第二話
目の前にいる夏侯覇は、蜀漢の天敵として知られる魏の将軍だ。蜀漢の人間は皆、魏の人間が嫌いだ。なぜこの男が今、蜀漢の首都成都にいるのか。聞きたいことだらけだ。なぜ、費禕は教えてくれなかったのだろうか。せめて知っていることはすべて教えてくれればよかったではないか。
「二つ目、なぜ魏の夏侯覇がここにいるんだ」
「降伏したのだ」
「ひとりでか」
「それは三つ目か?」
「違う、付随している」
「いいや、しない」
「ならば三つ目だ」
「そうか。お前の問いの通り、ひとりで来た」
「なぜ降伏した? なにが目的だ?」
「それは四つ目と五つ目か?」
「くそ……そうだ」
「ならば、四つ目と五つ目には答えない」
「なぜだ! いや……待て。もしその理由が今後も起こりうる可能性があるならば、理由を教えろ。しかし今回限りならば、この問いはなしだ」
「この問いがありかなしか、決めるのは私だ。そしてこの問いは六つ目で、理由はつまらないからだ。首を刎られていないことを喜べ」
「問いのほかにはなにも話さないのか……いや、なんでもない」
なにもいえなくなった。極度の緊張から陳寿は瞬きも忘れ、ただ夏侯覇を見つめることしかできなかった。夏侯覇はえらく退屈そうだった。その姿を見て、もはや自分の命は今日までだと、陳寿は思った。
しばらく無言のまま過ごすうちに、陳寿は妙に冷静になった。自分の白い息が一定の間隔で吐き出される。それを眺めていたら、なぜだか少し落ち着いてきたのだ。夏侯覇は椅子の上で頬杖を突いていた。その目は遠く窓の外を眺めていて、なにかを考えているように見えた。眉間にシワを寄せ、一点を眺めているが、目の焦点があっていない。夏侯覇はなにかを見ている訳でも、ただ退屈している訳でもない。なにかを考えているのは確かだが、それが何なのかを見破らなくては、この男がなぜ自分をここに連れてきたのか分からない。
不用意に問いを重ねては、大事なことが聞けなくなるかもしれない。それに、当然の疑問から問いを重ねては、つまらないと一刀両断されかねない。
こういう時は、好きなことを考えるのだ。ほんの一瞬だけでも良いから、目の前の出来事から目をそらすことが大切だ。そしてふと思い立った視点から、考えてみる。
問いを投げかける前に、聞かなくても分かることがあるはずだ。
「あなたは俺を殺せると言っていた。だが何のためかは知らないが、今は殺さずにいる。それがなぜかは考えても分からないし、どうでもいい。気にもならない。俺は今まで師匠や父のせいで酷い目になんどもあったし、今さら魏の降将に殺されても……。そういう憂き目に遭った蜀漢の人間は数えきれない」
「えらく口数が増えたな陳寿よ。同情を誘って殺されないようにしているのか」
「もとより口数は多い性格だ」
「左様か。ならば、そなたにも話してもらおうか。そなたはさきほど、師匠や父のせいで酷い目にあったと言っていたな。それはどういう意味だ」
「師匠は稀代の変人で、その尻拭いをなんどもさせられただけだ。だが父は……父は……罪人だ。お前たち魏を滅ぼすための大戦で、魏将張郃にしてやられ、その罪で罰を受けた」
「それはいつの話だ」
「今から二十一年前、建興六年の話だ」
「ということは、魏の太和二年。街亭の戦いか」
建興六年(西暦228年)
この年、蜀漢の丞相(じょうしょう)諸葛亮は魏を討伐するため、大規模な軍事行動を行った。第一次北伐である。
蜀漢の本拠地益州から北へ進んで漢中へ入り、そこから魏の各地を攻撃しながら魏西部の都長安を狙った。
しかし魏の五大将軍の一角、張郃が十五万の大軍で接近し、諸葛亮は要所を攻略する味方の背後を守る必要に迫られた。
「敵の大軍を足止めしなくては、我らは総撤退に追いこまれる。優秀な将軍は皆、要所の攻略に出向きこの本陣にはいない。どこで、誰に、敵を迎撃させるか」
参軍のひとりが名乗りを挙げた。
「諸葛丞相、この馬謖を使ってください。諸葛丞相のもとで兵法を学び、あとは実戦あるのみです」
