↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
降将  作者: 乘越唯響(のりごえ いおん)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/46

第八話

 久々に見る師匠譙周(しょうしゅう)の顔は、以前よりも老けていた。皇太子の教育係というのは苦労が絶えないのかもしれない。以前は黒く立派だった髭は、白混じりでハリがなくなっていた。

「上等な酒だな。高かったろう。すまぬな」

「来るとわかっていればもっと買ってきましたのに。師匠はいつも突然現れ、突然いなくなる」

「予定などつまらん。衝動こそ、人を更なる高みに押し上げる原動力となる。それに、よい酒は呑みすぎてしまうから、少なくていいのだ。過ぎたるは及ばざるがごとし。これは私の専門分野ではないが、万事に通じる真理の一つだ」

「久々に会えたのです。もっと沢山呑みたいものです」

「お前は良い奴だなぁ承祚(しょうそ)。みんな、私を敬いこそすれども、共に酒を呑むのは嫌う。私が突然歌いだし、庭や野山へ行くのを嫌うからだ」

「俺もそれは嫌いですよ。しかし師匠のお考えは、儒学者でありながら守りに入らず、常に新しく正しいものを追いつづけている。お言葉を聞き漏らしたくないのです」

「だが今日は、面白い話などもちあわせてはいない。宮殿にこもり、太子に学問を教え、時として陛下の話し相手となる。名誉あることなれども、新しい発見などなく退屈だ」

 いつになくつまらなそうな言いように、陳寿(ちんじゅ)は笑ってしまった。皇太子に施す教育には、礼も含まれる。これは儒学者の本分とも言えるものなのに、譙周(しょうしゅう)は極めて無礼であり、およそ教育者には不向きな性格であった。ただ、世の真理を探求するために学問を修めただけの彼にとって、国に仕えることなど、志ではなくただの食い扶持の確保に過ぎない。それは人々の目には奇怪に映ってしまうようだが、それが陳寿(ちんじゅ)にとっては、師匠譙周(しょうしゅう)が机上の空論で語る腐れ儒者ではなく、真の賢者であると思わせる要因であった。

 譙周(しょうしゅう)は盃の酒をぐいっと呷って、飲みこんだ。裾で雑に口許をぬぐった。それから瓶の酒をちょびちょびと注ぎながら、口を開いた。

「今日は、国の大事(だいじ)について話をしにきたのだ」

「夏侯覇(かこうは)ですか、その大事(だいじ)というのは」

「そうだ。陛下はこの私に、伝令のような役目を与えておるのだ」

「と、いいますと?」

「お前が夏侯覇(かこうは)より聞き及んだことを、私が直接、陛下のお耳に入れるのだ。費禕(ひい)よりも先に、陛下自らが知ろうというのだよ。陛下は政において、費禕(ひい)と姜維(きょうい)、益州(えきしゅう)人士と荊州(けいしゅう)人士、どちらかの力が強まり、偏ることを恐れておいでだ」

「恐れながらお聞きします。ならばなぜ陛下は、夏侯覇(かこうは)の降伏を受けいれたのですか。国内の偏りの種を、未然に殺してしまえばよかったものを」

「それは陛下の気まぐれだろう。陛下に気高い志など感じられない。ただ、この蜀漢(しょくかん)を生きながらえさせようとする、一介の君主にすぎない」

「口が過ぎるのではありませんか」

「構わぬ、阿るだけでは本音を隠し、優れた見解も埋もれてしまう。陛下は私にそんなことを望まぬ」

「それで、夏侯覇(かこうは)のどんな話を聞きたいのですか」

「日に七度の問いを、百日続けると聞いている。数日経って、お前は夏侯覇(かこうは)にどんな問いをしているのだ」

「どんな問いですと? そりゃあ降伏の目的を探るための問いに決まっていますよ。奴は魏(ぎ)の重鎮。なぜよりにもよってこの蜀漢(しょくかん)に降伏したのかを探るのが、俺の役目です」

