第三話
夏侯覇は咳払いをした。陳寿の顔が曇り、また黙りこんだからだ。
「陳寿、つまりそなたの父親は張郃将軍に敗れた咎めで、罰を受けたのだな。どのような罰を受けたのだ」
「棒叩き二百回と、謹慎だ。それによって父は軍に居場所をうしない、それ以来我が家は貧乏だ」
「運が悪かったのだな。無能な上官のもとに配属され、相手がよりにもよって、張郃将軍であった。張郃将軍は優れた御仁であった……人柄もよく、なにより賢かった」
「慕っているんだな、張郃を」
「あぁ、天に召されるのが、早すぎた。実に惜しい。あの方がもし長生きしていたならば……時代の流れは変わっていただろう」
夏侯覇の顔が曇った。それを陳寿は見逃さなかった。
「張郃を討伐したのは、諸葛丞相だ。憎かろう……この蜀漢も……憎かろう!」
「あぁ憎い。だが、それよりももっと憎い者がいるのだ」
陳寿の目が鋭くなった。問いを用いずに、夏侯覇の本音をひとつ引きだした。彼は蜀漢を未だ憎んでおり、降伏の真相のひとつに、偽装投降の可能性を見出した。だが、ひとつ気になった。憎い人というのは、いったい誰のことなのだろうか──。
諸葛亮よりもさらに憎い人が居て、その人物を殺すために蜀漢へ偽装投降したのか。だとしたら誰だ。姜維将軍か、あるいは他の将軍か。戦に参加しない費禕ではないだろう。
陳寿の頭の中に浮かぶ人物が、すでに世を去った皇帝劉備や丞相諸葛亮と同じくらいの憎しみを向けられるような人物には、到底思えなかった。
それに夏侯覇は、蜀漢を憎んでいるとも読みとれる返答をした。皇帝劉備や丞相諸葛亮以上に、この蜀漢を代表する人物などいない。ならば、もっと柔軟に問いの答えを解釈するべきだろう。
そこで陳寿は思い至った。蜀漢のいかなる人物よりも、さらに憎い人物がいて、その人物から離れるためにこの蜀漢へ逃れてきた、ということだろうか。
いいやまさか、考えすぎだろう──。思いこみのような気もしたが、疲れた頭で、これからまた七つ目の問いを考えるのは難しいと感じた。陳寿は七度目、今日の最後の問いは、仮説にもとづくものにした。
「その憎い人物は、魏の人物か」
「魏の人物ではない。今日はこれでおしまいだ。帰ってよいぞ。しかし、問いをせずに情報を引きだすというのは、なかなか面白き試みであるぞ、若き陳寿よ」
陳寿は、核心的な答えを得られなかったことに頭を悩ませた。百日のうちに降伏の理由など、探り当てられるのだろうか。
外へ出ると、日が傾いていた。すでに夕刻、外に費禕の姿はなく、勝手に帰って良いものか迷ってしまった。ぶっきらぼうに小屋を囲む兵士には、聞く気にもなれない。だからしばらく、夕日が沈んでいくのをぼんやりと眺めてしまった。
費禕が今朝「万事、中の男のいうとおりにせよ」といっていたことを思いだし、ようやく陳寿は帰路に着くことができた。
夜、明かりが少ない裏路地を通っていると、いつもと違う光景に見えた。こんなにも真っ暗になると、どこか異世界に迷いこんだような気がしてしまう。
ようやく家のそばまで来ると、家のそばで陳寿を待つ男がいた。男は「おーい承祚、やっと帰ってきたな! 生きててよかったぜぇ」と言っていた。承祚とは陳寿の字で、親しい間柄や目上の人でしか呼べない名である。それに、こんな風に楽観的な性格な人は、身近には一人しかいない。
「おう、令伯。なんとかな」
声の主は同僚の李密、字は令伯。今朝、陳寿が呼び出された際は肘で突いて冗談をいっていたが、いつまでも戻らないため、心配になったらしい。
家にあったナツメを肴に、酒を呷った。生きた心地がしなかった小屋での愚痴をこぼし、瓢箪の酒を呑み干すころには、そんな一日を悪くはないとさえ思えていた。
「しかし不思議だなぁ承祚。夏侯覇の投降は漏れてはならない一大事のはずなのに、どうして口止めされていないんだ」
「不文律だったのかもなぁ。破っちまったが」
「そう決めつけるのか」
「ならば令伯、お前はどう思うんだ」
「まるで夏侯覇は、己が存在を、顕示しようとしているかのようだ」
「つまりなんだ?」
「この蜀漢にて、夏侯覇ここにありと、知らしめたいのではないか」
「何のためにだ」
「それは……わからん」
酔った二人の頭では、それ以上のことは思いつかなかった。
