第九話
再び小屋を訪ねた陳寿の足取りは、初めの頃よりは幾分かマシになっていた。だが依然として重く、まだ夏侯覇の覇気に満ちた目は怖いものだった。
「あれから何日が経っただろうか降将よ。俺はお前と毎日会っているが、俺の寿命は一日一日伸びているのか、あるいは縮んでいるのか、教えて欲しいものだ」
「それを一つ目としよう。よいか文官、そなたの寿命は毎日、その日の分だけ伸びている。今日を生きられるかはお前次第だ」
「二つ目だ。お前との問いが始まってから十三日目だ。そのほとんどは夢解きに費やされたが、その中でお前のことを少しづつ理解するに至った。お前は魏が恋しい、根っからの魏人だ。お前にとって、故郷とはどんな意味を持つ」
「故郷は帰る場所、生まれた場所、育った場所だ」
「三つ目だ。問いの意味を限定しよう。お前の故郷はどんな場所だ」
「生まれも育ちも裕福な私にとって、故郷は石造りの綺麗な場所だった。だが、故郷は魏そのものともいえる。というのは、幼少の頃から戦場を走り回った日々を思えば、人生のほとんどは野営地の天幕と、兵達とふれあった名も無き無数の戦地にあり、それこそが私の故郷なのだとも思えてしまうのだ」
「ならば四つ目。お前の故郷はまだ存在するか。お前は故郷を単なる場所ではなく、共に過ごした仲間が居る、帰る場所であると定義している。それが生まれ育った場所であると。兵や父兄と過ごし、駆け回った思い出が残る名も無き魏の土地は、今もあるのか」
その問いに夏侯覇は笑みを浮かべ、陳寿を指さしながら、何度も頷いた。まるで、問いの上手さを認めたようなその表情に、陳寿はこの小屋に入って初めて、嬉しいという気持ちになった。緊張感の他に、生きている実感があったのは初めてであった。
「答えよう。もはや……ないのかもしれない。だが……ここにいては分からない」
「五つ目だ。洛陽は、お前の故郷か」
魏の都洛陽は、生粋の魏人である夏侯覇にとって、故郷と呼べるはずだ。たとえその足で洛陽の地を踏んだことがなくとも、もっとも魏の皇族である彼にそんなことはありえないのだが、もしそうだったとしても、彼にとっては故郷のはずである。
「もはや、故郷ではないだろう」
「六つ目だ。洛陽は何者かに蹂躙されたか」
「されてはいないと聞いている。されど、恐らくは、もはや私の故郷とは呼べぬであろう」
つまり、魏は内側から崩れ、魏ではなくなったのだ。少なくとも夏侯覇にとってはそう見えるほどの出来事が、大量の兵馬を用いずに行われた。これは十中八九、政変であると見て取れる。
誰だ。誰が、夏侯覇を亡命に追いこむほどの政変を成し遂げたのだ。
「七つ目、お前が魏を離れた理由は、それだけか」
「それだけではない」
全てを一本の線で単純化してはいけない。夏侯覇にはまだ、内に秘めた謎があるのだ。それを全て解き明かさなければ、この百日の問いのお遊びに勝てないと、陳寿は理解した。
陳寿が小屋を去ってから数刻、日暮れ頃に夏侯覇を訪ねて小屋までやってきた男がいた。男は慣れた足取りで拱手をし、夏侯覇に勧められるがままに椅子へ座った。
「将軍、命じられていた宮中内の勢力図について、確認をしてまいりました。将軍が劉禅より聞いた話と、相違ございませんでした」
「そうか、よくやった鄭他。お前のお陰で、私もこの地で上手く立ち回ることができる。情報は武器だ。それを持たなければ、私はとうに殺されているであろうぞ」
「しかし、私が将軍の手の者であると、すでに疑われ始めています。私とて、魏から降った身。武将でもない私は……いざと言う時に自らの身さえ守れるかどうか……。あの文官はどうですか」
「筋は良い。上手く成長すれば、私が望む通りの成果を出してくれるだろう」
「将来有望ですか。しからば私にもしもの事あらば……あの件については、その文官に託していただく存じまする」