「ほう、それで成果はどうだ」

「未だ、分かりません」

「一つ聞くが、そもそもお前はどうして夏侯覇(かこうは)の目的を探ろうとしているのだ」

「一つは、俺がなぜこの危険な遊びに参加させられたのか知るためです。もう一つは、奴からこの蜀漢(しょくかん)を守るためです」

 陳寿(ちんじゅ)は、夏侯覇(かこうは)との問いの中で、その目的が蜀漢(しょくかん)を滅ぼすことにあるという推察を披露した。しかしそれを聞いた譙周(しょうしゅう)の反応は、冷ややかなものであった。

「なるほど、仲間がいることから、魏(ぎ)による我が国の攻略のために偽装投降した……という仮説を立てたのだな。確かにその仮説は支離滅裂ではないが、飛躍しすぎだ。根拠が足りなすぎるではないか。それにお前は一つ、大事なことを見落としている」

「なんです、教えてください!」

「夏侯覇(かこうは)の目的が一つであると、決めつけている。降伏の理由、蜀漢(しょくかん)を選んだ理由、仲間がいる理由をごちゃ混ぜにしているのではないか。お前は賢い。だがそれ故、点と点を線で繋げたがる。気づいたことの全てに因果がある訳ではない。頭を冷やせ」

 陳寿(ちんじゅ)は酔い覚ましのために置いていた水を手に取り、飲み干した。

「良いか承祚(しょうそ)よ、どんな英雄も一人で天下を動かすことはできない。夏侯覇(かこうは)がなぜこの蜀漢(しょくかん)に降ったのか、よく考えたら分かるはずだ。奴の外戚関係を思いだせ」

「思いだすもなにも、知りませんよ。魏(ぎ)の情報など、この険しき巴蜀(はしょく)には伝わりません」

「ならば、蜀漢(しょくかん)の有力者の姻戚関係を思いだせ、夏侯(かこう)氏が紛れているはずだ。お前の産まれる前だがな」

「桓侯(かんこう)……! 桓侯(かんこう)の奥方は夏侯淵(かこうえん)の姪だ!」

 桓侯(かんこう)とは先帝劉備(りゅうび)の義兄弟、張飛の諡号(ひごう)である。

 先帝劉備(りゅうび)が曹操(そうそう)の傘下に加わっていた頃、女好きの張飛は街で見かけた美人を気に入り、それを妻とした。奇しくもそれは曹操(そうそう)の親類の夏侯(かこう)氏であり、曹操(そうそう)は劉備(りゅうび)と親睦を深める架け橋としてその婚姻を喜んだとされる。

 張飛は蜀漢(しょくかん)建国の重臣でありながら、すでに世を去り、その息子たちの活躍は酷く父親に見劣りするため、彼の一族の存在感は薄れてしまっていた。

「しかし師匠、縁故があるとはいえ、あの夏侯覇(かこうは)が蜀漢(しょくかん)を選ぶにはまだ、理由が足りない気がします。蜀漢(しょくかん)の天敵と恐れられたあの夏侯覇(かこうは)が……会ったこともない親戚を理由に、蜀漢(しょくかん)を選ぶでしょうか。孫呉(そんご)という選択肢もあったはずです」

「それを暴くために、お前がいるのだ。それに、陛下がなにゆえ夏侯覇(かこうは)の望みを受けいれたのか、というのもある。陛下は全てを承知の上で、お前を遣わしているのかもしれない」

「つまり、蜀漢(しょくかん)に危機などなく、本当にただのお遊びだということですか?」

「分からない。だが私にはそう思えてならんのだ。考えてもみろ、お前のいう通り夏侯覇(かこうは)が何かを企んで降伏してきたとして、我が国にそれを防ぐ手立てはない。魏(ぎ)と蜀漢(しょくかん)の国力は、比較できないほどに差が開いている。そんな状況において、陛下が姜維(きょうい)に夏侯覇(かこうは)の身柄を預けないのはなにゆえだ。費禕(ひい)を頼ってお前を見つけ出し、夏侯覇(かこうは)の相手をさせながら、私を使って費禕(ひい)よりも先に情報を得ようというのはなぜだ」

