第一話
延熙十二年(西暦249年) 成都
成都の朝は寒い。最近、ようやく手に入れた綿入りの絹織物は柔らかく、肌を暖めてくれる。だがそれでも、布団から出るのを躊躇してしまうほどの寒さに、堪えてしまう。
白い息を吐きながら、手をこすりあわせて暖める。そうしてニワトリの鳴き声をうるさく感じながら、布団から這いでた。
「こういう日はさっさと成都城へ行こう。あそこは人も多いし、炭を焚いてくれてるしなぁ」
男はしたっぱの役人で、お城で筆記や計算をする仕事をしている。いわゆる、文官である。安月給だが、人並みの生活ができれば、今はそれで満足だった。
仕事場に着き、畳の上に机を並べ、いつものように同僚と軽口を叩きながら筆を走らせていると、慌ただしい様子で、上司の王崇が部屋に入ってきた。
「おい、陳寿はいるか」
「えっ、はいここにいます」
男は名指しで呼びたてられ、なにかやらかしたのかと勘ぐった。
「早く来い、尚書令がお待ちだ」
「しょ、しょうしょれい……が私を……?」
尚書令は蜀漢の文官の長で、陳寿の上司の上司を辿っていけば、最後に行きつく役職である。会ったことすらない人物に呼びだされたなど、ただごとではない。
陳寿は訳が分からず、ため息を吐いた。ため息は相も変わらず、白かった。
「早く行け陳寿。俺あの尚書令嫌いなんだよ。性格悪いし」
「呂乂尚書令って怖い人なんですか……? ますます意味がわからない。なんで私がそんな人に呼びだされなくちゃならないんですか……?」
なにか、ヘマをした記憶はない。だが誤解から責任を負わされて、罰を受けるなんてこともありえる。なにかの勘違いであることを期待したいが――。
顔面蒼白の陳寿を同僚は肘で突きながら、ニタニタと笑った。
「師匠がなにかやらかしたんじゃないのか〜? お前はお気に入りの秘蔵っ子だからなぁ」
「あ、ありえる……」
陳寿の師匠は、成都城で働く者なら誰でも知っている稀代の変人であり、今までもなんどかやらかして、そのとばっちりを受けたことは一度や二度ではなかった。こればっかりは腹を括るしかない。陳寿は上司の王崇に急かされるままに、尚書令のもとへと向かった。
「王崇さん、呂乂さんってどんな人なんですか」
「袖の下を要求したり、暴力を振るったり、まぁ悪いヤツだな。なにかの理由で上から叱責されて、腹いせにお前を殴りたいのかもな。あるいは、金をゆすりたいのかも知れんなぁ」
金をゆするならば王崇からゆすれば良いと、陳寿は思った。王崇は名家の生まれで金持ちだし、したっぱでもあるじゃないかと、そう思ったのだ。
陳寿も一応は名家の生まれで、一族は金もコネもある。だが陳寿だけは、父親のせいで、貧乏暮らしが板についていた。子供のころから、そこらの平民と変わらないほどの貧困にあえぎ、こうして文官として国に仕えることができたのも、奇跡に近いことだと感じていた。
父親は、罪人だ。だからもしかしたら、師匠ではなく父親のせいで呼びだされたのかとも思った。
「ここが尚書令の仕事場だ。生きて帰ってこいよ、陳寿」
「冗談キツいですよ……王崇さん」
陳寿はひとり、呂乂のもとを訪ねた。そこには呂乂がいた。人相が悪すぎる男を見て、きっと彼が呂乂であろうことはすぐに分かった。
「尚書令の呂乂だ。遅かったな。そなたが陳寿か」
「遅くなり申し訳ございません。私が陳寿でございます」
「今日も寒いなぁ。木炭をいくら炊いても、いっこうに暖まらん」
「は、はぁ……。確かに寒うございますな」
「早く用件を言えと、言いたげな顔だな」
「さ、左様なことは毛頭……」
「構わん。儂も無駄話は嫌いだ」
ならば始めから用件を話せよと、そう思った。だが取り繕った顔は腹の中の嫌味を感じさせない、爽やかな顔そのものだった。
「異例なことが起きた。だから、異例な処置を取る。これから話すことはきっと記録には残らんだろう。たとえ今ここでお前を殺しても、お前が死んだ事実は残らないし、当然この儂も処罰されはしない」
「そ、それはつまり……」
大声で笑う呂乂に対し、爽やかな顔を続けることは、もはやできなかった。殴られるどころではない。今ここで消されるかもしれない。せめて最後に、師匠と父親のどちらの咎めで殺されるのかだけは聞いておきたいが、教えてくれるだろうか。
