飛の諡号である。
先帝劉備が曹操の傘下に加わっていた頃、女好きの張飛は街で見かけた美人を気に入り、それを妻とした。奇しくもそれは曹操の親類の夏侯氏であり、曹操は劉備と親睦を深める架け橋としてその婚姻を喜んだとされる。
張飛は蜀漢建国の重臣でありながら、すでに世を去り、その息子たちの活躍は酷く父親に見劣りするため、彼の一族の存在感は薄れてしまっていた。
「しかし師匠、縁故があるとはいえ、あの夏侯覇が蜀漢を選ぶにはまだ、理由が足りない気がします。蜀漢の天敵と恐れられたあの夏侯覇が……会ったこともない親戚を理由に、蜀漢を選ぶでしょうか。孫呉という選択肢もあったはずです」
「それを暴くために、お前がいるのだ。それに、陛下がなにゆえ夏侯覇の望みを受けいれたのか、というのもある。陛下は全てを承知の上で、お前を遣わしているのかもしれない」
「つまり、蜀漢に危機などなく、本当にただのお遊びだということですか?」
「分からない。だが私にはそう思えてならんのだ。考えてもみろ、お前のいう通り夏侯覇が何かを企んで降伏してきたとして、我が国にそれを防ぐ手立てはない。魏と蜀漢の国力は、比較できないほどに差が開いている。そんな状況において、陛下が姜維に夏侯覇の身柄を預けないのはなにゆえだ。費禕を頼ってお前を見つけ出し、夏侯覇の相手をさせながら、私を使って費禕よりも先に情報を得ようというのはなぜだ」
「分かりません。どうしてなのですか」
「これは、陛下と夏侯覇のお遊びなのかもしれん。夏侯覇に危険な企みなどなく、陛下はただ降将を受けいれ、その上で国内の派閥争いが激化しないように気を配りながら、降将の降伏理由を知りたがっている……と考えれば、全ての辻褄は合うだろう」
「陛下は……なんと人がお悪い……! そのお遊びのために、臣下の俺を死地に追いやったのですか!」
「凡庸な君主ならばそれもあるだろう。しかし陛下は……偉大ではなくとも、決して暗君ではない。そうでなければ、誰もが敬愛する傑物諸葛丞相亡きあと二十年余年、蜀漢が存続している訳がない」
真剣に語る師匠譙周に、頷く陳寿であったが、譙周は大口を開いて笑いだし、そして酒を一気に飲み干した。まるで、今のは全て冗談だったと言いたげな振る舞いであったが、これは師匠が照れた際によくとるおふざけであると知っている陳寿は、微笑して一口酒を呑んだ。
「よいか承祚、夏侯覇がしかけたお遊びに意味もなく感ける程、陛下は愚かではない。夏侯覇が蜀漢を選んだ理由が血縁による縁故なのだとして、夏侯覇を受けいれる条件に陛下は、こちらが持ちえない情報の提供を、要求したのではないか。降伏の理由を知るというのが、そういうことだとすれば、どうなる。推理してみよ承祚」
「もしや魏で……なにかが起こった。重鎮の夏侯覇さえ亡命をしなければならない程の……政変が!」
だが夏侯覇は、漢の皇帝による反乱は否定した。そして夏侯覇は自らの心が魏にあると告げている。つまり、魏の重鎮同士による政変が起こり、彼が心を寄せる魏がすでに滅びたのではないか。
もしそうであれば、彼が語った「仲間は魏にはいない」という言葉も、矛盾しない。
陳寿は深呼吸をし、師匠の顔を見つめた。これが真実であるならば、とても冷静では居られないほどの大事だからである。曹氏、夏侯氏はすでに滅び、蜀漢と天下を争った魏は誰かの手に落ちたということになる。
「お前の推理を聞かせてみろ、弟子よ」
酒に酔い赤く染まった頬とは裏腹に、師匠の顔は真剣そのものであった。
陳寿の推理を聞いた師匠はまたしても大口を開けて笑い、「また悪い癖だ。点と点を線で繋げすぎだ」と告げた。そして「まだ十六と若いし、まだまだ修行が足らんな」と続けた。
どうやら師匠は、弟子の思い込みすぎる癖を諌めているようだ。だが師匠はさきほどとは打って代わり、否定するだけではなかった。
「だが確かにそうだ。政変か否かはわからないが、魏でなにかが起こったのだろうと私も思う。それをチラつかせたのならば、陛下がこのお遊びに食いつくのも道理だ。魏で起きた何かを、お前はこれからの日々で問うのだ。そして真実を掴め、承祚よ!」
師匠はそういってまた笑い、酒を呷った。




