第五話
尚書省にて執務を行う費禕のもとに、侍中の陳祗が、慣れた足取りでやってきた。まるで故郷の友人のもとを訪ねるかのように、竹簡や文ではなく、酒を携えての来訪だった。
「相変わらず変装が上手いな奉宗。誰もお前が、この宮廷一の情報通とは思うまい」
「よもや、あなたの小鳥だとは、誰ひとりとて」
字は、目下の人間や、心を許した存在のみが呼ぶことのできる名前である。陳祗は皇帝の世話役である侍中ならば、その身分は国仕えの者の中でも、特に高い。そんな陳祗を字で呼べる者は限りなく少なく、皇帝劉禅、録尚書事費禕、そして尚書令呂乂くらいのものであり、実質的に軍を支配している衛将軍姜維さえも、この陳祗には拝礼が必須という格下の立場である。
「奉宗よ、それでなにを掴んだのだ」
「ある人が後宮の長を訪ねました。軍のはぐれ者、廖化です」
「姜維めの回し者か」
「左様。昨日奴はあなた様がなにゆえ夏侯覇の管理を行っているのかを尋ね、そして今日は、なぜ陳寿が選ばれたのかを探っているようでした」
「我らにその行動が筒抜けであると、廖化はもとい姜維さえ気づいていないだろう。いや、もしや……」
費禕の脳裏に浮かぶのは、姜維の偽計である。後宮の長として振る舞うあの宦官はよく目立つため、姜維に利用される恐れもある。
しかし、なんのためにだろうか。費禕はいつになく自分が臆病にも疑り深くなっていることに気づき、眉間によったシワを指で解して、笑った。
「あなた様がそれほどまでに考えこむとは、いやはや姜維将軍もさすがの手練れといったところか」
「奴は軍を掌握し、蜀漢を滅ぼしかねない北伐を強行しようとし続けている。私は奴を常々警戒しているのだ。奴は所詮……蜀漢の人間ではない。奴が現れてから、強国の魏から降伏する者がチラホラと出ている。そして今度はあの夏侯覇だ。胸騒ぎがして仕方ない」
「出身がどこであれ、姜維将軍は皇帝陛下の信任を得ており、あの諸葛丞相も今際の際まで彼を重用しました。あなた様は荊州人士の頂点であり、蜀漢に対する愛郷心は誰よりも強いのでしょうが、よそ者を否定するならば、かつて荊州人士の頂点であった諸葛丞相、そして先帝や今上陛下さえも否定することになりかねませんぞ」
陳祗の言葉はあまりに冷たかった。鋭い刃のように、費禕の忠義の心を突き刺した。
先帝劉備や丞相諸葛亮は、荊州に地盤をもつ人々であった。しかし、当時漢帝国で専横を極めていた曹操を滅ぼすため、自らの地盤をより磐石にしようと、劉璋が治める益州、またの名を巴蜀を侵略した。
荊州を戦いの中で失い、今や蜀漢帝国はこの益州とその北にある小さな漢中のみである。つまり、荊州人士そのものが、彼が忌み嫌うよそ者なのである。
費禕にとっては、自らが世に出たときからすでにこの益州は蜀漢帝国であり、支配者は当然、劉璋ではなく先帝劉備であった。そして自らの才能を認めて特別に遇してくれたのは諸葛亮であり、その忠義が向く先は、蜀漢帝国の他になかった。
だが費禕は、蜀の名を関する国に仕えると近いながら、矛盾をするように益州出身の名士を嫌い、政治や軍、学問の世界で彼らの椅子を奪い、荊州の者をその椅子に座らせていた。よそ者を嫌うならば、自らがそのよそ者として、政界から去るしかない。自己が抱える矛盾に気づかない費禕ではなかった。
「所詮は自らの心の中にある境界に他ならならぬということなど、分かりきっている。されど、人を支配するというのは……世の中を回すというのは、そういうことだ」
「ならば……姜維将軍を信じてくださりませ。彼の者はすでに……蜀漢の人間です。もはや魏の人間ではありません」
「よそ者と言えども、魏の降将を信じることはできない。それは夏侯覇も、姜維も同じだ」
「姜維将軍は降伏して二十余年、懸命に蜀漢に尽くし、戦い続けてきました。良いですか、今は夏侯覇という魏の大物を手中に収めているのです。これは国家の大事です。どうか、姜維将軍と手を携え、夏侯覇から有益な情報を得られるよう、努力なさってくださいませ」
「努力ならば、若き文官が行ってくれるだろう」
