↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
降将  作者: 乘越唯響(のりごえ いおん)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/46

第四話

 成都城の庭を歩く将軍姜維(きょうい)は、物思いにふけっていた。優しく頬を撫でる風や、池を泳ぐ魚たちの影、冬の寒さに負けじと咲き誇るツバキの花びらも、普段ならばいざ知らず、ここ数日は何も感じさせない。彼を悩ませるのは、目的不明の魏将(ぎしょう)夏侯覇(かこうは)である。

 魏(ぎ)の内情を探るよう、彼が所望した若き文官に命令を出すつもりでいたが、もうすでにその問いのやり取りは始まっているらしい。夏侯覇(かこうは)は魏(ぎ)の将軍であり、その身柄は蜀漢(しょくかん)軍を統率する姜維(きょうい)の管轄に置かれているはずだったが、なぜだか費禕(ひい)が、夏侯覇(かこうは)の望みを叶えた。若き文官の名前さえ、姜維(きょうい)は知らない。

「陛下はなぜ……費禕(ひい)なんぞに、夏侯覇(かこうは)の対応を任せたのか。陛下は私の味方だと思っていたのだが」

「姜維(きょうい)将軍、宮中に通じる宦官(かんがん)と接触し、費禕(ひい)殿の動向を探って参りました」

「よくやった元倹(げんけん)、お前は私の右腕だ」

 廖化(りょうか)、字(あざな)は元倹(げんけん)。蜀漢(しょくかん)の将軍で、長らく従軍して数多くの功績を立てながらも、性格上人望が薄いため、軍内のいずれの派閥にも所属していないという稀有な存在であった。

「将軍の読み通り、やはり費禕(ひい)殿は自らの手の者を夏侯覇(かこうは)に差し出していたようです」

「費禕(ひい)殿は、酒の席では一国の宰相(さいしょう)らしからぬ軽率さで、どんな人間にも声をかける楽観的な性格だ。名士でもあり、知り合いは多かろう。されど……怪しい行商人や学者とは異なり、若き文官と個別な交流を持つとは、どうも考えにくいものだ」

「その者の名は陳寿(ちんじゅ)、字(あざな)は承祚(しょうそ)。父親は、あの街亭(がいてい)での敗戦により罰を受けた陳式(ちんしき)であり、家柄はこの益州(えきしゅう)きっての名門、陳(ちん)氏です」

「なるほど……その者を使って、夏侯覇(かこうは)から情報を引き出そうというのだな。そして得た情報は我々に伝えず、朝廷(ちょうてい)での権勢を高めようというのか。降将さえも自らの権力増強の種にしようとは、したたかな男だ」

「しかし妙なのです、将軍」

「なにが妙なのだ」

「費禕(ひい)殿は、夏侯覇(かこうは)を殺したがっているようです」

「権勢を高めるより、魏(ぎ)への嫌悪感が強いのか。なるほど……直接手を下せば魏(ぎ)に攻撃の大義名分を与えることになる故、国を憂う一介の文官陳寿(ちんじゅ)を使って、夏侯覇(かこうは)を殺そうというのか。だが……妙に回りくどい」

 姜維(きょうい)はその大きな目で遠くを眺めた。三羽の鳥が空を飛ぶ姿が、目に止まった。

「奴は、諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)に取り立てられた生粋の蜀漢(しょくかん)人だ。魏(ぎ)を滅ぼすためならば、どんな手でも使うであろう。私が奴の立場なら、そう考える。なんにせよ、ただで降将を殺すなど勿体ないことはしないだろう……。あの鳥のごとく奴らが遠く飛びさってしまう前に、情報を掴まなくてはならぬ」

「費禕(ひい)殿は夏侯覇(かこうは)が、国内の安定を乱すと警戒しているようです。夏侯覇(かこうは)は、魏(ぎ)にとって目の上のたんこぶであるこの蜀漢(しょくかん)を滅ぼすべく、自らを使って一石を投じたのでしょう。その波紋は我ら蜀漢(しょくかん)の内部で対立を生み出し、やがて崩すほど大きいものです。現に我らはこうして、互いを睨んでおります。奴の思うつぼです」

「費禕(ひい)殿とこの姜維(きょうい)が、互いを睨んでいたのは以前からだ。蜀漢(しょくかん)はどこでも二分されている。軍、学問の流派、政界、そのいずれもが、この益州(えきしゅう)出身者か荊州(けいしゅう)出身者かで、派閥を巡った争いを続けているではないか。夏侯覇(かこうは)がいなくても、我らは諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)という要を失い、すでに割れかかっておるのだ」