だが翌日になって改めてよく考えてみれば、それもあり得る説だと、陳寿は思った。夏侯覇は明らかに、なにかしらの目的を持っている。ならば自らが無事に蜀漢にたどり着いたことを喧伝させ、魏にいる仲間に伝える。いや、その仲間が魏にいると決めつけてはならない。すでにこの蜀漢に、密事を共有する仲間が潜んでいるのかもしれない。なぜならば、魏からの降将は彼が初めてではないからだ。
「すでに、事は動いているのかもしれない……暴きださないと。この蜀漢のために……!」
陳寿は再び、小屋を訪れた。扉を開ける手は、まだ震えていた。中にいる大男はまたしても、まるで狩りを楽しむ虎のような目で陳寿を睨み、そして微笑んだ。だが陳寿はこう思った。問いを重ね、狩りをするのは自分であると──。
「一つ目の問いだ。お前の心は今、魏にあるのかあるいは、蜀漢にあるのか」
「無論、魏である。私は昨日、魏の夏侯覇と名乗ったはずだ。私が口にしたことを二度と忘れるでない。つまらぬ問いと同様、それは死に値する愚行だ」
「ならば二つ目の問いだ。お前は魏を離れたが、降伏したときはひとりだった。それはつまり、お前には降伏を手引きした仲間がこの蜀漢にいるのか」
「手引きした仲間はおらぬ」
夏侯覇は仲間の存在は否定しなかった。手引きした仲間はいなくとも、あらかじめ蜀漢に仲間を潜ませていたと考えられる。だとすれば、それが誰かを探り当てれば、おのずと目的も絞れると、陳寿は見抜いた。
「仲間の名を聞けば、お前はつまらぬと言って俺を斬るだろう。三つ目の問いだ。その者は、お前と同じく魏の降将か」
「魏の降将ではない」
「降将ではない……のか」
「諦めるのか、文官よ」
「まだだ……まだだ。四つ目だ」
読みが外れた陳寿は、つまらない奴だと思われないように、平静を装い、当てずっぽうの問いをした。
「戦に、文官は要らないか」
「文官は要る。文字が読めぬ兵は多く、また戦には武具のみならず、賞罰、兵糧の管理が要る。文官はその裁定に必要な文書を作成しなくてはならない」
「文官がいなければどうなるか」
「それは五つ目か」
「そうだ」
「文官がいなくては、大軍を動かせはしない。魏の強みは、人の多さや、法の厳格さにより維持される大軍の存在にある。されど、文官なくして兵士の不満は解消されず、ひいては大軍の維持などできるはずもない」
聞いたは良いものの、当然なんの助けにもならない情報である。冷や汗が垂れ、焦りを隠せなくなった。
陳寿にはどうしても、李密の勘を信じたいという思いがあった。李密は幼少の頃から頭脳に秀でており、ときどき、驚くほど的確な勘を見せるときがあった。それは本人さえ無自覚のうちに、その博学多才な頭から必要な知識を抽出した結果のものであり、言わば高速の暗算にもとづく、れっきとした根拠を持つひとつの仮説であった。
降将ではないというならば、何だ。陳寿もまた、無学ではないその頭で、思案した。
「六つ目だ。その仲間は、魏の人間か。武将ではなく、ただ魏で生まれた人間なのか」
「その通り、魏の人間だ」
やはり夏侯覇の降伏は、夏侯覇一人による出来事ではないのかもしれない。ならば、やはりこの降伏は入念な計画のもと行われたものであると、そう推理できる。それに気づいた陳寿は笑った。その笑いの意味を夏侯覇が見抜いたかは分からない。だが陳寿は笑わずにはいられなかった。彼が気づいたその事実は、彼のこれからの日々が一筋縄ではいかないことを、彼に確信させた。
「ずいぶんの面倒なことを考えてくれたものだ、夏侯覇よ」
「早う問いを続けよ、文官よ」
陳寿には、目の前で余裕の笑みを浮かべる魏将の仲間を炙りだし、その計画の全容を暴くことができなければ、夏侯覇はいとも容易くこの蜀漢を滅ぼすことができるように思えてならなかった。
そもそも、魏と蜀漢の国力は比べ物にならないほどの差がある。だからこそ、その差をもろともせず魏へ攻勢に出て、大戦果をたたき出す諸葛亮や姜維が、傑物と称されるのである。
夏侯覇は、自らが定めたこの問いを用いる遊びで、蜀漢が滅びるか、はたまた魏王室、夏侯一族の自らが死ぬか、決めようというのだろう。
少なくとも陳寿には、そう思えてならなかった。早合点であるかもしれないが、目の前の男が醸しだす遊びの気配と妙な緊張感が、陳寿にそう思わせた。
これが強国に生まれた強者の、遊びなのか。
陳寿は足元を見られた屈辱に腸が煮えくり返る思いであったが、敵地でひとり、余裕綽々のこの男の最期を見届けてやろうと、その勝負に勝つことを決意した。