「分かりません。どうしてなのですか」

「これは、陛下と夏侯覇(かこうは)のお遊びなのかもしれん。夏侯覇(かこうは)に危険な企みなどなく、陛下はただ降将を受けいれ、その上で国内の派閥争いが激化しないように気を配りながら、降将の降伏理由を知りたがっている……と考えれば、全ての辻褄は合うだろう」

「陛下は……なんと人がお悪い……! そのお遊びのために、臣下の俺を死地に追いやったのですか!」

「凡庸(ぼんよう)な君主ならばそれもあるだろう。しかし陛下は……偉大ではなくとも、決して暗君ではない。そうでなければ、誰もが敬愛する傑物諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)亡きあと二十年余年、蜀漢(しょくかん)が存続している訳がない」

 真剣に語る師匠譙周(しょうしゅう)に、頷く陳寿(ちんじゅ)であったが、譙周(しょうしゅう)は大口を開いて笑いだし、そして酒を一気に飲み干した。まるで、今のは全て冗談だったと言いたげな振る舞いであったが、これは師匠が照れた際によくとるおふざけであると知っている陳寿(ちんじゅ)は、微笑して一口酒を呑んだ。

「よいか承祚(しょうそ)、夏侯覇(かこうは)がしかけたお遊びに意味もなく感(かま)ける程、陛下は愚かではない。夏侯覇(かこうは)が蜀漢(しょくかん)を選んだ理由が血縁による縁故なのだとして、夏侯覇(かこうは)を受けいれる条件に陛下は、こちらが持ちえない情報の提供を、要求したのではないか。降伏の理由を知るというのが、そういうことだとすれば、どうなる。推理してみよ承祚(しょうそ)」

「もしや魏(ぎ)で……なにかが起こった。重鎮(じゅうちん)の夏侯覇(かこうは)さえ亡命をしなければならない程の……政変が!」

 だが夏侯覇(かこうは)は、漢(かん)の皇帝による反乱は否定した。そして夏侯覇(かこうは)は自らの心が魏(ぎ)にあると告げている。つまり、魏(ぎ)の重鎮同士による政変が起こり、彼が心を寄せる魏(ぎ)がすでに滅びたのではないか。

 もしそうであれば、彼が語った「仲間は魏(ぎ)にはいない」という言葉も、矛盾しない。

 陳寿(ちんじゅ)は深呼吸をし、師匠の顔を見つめた。これが真実であるならば、とても冷静では居られないほどの大事だからである。曹(そう)氏、夏侯(かこう)氏はすでに滅び、蜀漢(しょくかん)と天下を争った魏(ぎ)は誰かの手に落ちたということになる。

「お前の推理を聞かせてみろ、弟子よ」

 酒に酔い赤く染まった頬とは裏腹に、師匠の顔は真剣そのものであった。

 陳寿(ちんじゅ)の推理を聞いた師匠はまたしても大口を開けて笑い、「また悪い癖だ。点と点を線で繋げすぎだ」と告げた。そして「まだ十六と若いし、まだまだ修行が足らんな」と続けた。

 どうやら師匠は、弟子の思い込みすぎる癖を諌めているようだ。だが師匠はさきほどとは打って代わり、否定するだけではなかった。

「だが確かにそうだ。政変か否かはわからないが、魏(ぎ)でなにかが起こったのだろうと私も思う。それをチラつかせたのならば、陛下がこのお遊びに食いつくのも道理だ。魏(ぎ)で起きた何かを、お前はこれからの日々で問うのだ。そして真実を掴め、承祚(しょうそ)よ!」

 師匠はそういってまた笑い、酒を呷った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。