第四話
成都城の庭を歩く将軍姜維は、物思いにふけっていた。優しく頬を撫でる風や、池を泳ぐ魚たちの影、冬の寒さに負けじと咲き誇るツバキの花びらも、普段ならばいざ知らず、ここ数日は何も感じさせない。彼を悩ませるのは、目的不明の魏将夏侯覇である。
魏の内情を探るよう、彼が所望した若き文官に命令を出すつもりでいたが、もうすでにその問いのやり取りは始まっているらしい。夏侯覇は魏の将軍であり、その身柄は蜀漢軍を統率する姜維の管轄に置かれているはずだったが、なぜだか費禕が、夏侯覇の望みを叶えた。若き文官の名前さえ、姜維は知らない。
「陛下はなぜ……費禕なんぞに、夏侯覇の対応を任せたのか。陛下は私の味方だと思っていたのだが」
「姜維将軍、宮中に通じる宦官と接触し、費禕殿の動向を探って参りました」
「よくやった元倹、お前は私の右腕だ」
廖化、字は元倹。蜀漢の将軍で、長らく従軍して数多くの功績を立てながらも、性格上人望が薄いため、軍内のいずれの派閥にも所属していないという稀有な存在であった。
「将軍の読み通り、やはり費禕殿は自らの手の者を夏侯覇に差し出していたようです」
「費禕殿は、酒の席では一国の宰相らしからぬ軽率さで、どんな人間にも声をかける楽観的な性格だ。名士でもあり、知り合いは多かろう。されど……怪しい行商人や学者とは異なり、若き文官と個別な交流を持つとは、どうも考えにくいものだ」
「その者の名は陳寿、字は承祚。父親は、あの街亭での敗戦により罰を受けた陳式であり、家柄はこの益州きっての名門、陳氏です」
「なるほど……その者を使って、夏侯覇から情報を引き出そうというのだな。そして得た情報は我々に伝えず、朝廷での権勢を高めようというのか。降将さえも自らの権力増強の種にしようとは、したたかな男だ」
「しかし妙なのです、将軍」
「なにが妙なのだ」
「費禕殿は、夏侯覇を殺したがっているようです」
「権勢を高めるより、魏への嫌悪感が強いのか。なるほど……直接手を下せば魏に攻撃の大義名分を与えることになる故、国を憂う一介の文官陳寿を使って、夏侯覇を殺そうというのか。だが……妙に回りくどい」
姜維はその大きな目で遠くを眺めた。三羽の鳥が空を飛ぶ姿が、目に止まった。
「奴は、諸葛丞相に取り立てられた生粋の蜀漢人だ。魏を滅ぼすためならば、どんな手でも使うであろう。私が奴の立場なら、そう考える。なんにせよ、ただで降将を殺すなど勿体ないことはしないだろう……。あの鳥のごとく奴らが遠く飛びさってしまう前に、情報を掴まなくてはならぬ」
「費禕殿は夏侯覇が、国内の安定を乱すと警戒しているようです。夏侯覇は、魏にとって目の上のたんこぶであるこの蜀漢を滅ぼすべく、自らを使って一石を投じたのでしょう。その波紋は我ら蜀漢の内部で対立を生み出し、やがて崩すほど大きいものです。現に我らはこうして、互いを睨んでおります。奴の思うつぼです」
「費禕殿とこの姜維が、互いを睨んでいたのは以前からだ。蜀漢はどこでも二分されている。軍、学問の流派、政界、そのいずれもが、この益州出身者か荊州出身者かで、派閥を巡った争いを続けているではないか。夏侯覇がいなくても、我らは諸葛丞相という要を失い、すでに割れかかっておるのだ」
姜維は益州派閥、そして荊州派閥のいずれにも属していない。そのため、その争いの外にいた。しかし姜維にとっては、それとは別の派閥があると感じていた。
「費禕殿はまた、北伐に反対するでしょう」
「私も、かように思う。よいか元倹、我ら蜀漢は魏を滅ぼすために存在する。北伐に反対するならば、益州閥も荊州閥もない」
「将軍、費禕殿は反対派筆頭。魏を滅ぼそうという思いは、やはり我らより弱いのではありませんか。費禕殿は夏侯覇を本気で殺そうとは思っていないのでは?」
「殺すつもりがないならば……陳寿には、陳氏である以上のなにか特別な理由で白羽の矢が立ったのかもしれん。それも探れば……費禕殿がその男を使って、なにを企んでいるのか分かるはずだ」
「さらに探ってまいります」
「頼んだぞ。肩身が狭いはぐれ者同士、しがらみに悩まされぬまま、共に丞相の夢を叶えようぞ」
廖化は太く黒い右の握り拳を、大きな左手で覆って頭を下げた。廖化の拱手に応えるように、姜維もまた拱手をした。
同日 宮殿の離れの小屋
六つ目の問いを終えてからしばらく、陳寿は目を閉じて深呼吸を続けていた。冷静さを取り戻すべく、楽しかったことや好きなことを、考えようとしていた。無理やりにでも、気持ちを切り替えなければならない。蜀漢を舐め腐った魏の降将相手に、怒りのまま問いを続けても意味がない。