「そなたに務まるのか。ここで戦いに敗れることになれば、味方は総撤退となり、数年かけたこの大規模な奇襲は失敗におわるのだぞ」
「優秀な将軍は皆、己の役目を果たしています。この馬謖、必ずや諸葛丞相のご期待に応えて参ります」
「ではどこで敵を迎えうつ」
「街亭です。あそこは交通の要衝で、敵は必ず街亭を通ります。そしてかの地には山があります。高所より攻めるは兵法にも記された有力な戦術。我らが少数であっても、敵を退けられます」
「よし、よかろう。では副将に王平と陳式を連れていき、街亭では二人の助言をよく聞くのだ」
街亭に到着した馬謖は、道が交差する街亭のすぐ側にある山の上に、陣を敷くことに決めた。陳式は賛成したが、王平は反対した。
「馬謖殿、あの山は孤立していて、大軍で包囲されますぞ」
「孤立した山といえども、小さい山ではない。我らの目的は敵を足止めすることであり、包囲させることができたならむしろ功績だ。敵をこの山に釘付けにさせるぞ!」
「問題はそれだけではありません。孤立した山には、川が流れていません。喉が渇き、飯を炊くこともできません。兵士が飢えたところを見計らい、敵は一気に攻めこんで来ますぞ!」
「貴様おじけづいたか、王平! さては私が手柄を立てることが妬ましいのだろう!」
馬謖に続き、陳式は王平を責めた。
「王平殿、お前は字も大して読めない異民族。兵法も知らず、突撃しか能がないイノシシ野郎なのだろう!」
「貴様……戦に敗れて全軍を危機に陥れたいのか!」
「少数で、敵の大軍からこの街亭を守るには、下手なマネをせず高所に陣取るしかない!」
「常道で防げると思うなよ……敵の張郃を侮りよって……! 後悔しても知らんぞ!」
馬謖は魏軍相手に実戦を経験している王平の忠告を、受けいれなかった。そして自らが机の上で学んだ理論に従い、山の上に陣を敷いた。
五万の騎馬兵を率いて現れた張郃は、山に立てこもる蜀漢軍を警戒した。だが歴戦の将として戦場で培った勘から、山の付近を視察し、それが孤立した山であることに気づいた。
「孤立した山には水源がない。どうするか……。蜀軍に攻められる味方の救援を急ぎ、ここまで五万の騎馬で先行してきたが……一旦ここで山を包囲すべきやもしれんな。我らの移動中に攻められて、後続の歩兵の大軍に被害が出ては困る。十日も経てば敵は空腹に耐えかねて降りてくるはずだ。我慢比べといこうか、蜀の凡将よ」
張郃は味方の救援よりも、目の前の少数の敵を優先した。これは賭けであったが、味方があと数日耐えしのんでくれることを信じた。
馬謖の軍は王平の懸念通り水不足に陥り、背後の森林にある水源を求めて下山を試みるも、包囲する魏軍に妨害され、水源の確保はできないまま、徐々に憔悴していった。一戦も交えないまま、自らの軍を疲弊させるという墓穴を掘ったのである。
馬謖は兵士が飢え死にしはじめたことで意を決した。
「陳式よ、このまま兵を死なせては諸葛丞相に申し開きができない。いっそ、自らがここで討ち死にするとしても、敵に損害を与えてやろう! 全軍、下山し張郃軍へ突撃だ!」
決死の覚悟で敢行した突撃も、弱った少数の兵では焼け石に水。高所という有利を活かすこともできず、瞬く間に軍は瓦解した。
「馬謖殿をお助けしろ! 行くぞ!」
森林に潜んでいたわずか数百人の王平軍は、逃げる馬謖を懸命に守った。しかしもはや張郃の騎馬兵五万を足止めすることはできず、追っ手を振りきることができたのは馬謖や陳式を含むわずか十二、三人であった。
早馬にて街亭での敗北を知った諸葛亮は、すぐさま全軍に要所の攻略を中断させ、自らが敵を足止めする殿を担って、主要な味方の軍が漢中まで撤退するまでの時間稼ぎをした。
成都に戻った諸葛亮は、馬謖、副将の王平、陳式を処罰した。中でも馬謖の責任は重く、降格や棒叩きでは済まされなかった。
人材不足の蜀漢において、よく兵法を学んだ馬謖を失うことは痛手であったが、諸葛亮は国を率いる丞相として、私情を交えず率先して法律を遵守することを優先した。将軍らは静止を振りきって、愛弟子馬謖の処刑を、泣きながら命じた。