 姜維(きょうい)は益州(えきしゅう)派閥、そして荊州(けいしゅう)派閥のいずれにも属していない。そのため、その争いの外にいた。しかし姜維(きょうい)にとっては、それとは別の派閥があると感じていた。

「費禕(ひい)殿はまた、北伐に反対するでしょう」

「私も、かように思う。よいか元倹(げんけん)、我ら蜀漢(しょくかん)は魏(ぎ)を滅ぼすために存在する。北伐(ほくばつ)に反対するならば、益州(えきしゅう)閥も荊州(けいしゅう)閥もない」

「将軍、費禕(ひい)殿は反対派筆頭。魏(ぎ)を滅ぼそうという思いは、やはり我らより弱いのではありませんか。費禕(ひい)殿は夏侯覇(かこうは)を本気で殺そうとは思っていないのでは?」

「殺すつもりがないならば……陳寿(ちんじゅ)には、陳(ちん)氏である以上のなにか特別な理由で白羽の矢が立ったのかもしれん。それも探れば……費禕(ひい)殿がその男を使って、なにを企んでいるのか分かるはずだ」

「さらに探ってまいります」

「頼んだぞ。肩身が狭いはぐれ者同士、しがらみに悩まされぬまま、共に丞相(じょうしょう)の夢を叶えようぞ」

 廖化(りょうか)は太く黒い右の握り拳を、大きな左手で覆って頭を下げた。廖化(りょうか)の拱手(きょうしゅ)に応えるように、姜維(きょうい)もまた拱手(きょうしゅ)をした。



 同日 宮殿の離れの小屋


 六つ目の問いを終えてからしばらく、陳寿(ちんじゅ)は目を閉じて深呼吸を続けていた。冷静さを取り戻すべく、楽しかったことや好きなことを、考えようとしていた。無理やりにでも、気持ちを切り替えなければならない。蜀漢(しょくかん)を舐め腐った魏(ぎ)の降将相手に、怒りのまま問いを続けても意味がない。

 いっそ、このまま殴りかかってしまおうかとも思った。だが、体格差や戦いの経験から、勝てる見込みなどない。それでも殴りかかれば、この意味不明な遊びに付き合わされずに済むし、愛する故国蜀漢(しょくかん)に殉じることができる。忠義の道を進めば、父に代わって、一族の汚名を雪(そそ)ぐことができるだろう。そして家名を穢された先祖の霊を慰め、蒼天(そうてん)や蜀漢(しょくかん)の大地にも、赦しを乞うことができる。

 いや、冷静になろう──陳寿(ちんじゅ)はまだ諦められなかった。この意味不明な遊びの中で、魏(ぎ)の降将の心を打ち破り、その目論見さえも覆すことができるかもしれない。殺すのも、殺されるのも、今この場所で決めることではないはずだ。

 陳寿(ちんじゅ)が目を瞑り無言を貫く最中、夏侯覇(かこうは)はまたしても、窓の外を遠く眺めていた。陳寿(ちんじゅ)が静かに目を開けた時、夏侯覇(かこうは)もまた頬杖をやめて、彼を見下ろした。

「ようやく話す気になったのか、文官よ。日が暮れてしまうところであった」

「夏侯覇(かこうは)よ、お前は蜀漢(しょくかん)についてどれほど知っているのか。さすがに、この陳寿(ちんじゅ)よりも、知っているはずがないがな」

「そなたよりも知っているぞ文官よ。魏(ぎ)の夏侯(かこう)氏は、魏(ぎ)の宗室(そうしつ)、つまり皇帝の一族である曹(そう)氏と親戚関係にある名家だ。そして魏(ぎ)が戴く皇帝は、そなたらの皇帝と異なり、自称ではない。魏(ぎ)の皇帝の威光にひれ伏して情報を流す者は、この蜀(しょく)にもいる。それが誰かは、とても教えられぬ」

 魏(ぎ)から蜀漢(しょくかん)へと入った、武将ではない人間。それが情報を流しているのだろう。それに気づいていないと思っているのだろうか、だからこそ夏侯覇(かこうは)は、蜀漢(しょくかん)の人間として国を愛するこの陳寿(ちんじゅ)に、同胞の裏切りが起きていると錯覚させようとする言い方をしているに違いない。陳寿(ちんじゅ)の頭の中に出来上がった論理は、忠義の心をおちょくられたことへの怒りへと繋がった。

