第六話
数日が経ち、廖化はふたたび、あの宦官の男を訪ねた。彼と何度も会うのは宮廷に関わろうとしていることが露骨に見てとれるため、連日彼のもとを訪ねるのは避けたかった。一度でもすでに、費禕に目をつけられているかもしれない。他でもなくこの宦官の男が、費禕へと情報を流すことは考えられる。だがそうだとしても、なるべく費禕の警戒心を煽らないように、数日を開けるべきであると判断した。
「黄皓殿、ご無沙汰しておりますぞ」
「これはこれは廖化様、またお越しくださるとは、嬉しき限りです」
「この頃はよく姜維将軍の供をして、宮殿へ参るのです。それならば、そなたに挨拶をしない訳にも参りますまい」
「私はただ後宮に仕える宦官ですぞ? 畏き者ではございません」
「謙遜なさるな、私は嘘が苦手ゆえ正直に申さば、そなたこそこの宮殿で最も賢き人と思っている」
ほんの一瞬だけ、黄皓の目が泳いだ。しかしすぐに優しく微笑み直した。その、男も女もたぶらかす艶やかな顔は、鋼鉄のごとく堅固な廖化の心さえもほぐし、廖化はたじろいだ。
「廖化様は私をからかっておいでなのですね。畏きと賢き、違う言葉で私を困らせたのでしょう?」
「そなたならば笑ってくれると思ったのだ。軍内には冗談が通じない者が多いゆえ、たまには思いついたことを口に出してみたくなった」
「悪いお人だ。怖い顔をして、そんな少年のような冗談など」
二人は笑った。黄皓はおおっぴろげに笑うのを恥じらうように袖で顔を隠しながら、廖化の出方を伺っていた。廖化もまた、黄皓の術中にはまって心を開いたように演じながら、こちらを伺う黄皓の鋭い目に気づいていた。そして二人が息を整え向き合うとき、黄皓はこの廖化の目的を察していた。
黄皓は、廖化がふたたび探りを入れるためやって来たのだと察すると同時に、数日空いた違和感から、それが費禕を警戒してのことだということも見抜いた。危険を犯してまで再訪したならば、その意図はきっと、陳寿についてだろう。
黄皓は費禕の小鳥陳祗から、撹乱せよとの要求を受けていた。だが、どちらがこの政争の勝者となるか見定めるまで、どちらかに肩入れするつもりなどさらさらない。
「廖化様は堅実な御方だとお見受けしています。後宮の美女に手を出すため、私のもとに足繁く通う訳ではないでしょう。ご用件は……さしずめ、夏侯覇に関連すること。さらに踏みこめば、陳寿のことではないですか」
「あなたも大概、正直な人柄のようだ」
廖化は黄皓含め、宮廷に関わる人間を信用しないようにしていた。利己心の塊である彼らを信じればいつか食い物にされてしまう。それが廖化の持論だった。
「ご賢察の通り、陳寿について知りたくまいった。まだまだ夏侯覇のことが分からないゆえ、あなたにお聞きしたいのです。腹を割って話をしましょう」
廖化は穏やかな演技を辞めて、真剣な眼差しを向けた。黄皓はそれに応えるように、真剣な目をしてみせた。
「よいか黄皓殿。政界の派閥争いなど、私には興味がない。私は姜維将軍や録尚書事費禕殿の政争自体に興味はないのです。黄皓殿もまた、この蜀漢を愛する気持ちはおありのはずだ」
「無論、私も蜀漢の人間であり、そればかりか、誰よりも陛下のお近くで仕える存在です。国を愛する気持ちは誰よりも強い」
「あなたはこの宮廷で、多くの有力者と会い、あらゆる情報を聞いているでしょう。蜀漢を守るため、費禕殿から教わったことはすべて、私にもご教示いただきたい」
「実を申せば……費禕殿と私には直接的な接点がありません。二人の間には、侍中の陳祗殿がおります。陳祗殿はあくまで陛下の召使いであり、表立って政に関わる御方ではありませんから……費禕殿が己の立場を維持するために夏侯覇を用いようという姿勢を好んではいないようなのです」