「お気は確かですか! 国に仕えてまだ日も浅いあの若者に、全てを託すのですか!」
「陳寿は益州の名家の生まれだ。これで満足であろう! 忠義心があるとも聞く上に、なにより、あの男の弟子だ。それを知っておる故、そなたは陳寿を私に推挙したのではないのか。とにもかくにも私は、姜維よりも、陳寿を信じたい」
費禕の中にあるのは信念ではなく、魏の降将でありながらも、自らと政治的に対立するまで権勢を強める姜維に対する敵愾心であった。
陳祗は益州人士でも荊州人士でもない立場として、姜維の難しい立場に理解を示していた。頼れる丞相はすでに亡く、自らの功績だけが足場となる姜維にとって、ただ平和を求める費禕は邪魔者でしかない。
「いつか……あなた様に災いが降りかからぬことを、祈るばかりにございます」
陳祗の言葉に費禕は耳を貸さず、執務を再開した。陳祗は無言のまま拝礼をし、その場を後にした。
同日 宮殿の離れの小屋
過去二日間での問いを経て、陳寿は一つ気づいたことがあった。それは、この夏侯覇はやみくもに問いを重ねても怒らず、そう簡単に殺そうとはしてこないということである。
「また問いを始めようではないか、若き文官よ。昨日の続きからでも構わぬぞ。武王曹操様には大義などなく、所詮は簒奪ではないか、という問いであったか」
「それはまたの機会に問うことにしよう。一つ目だ。夏侯覇よ、お前は、死は怖いか」
「死の理由による。私の価値に見合う、意味のある死ならば、決して怖くはない。なれども、抗うすべを失った末の死は、犬死に他ならない。無駄な命の損耗を嫌うのが、将というものだ」
「それでもお前は、魏で生きることよりも、蜀漢で死ぬかもしれない危険を犯すことを選んだ。蜀漢に遊びに来たのか。物見遊山にはうってつけの僻地であることは、認めよう」
「二つ目の問いとして答えよう。私は遊びにきたが、それだけではない」
「ならば三つ目だ。その遊びとは、この問答のことか」
「否」
「俺には……強者の遊びに思えてならないがな」
「左様に見えても仕方はあるまい。しかし君子たるもの、努力を欠かすべからず。だがその努力は決して人に見せず、ただ楽しんでいるように、振る舞うべきものだ」
「四つ目だ。お前の一番好きな遊びはなんだ」
「狩りだ。狩りは万事に通じる芸で、狩りで養われる感覚は命の価値を私に教えてくれる」
「それはどんな感覚だ」
「生の輝きだ。いっそ死んでしまいたいと思うとき、なぜか立ちあがる勇気を与えてくれる。それはすでに自らの手で奪った生に対する勝利の感覚と、まだ敗者にはなりたくないという恐れが、勇気となって現れるためだ」
「五つ目だ。獣の命と人の命は、お前にとって同じか」
「同じだ。全てが尊く、全てが、私の前に斃れる屍でしかないのだ」
「六つ目だ。お前は殺しが好きなのだろうが、三国の内、どの国の人間を殺したいか」
「蜀漢、魏、孫呉。この三国ならば、蜀漢やもしれぬ」
「まるで他の国があるかのようないい草だなぁ夏侯覇よ」
「この天下には数え切れないほどの国がある。中華には三国しかなくとも、天下は広いものだ。西方にかつて存在したクシャンは、我が親類の曹真大将軍が滅ぼした……曹真大将軍の活躍は未曾有のもので、だからこそ……その栄誉は永遠に人々の記憶に残るのだ」
「今日は早々に話を終えることになるが、七つ目だ」
「この二日間とは異なり、退屈な時間がなく有意義である」
「お前がかつて答えた憎い人物とは、この中華にはいないのか」
「いる」
憎い人物は、きっと孫呉にいるのだろう。これから数日をかけ、孫呉について掘り下げていけば、自ずと憎い人物を特定し、彼の降伏の目的を見抜くこともできる。
蜀漢を代表する丞相諸葛亮よりも憎い人物など、この蜀漢には居ないのだ。そして魏にも居ないならば、孫呉しかない。
陳寿は畳から立ち上がり小屋の扉へと手をかけた。
「陳寿よ」
「なんだ、夏侯覇」
「よい勘をしているな。楽しくなってきた」
「呑気なやつだ」
夏侯覇の目からは、少し高揚したような笑みがこぼれていた。
陳寿には、夏侯覇がこぼした笑みの意味が、まだ分からなかった。