鄭他はその痩せこけた頬に数本のシワを作った。目はそもそも細いため、笑っているのか否か見分けがつかない。だから彼は、人よりも口を大きく横に開く癖があった。そのため、まだ二十代でありながら、壮年のようにシワがあった。
「かような災いが起こらぬことを願うほかない。そもそも、あの文官はそなたの代わりで育てている訳ではないのだぞ」
「なれども、私にもしもがあれば」
「くどいぞ。……かような折には、陳寿を味方につけるほかあるまいな」
二人は酒を飲みはじめた。その日の月は丸々とし、雲ひとつなかった。二人は共に魏の戦地にいた頃を懐かしんだ。
鄭他は元々、漢中にほど近い村の生まれで、魏西方の大都市長安にて文官として仕えていた。故郷の村が姜維による北伐で攻撃され、夏侯覇らによって蜀軍は撃退されるも村の住民を含めた付近の数万人の人々が、蜀の民として連れ去られ、家族と離れ離れになってしまった。夏侯覇の許で軍を統率するため、前線で文官として仕えるようになったが、もぬけの殻となった故郷の村の側にいることは彼の心を蝕み、やがて、家族への思いから、蜀へと降った。
「将軍には、当時からよくお世話になっております。将軍や身内に優しい将軍は多くとも、一兵卒にまで優しくする将軍は稀です。そればかりか、我々文官含め、軍にいた全ての者にお心をくだき、蜀を滅ぼそうという思いで軍を一つにまとめあげた将軍を、私は心の底からお慕したいしています」
「私がこうして蜀へ降ったとき、まっ先に私を訪ねてきてくれた。血縁のある者は立場というものがあるから、身の振り方を考える必要があったことは分かるが、冷たいものだ。会ったこともない血縁者よりも、苦楽を共にした友が、私にとっては頼りに思える」
「ありがたいお言葉です」
「泣くな鄭他。お前たちのような忠義の者は、何よりの宝だ」
夏侯覇は、すすり泣く鄭他の肩を叩き、笑った。
「申し訳ありません、男たるものこんな無様な姿を晒すなど」
「酒は涙脆くさせるものだ。気にするな」
夏侯覇が甕を差し出し、鄭他は無理やりにも頬にシワを作って、その甕の酒を一気に呷った。
「ところで、あの件に話をもどしたいのだが、郭循の様子はどうだ? 成都の治安維持を司る騎都尉の位にあるため、少しづつ軍を分散させる手順を整えていると聞いたが」
「約三月の後、成都は空になります」
「上々だ。問いのあいだに、陳寿は閃いてくれるだろうか」
「郭循殿も私の家族と同じく、姜維に連れ去られた男。元は魏将として戦に明け暮れながら、姜維将軍に敗れ捕縛された。その屈辱も、こうして将軍が蜀に降り、我々を結びつけてくださったお陰で、よくやく報われます。今思えば、これも魏による天下統一を進める、天命であるように思えます」
郭循は対蜀戦線で戦いつづけた武将であり、経験豊富であるが、強すぎる魏への忠誠心を警戒され、漢中に駐屯する北伐軍に参加することを許されなかった。しかし、その経験は人材不足にあえぐ蜀にとって無視できるものではなく、蜀の都、成都の治安を維持し、皇帝を守る精鋭軍の指揮を行う騎都尉に任命されていた。
「骨が折れる役目であろうが、郭循を冷静に御するのだ。し損じてはならぬぞ。郭循は頭に血が上りやすい気性の上に、魏への忠誠心が強い。以前、蜀の皇帝を殺そうとし、失敗したと聞いた。此度の事がまたとない好奇だからと、成都を蹂躙して皇帝を殺そうなどという軽挙を起こさぬように、よく言って聞かせるのだぞ」
「承知しております。命に変えてでも、郭循将軍には、企てに従わせてみせます」
「これから数日をかけて、文官にはまた、夢解きの遊びをしかけよう。そして、敵が誰なのかを気づかせてやる。真の敵が誰なのかをな」
鄭他は拱手をし一言「将軍のため、我が魏のために尽くします」と告げ、夏侯覇は静かに頷いた。