「費禕殿は荊州人士の長として、国政を預かる身。味方も多いはずであろうに、なにゆえその陳祗なる男を使うのですか」
「それは分かりません。費禕殿は人を好み、友人が多いことで有名な御方ですからなぁ。とにかく、私はあなた様の味方です。私が知りうることをすべてお伝えしましょう」
それから黄皓は、陳寿が選ばれたのはこの陳祗の推挙があったこと、そしてその理由が、陳寿の師匠譙周にあることを明かした。
譙周は益州人士の中でも特に出世を遂げた人物で、費禕と並ぶほどの知名度を誇る男であり、現在は皇太子劉璿の教育係を務めていた。しかし、彼には声望がなかった。その類稀な才能と見識、そして蜀漢への忠誠心とは裏腹に、彼は裸足で野山を駆けまわり、寝食を忘れて天を見上げ、そして植物や山河の表情から天命を読み解こうとする稀代の変人でもあった。その行動が、彼の名声を奪っていることは誰の目にも明らかであったが、費禕は周囲からの目など気にせず譙周の才能を認め、彼を重用していた。元より、変人であった彼が国に仕えることができ、皇太子の教育係にまで上り詰めることができたのは、その昔、費禕が当時国政を担っていた諸葛亮へ彼を推挙したことがキッカケである。
譙周は益州の学問において、右に出る者がいないほどの才人であり、費禕はその一点のみにおいて彼を評価した。彼が益州の者を推挙するなど珍しく、周囲は譙周が登用される前から、彼が逸材であると噂した。その結果、費禕の目論見通り譙周その非凡な才を遺憾なく発揮し、益州人士として稀に見る出世を遂げたのであった。
今や皇帝の一番の相談相手という噂もあり、今回陳祗 が彼の弟子を推挙した理由はそれだと、黄皓は推理していた。
「陳寿は譙周のお弟子なのか。それならば……陳寿が知り得た情報は譙周を通して、直接陛下のもとへと伝えられる。陛下がこの人選を承認した理由にも合点がいった」
「陛下は常日頃から、姜維将軍と費禕殿の政争を中立の立場で見守り、国内が割れてしまわぬように気を配っておられます。この弱き蜀漢が、魏と呉の二国から攻められないように、国内は一つにまとまっていなくてはならないのです。少なくともそれが、同じく陛下の相談相手としてお側でお仕えする私が知っている、陛下のお心です」
「確認ですが、そなたは先ほど、陳祗殿は、費禕殿と姜維将軍の政争を好んでおられぬと申しておられた。つまりそれは、我らは夏侯覇をどちらかの派閥の為ではなく、我ら蜀漢の国益のために使おうと考える同志ということで、間違いはございませんな」
「ございません。我らの思いはひとつにございますぞ。よいか廖化殿、夏侯覇は魏が遣わした刃。その刃はすでにこの成都の内側まで深く突き刺さっています。対処を誤れば、その刃はやがて、蜀漢の心の臓をえぐりとります。陛下のお命ばかりか、この蜀漢の命脈さえ、途絶えさせてしまうかもしれません」
黄皓は瞳からこぼれた涙を、裾でぬぐった。白かった顔は赤く染まり、心の底から国を憂いているように廖化には思えた。だから廖化はそれ以上なにも問うことはできず、まもなくその場を去った。
廖化が帰った後、黄皓は自室に戻った。そして彼の顔は、まるで仮面を外したかのように愛想を失い、生気を失った。
「陳祗の要望通り情報の撹乱は行った。そして廖化にも、私が味方だと信じこませることができた」
黄皓は誰かに肩入れをし、自らの命運を誰かに委ねるつもりなど毛頭ない。そして彼には、蜀漢を愛する気持ちさえ、微塵もなかった。自らの気持ちという、真実を確かめられないひとつの嘘で、廖化を騙しきったのだ。だが黄皓も本音を口にした。それは、費禕と姜維のどちらが政争に勝利するかなど、興味がないということだ。
「宮廷の海を、私は泳ぎきってみせる。そのためには……費禕が邪魔だ」
彼は自らのために、廖化と陳祗というふたつの駒を、巧みに動かそうとしていた。