いっそ、このまま殴りかかってしまおうかとも思った。だが、体格差や戦いの経験から、勝てる見込みなどない。それでも殴りかかれば、この意味不明な遊びに付き合わされずに済むし、愛する故国蜀漢に殉じることができる。忠義の道を進めば、父に代わって、一族の汚名を雪ぐことができるだろう。そして家名を穢された先祖の霊を慰め、蒼天や蜀漢の大地にも、赦しを乞うことができる。
いや、冷静になろう──陳寿はまだ諦められなかった。この意味不明な遊びの中で、魏の降将の心を打ち破り、その目論見さえも覆すことができるかもしれない。殺すのも、殺されるのも、今この場所で決めることではないはずだ。
陳寿が目を瞑り無言を貫く最中、夏侯覇はまたしても、窓の外を遠く眺めていた。陳寿が静かに目を開けた時、夏侯覇もまた頬杖をやめて、彼を見下ろした。
「ようやく話す気になったのか、文官よ。日が暮れてしまうところであった」
「夏侯覇よ、お前は蜀漢についてどれほど知っているのか。さすがに、この陳寿よりも、知っているはずがないがな」
「そなたよりも知っているぞ文官よ。魏の夏侯氏は、魏の宗室、つまり皇帝の一族である曹氏と親戚関係にある名家だ。そして魏が戴く皇帝は、そなたらの皇帝と異なり、自称ではない。魏の皇帝の威光にひれ伏して情報を流す者は、この蜀にもいる。それが誰かは、とても教えられぬ」
魏から蜀漢へと入った、武将ではない人間。それが情報を流しているのだろう。それに気づいていないと思っているのだろうか、だからこそ夏侯覇は、蜀漢の人間として国を愛するこの陳寿に、同胞の裏切りが起きていると錯覚させようとする言い方をしているに違いない。陳寿の頭の中に出来上がった論理は、忠義の心をおちょくられたことへの怒りへと繋がった。
「蜀漢の人間は皆、魏を憎んでいる。魏に情報を流すものなど居るものか!」
「決めつけては視野が狭まるぞ。蜀漢に仕える者ならば、国を想う気持ちもあるだろう。されど……ただその地で生きているだけの者の目から見れば、誰が治めるかなど、微塵も興味が湧かなぬものだ」
「ありえない! 俺は貧乏ながらも国を想いつづけてきた。だから皇帝陛下や諸葛丞相を敬愛し、そして父を憎んだ。民草でも同じことだ。お前たち魏の人間がどれだけ蜀漢の人間を殺してきたのか……それを知らない者はいない!」
「それは蜀の人間とて同じこと。お前たちはこの数十年、魏へ攻めいっては無辜の民草を殺してまわり、土地を奪っている。漢中周辺は血で溢れている。民草が望むものはただひとつ、穏やかな暮らしだ。それを約束しえない蜀の将軍らは、民草にとって魏の人々よりも憎かろう」
「それもこれもすべて、魏が漢帝国を滅ぼしたからだ! 民は漢を忘れていない。だからこそ、漢室の末裔たる先帝がこの蜀漢を建国された際、民は喜んで陛下を迎えたんじゃないか!」
陳寿が語る先帝とは、今は亡き劉備を指している。そして劉備は、かつてこの中華を支配していた漢の皇族の血を引く男である。その漢が曹操に歪められ、その息子曹丕が皇帝の位を奪って魏帝国を建てたことで、劉備は漢の復興を目的とし、自らの地盤荊州から益州の地へと進み、それを足場として漢中を得た。
漢中は、漢帝国を建てた高祖劉邦が身を立てた土地であり、劉備が力づくでこの漢中を奪って王となったとき、人々は高祖劉邦を思いだし、喜んだ。やがて劉備が皇帝となり蜀漢を建国した際、誰もそれに反対することはなかった。
陳寿の目から見ればそれは、誰もが漢を懐かしみ、それを滅ぼした魏を憎んでいるからこその反応だと思えてならない。
しかし夏侯覇にとっては、それすら主観が入り交じり、正しく世の中を見ていないと断罪できる、言わば幼稚な物の見方に思えてならなかった。
「よいか文官。民は自らの主が誰だろうと気にしない。皇帝であろうと、王であろうと、その者がどんな思いで政を行おうとも、関係ないのだ。民が喜んだのは、かつて益州を支配した劉璋より、劉備の方が、よき政をしてくれると思ったからだ。新しい主が恩赦を施し、税や兵役を軽くしてくれると思ったからだ。漢など民の頭の中にはない」
「俺はそうは思わない」
「そなたがどう思おうとも変わらない。この小屋の中も天下も、同じこと。そなたの意思など関係ない。武王曹操様、そして文帝曹丕様が魏を建国なされたとき、民は何をしたと思うか。なにもだ。彼らは漢のために反乱を起こそうなどとは思わなかった。反乱を起こすのは軍閥だ。皆、口では漢のためなどと言うが、結局は自らの地位を守るために、民に重税や兵役を課して、戦場で戦わせるのだ」
「それならば、奸賊の曹操さえ、自らのために漢を滅ぼした悪人ではないか! 大義などなく、力づくで帝位を簒奪したことを認めるのか!」
「認めるのかどうか、か……。その問いは、八つ目だ。明日また問い直せ」
「これが問いだと……貴様!」
なおも吠える陳寿に対し、夏侯覇は不気味な微笑みを浮かべながら眺めていた。陳寿に、直接手を出して来る胆力などありはしないと、気づいていたのだった。