「蜀漢(しょくかん)の人間は皆、魏(ぎ)を憎んでいる。魏(ぎ)に情報を流すものなど居るものか!」

「決めつけては視野が狭まるぞ。蜀漢(しょく)に仕える者ならば、国を想う気持ちもあるだろう。されど……ただその地で生きているだけの者の目から見れば、誰が治めるかなど、微塵も興味が湧かなぬものだ」

「ありえない! 俺は貧乏ながらも国を想いつづけてきた。だから皇帝陛下や諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)を敬愛し、そして父を憎んだ。民草でも同じことだ。お前たち魏(ぎ)の人間がどれだけ蜀漢(しょくかん)の人間を殺してきたのか……それを知らない者はいない!」

「それは蜀(しょく)の人間とて同じこと。お前たちはこの数十年、魏(ぎ)へ攻めいっては無辜(むこ)の民草を殺してまわり、土地を奪っている。漢中(かんちゅう)周辺は血で溢れている。民草が望むものはただひとつ、穏やかな暮らしだ。それを約束しえない蜀(しょく)の将軍らは、民草にとって魏(ぎ)の人々よりも憎かろう」

「それもこれもすべて、魏(ぎ)が漢(かん)帝国を滅ぼしたからだ! 民は漢(かん)を忘れていない。だからこそ、漢(かん)室の末裔たる先帝(せんてい)がこの蜀漢(しょくかん)を建国された際、民は喜んで陛下を迎えたんじゃないか!」

 陳寿(ちんじゅ)が語る先帝(せんてい)とは、今は亡き劉備(りゅうび)を指している。そして劉備(りゅうび)は、かつてこの中華を支配していた漢(かん)の皇族の血を引く男である。その漢(かん)が曹操(そうそう)に歪められ、その息子曹丕(そうひ)が皇帝の位を奪って魏(ぎ)帝国を建てたことで、劉備(りゅうび)は漢(かん)の復興を目的とし、自らの地盤荊州(けいしゅう)から益州(えきしゅう)の地へと進み、それを足場として漢中(かんちゅう)を得た。

 漢中(かんちゅう)は、漢(かん)帝国を建てた高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)が身を立てた土地であり、劉備(りゅうび)が力づくでこの漢中(かんちゅう)を奪って王となったとき、人々は高祖劉邦(りゅうほう)を思いだし、喜んだ。やがて劉備(りゅうび)が皇帝となり蜀漢(しょくかん)を建国した際、誰もそれに反対することはなかった。

 陳寿(ちんじゅ)の目から見ればそれは、誰もが漢(かん)を懐かしみ、それを滅ぼした魏(ぎ)を憎んでいるからこその反応だと思えてならない。

 しかし夏侯覇(かこうは)にとっては、それすら主観が入り交じり、正しく世の中を見ていないと断罪できる、言わば幼稚な物の見方に思えてならなかった。

「よいか文官。民は自らの主が誰だろうと気にしない。皇帝であろうと、王であろうと、その者がどんな思いで政を行おうとも、関係ないのだ。民が喜んだのは、かつて益州(えきしゅう)を支配した劉璋(りゅうしょう)より、劉備(りゅうび)の方が、よき政をしてくれると思ったからだ。新しい主が恩赦(おんしゃ)を施し、税や兵役を軽くしてくれると思ったからだ。漢(かん)など民の頭の中にはない」

「俺はそうは思わない」

「そなたがどう思おうとも変わらない。この小屋の中も天下も、同じこと。そなたの意思など関係ない。武王(ぶおう)曹操(そうそう)様、そして文帝(ぶんてい)曹丕(そうひ)様が魏(ぎ)を建国なされたとき、民は何をしたと思うか。なにもだ。彼らは漢(かん)のために反乱を起こそうなどとは思わなかった。反乱を起こすのは軍閥(ぐんばつ)だ。皆、口では漢(かん)のためなどと言うが、結局は自らの地位を守るために、民に重税や兵役を課して、戦場で戦わせるのだ」

「それならば、奸賊(かんぞく)の曹操さえ、自らのために漢(かん)を滅ぼした悪人ではないか! 大義などなく、力づくで帝位を簒奪(さんだつ)したことを認めるのか!」

「認めるのかどうか、か……。その問いは、八つ目だ。明日また問い直せ」

「これが問いだと……貴様!」

 なおも吠える陳寿(ちんじゅ)に対し、夏侯覇(かこうは)は不気味な微笑(ほほえ)みを浮かべながら眺めていた。陳寿(ちんじゅ)に、直接手を出して来る胆力などありはしないと、気づいていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。