「まぁ冗談だ。録尚書事がお前を宮殿へ招くというのだ。アイツのことは嫌いだが、儂より身分が高いから、形式的な挨拶に出向く必要がある。分かったらさっさと行くぞ」
「お、お待ちを……! まったく分かりません!」
「ならば分からんでも良い。さぁ行くぞ」
録尚書事、国に仕える役職の中で、常設の位に限れば最も権限が強く、皇帝に仕える臣下としては最高位の役職。簡単にいえば、現在の蜀漢において、最も高い位である。
理解が追いつくはずもなかった。いつものように城へ来たら、文官として仕える尚書省の長官と会い、その長官から、皇帝の次に偉い男に会えと言われたのだ。夢を見ているような気分だが、決して心地よくない。
だが不思議と、悪夢と呼ぶほど不快でもなかった。妙な高揚感さえあり、足取りはさほど重くはなかった。
尚書令呂乂と共に外へ出ると、そこには馬車が用意されていた。慣れた手つきで乗りこむ呂乂に続いて、ぎこちなく乗りこんだ。馬車というのは、思いのほか揺れるようだ。
それから間もなく、宮殿にたどり着いた。
宮殿の階段は段数が多く、また横に広い。きっと三十人は並んで登れる広さだ。さながら城壁のように感じられる階段を昇りおえ、扉を開くと、そこには息を飲む光景が広がっていた。まず目を奪われたのは、屋内とは思えないほどの明るさである。灯された無数の燈が、数多の宝玉に反射して、辺りを眩く色彩豊かに照らしていた。そして、芳しい香りが心を朗らかにした。この宮殿を他の何かにたとえるならば、大河から躍り出て、山を抜き天を覆う龍であろう。人智を結集し設計された、この世で最も美しく雄大なその空間は、他の誰でもなく皇帝の宮殿に相応しいと感じられた。
呂乂の案内で、紫色の簾で仕切られた一室へ入ると、そこには髭が整えられた好漢がいた。
呂乂は、手短に挨拶をしてさっさと帰った。この簡素ながら広く、書物が溢れた部屋と、呂乂のその態度から察するに、この男が録尚書事の費禕だ。
費禕は端的に言った。「ある人に会ってもらう」と。
もしかして、皇帝陛下に会えるのか──。淡い期待は一瞬にして砕かれた。
「面倒であろうが、せいぜい頑張るのだ。あのような者、さっさと殺してしまえばよいものを……陛下の気まぐれだ」
費禕は側仕えの兵士を伴って、陳寿を、宮殿の離れへと連れだした。それだけで、これから会う人物が危険な人物であることが分かる。誰だ。いったい誰なのだ──。
宮殿の離れに、大量の兵士に囲まれた小屋があった。それは中の人物を守るというより、中の人物を警戒しているようなものものしさである。入り口の扉の前で、費禕は言った。「ひとりで入れ。万事、中の男のいうとおりにせよ。死ねと言われれば、死ね」
恐ろしくなった。費禕は冗談をいうような態度ではなかったし、会って数分だが、冗談をいうような人柄でもないと思えるほどの堅物であるくらいは察せられる。
中にいったい誰がいるのか、それを知るべく、恐る恐る扉を開けて足を踏みいれた。
「遅かったな、文官」
「あなたは……いったい」
文官は男の目を見た。その目は獲物を狩る猛虎のように鋭く、この男が放つ殺気に阻まれ、それ以上近づくことはできなかった。男は手招きをし、そして人差し指で畳を指した。座れと命じているようだ。
足が震えて思うように前へ進めない。こんな経験は、山の中で虎に出会した時以来である。意を決して畳の上に正座し、対面して椅子に腰掛ける男を眺めた。見上げればなおのこと、男の巨躯に圧倒されてしまう。
「名を陳寿といったな。お前はこれから私の命に従え。分かったならば、返事をしろ」
「は、はいっ!」
「これからお前は、私に問え。日に七度、私に問うのだ。ただし、つまらぬことは問うな。つまらぬ問いをすれば、お前を斬る。そして、期限は百日だ。百日、問いを続けて私を唸らせろ。まずひとつ目の問いをせよ」
聞きたいことは山ほどあった。だがまず聞くべきはこれだ。陳寿は震える声で問いかけた。
「あなた様は、どちらの誰なのですか……?」
「私は魏の夏侯覇だ」
「夏侯覇……あの、姜維将軍を退けた……あの夏侯覇!」
「さぁ、二度目の問いを行え」
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