プロローグ
建安二十四年(西暦219年) 定軍山の戦い
「父上、危ない!」
幼き日の夏侯覇は叫んだ。しかしそれをかき消すほどの大勢の怒号や悲鳴が周囲に響きわたりり、いたるところで人や馬が血しぶきをあげながら倒れていた。
初の戦場は、山頂の本陣から敵味方の戦いを眺めるだけで終わるはずだった。それも圧倒的に有利な戦況で、自分や父兄に身の危険が及ぶなど考えてもいなかった。
だが戦は敗色濃厚となっていた。敵は山の崖をよじ登って本陣に雪崩れ込み、口々に「夏侯淵を殺せ!」と叫んでいた。
「奇襲にうろたえるな! 敵を山頂から突き落としてやれい!」
夏侯淵は自ら弓を取り、敵を射抜いた。中華にその人ありと恐れられたその弓は、百発百中の腕前である。歩兵の顔を射抜き、甲冑を着た騎馬兵が迫ればその馬を射抜いて、それを助けようとした歩兵ごと一本の矢で二人抜きした。しかし多勢に無勢。味方の援軍など来るはずもない山頂で、数十分の激闘の末に、味方はことごとく討ち死にした。
「おい! 後ろに下がれ!」
「父上の側にいさせてください!」
「えぇい、下がるのだ!」
父の夏侯淵は優しい人で、最期の瞬間まで、自分より愛息子を気遣っていた。
夏侯淵は定軍山の戦いで敗れ、その首は斬られて敵の戦利品となった。夏侯覇は、槍の先に刺され天高く掲げられる父の首を見て、誓った。
「必ず蜀を滅ぼす……!」
命からがら逃げ延びた夏侯覇は、山の麓で陣を構えていた参軍の郭淮に保護された。
彼のもとには、状況を伝える伝令兵がかわるがわる訪れては、異なる情報を足早に伝えて去っていった。どうやら、この定軍山を失ったことで、ここ漢中全域から撤退するしかないらしい。漢中は、父の夏侯淵や、父が従った曹操らが強敵を退けて手に入れた土地だった。そして防備を固めて、畑を耕して、十年かけて豊かにした土地だった。それを、蜀は侵略して奪いとったのだ。
蜀を率いる劉備は漢中王を自称し、後に蜀漢帝国の皇帝として即位した。それは、四百年間この中華に君臨した帝国の後継国家である魏帝国への、全面的な宣戦布告であった。
「父兄や、慣れ親しんだ者らをことごとく奪いよって……。大耳の劉備、長身の引きこもり諸葛亮。一生をかけてでも、貴様らを必ず殺してやる!」
蜀漢帝国への激しい復讐心は、夏侯覇を対蜀漢の武人として成長させた。
太和四年(西暦230年)
成長し、部隊を率いる立場に出世した夏侯覇は、大将軍曹真率いる大軍勢の先鋒となった。曹真は対蜀漢軍を率いる身であり、誰よりも夏侯覇に期待をかけていた。
「夏侯覇、間もなく我らは蜀へ反撃を行う。一年前、蜀軍の連中は懲りずに我らの領土を攻撃したが、すでに撃退した。ここからうって出て、今度は我らが漢中を奪いかえす番だ! お前はそこで、敵の仇を討て。父上の屈辱を晴らすんだ!」
「先鋒として、その勤めを果たしてまいります!」
「お前の父は、我が父曹操の義兄弟。我らは歳が離れていようとも、兄弟も同然だ。敵を討て! 我らが魏の敵を根絶やしにしてやろうぞ!」
夏侯覇は敵陣へ攻めいり、武将でありながら自ら武器を手に取って戦い、蜀の兵を斬った。その武勇には、多くの味方が感涙した。
亡き夏侯淵の再来と、誰もが称えた──。
しかし敵は、誰もが認める鬼才諸葛亮。彼は皇帝劉備亡き後の蜀漢の一切を仕切る丞相の位に就き、軍事と政治のすべてを支配して、劉備が遺した魏の討伐を叶えようと奔走する男だった。
「雨が降りはじめました。これは数ヶ月は止まぬ長雨です。これは昨年より分かっていたこと。我が神算に狂いはなし」
「さすがは諸葛丞相!」
「お前は私の右腕。私から多くの技を学びなさい。これがそのひとつ……戦は、刃を交える前から、始まっているのです」
魏の攻撃が始まると同時に雨が降りはじめることを予見していた諸葛亮は、魏軍が雨で出撃できず、また武器や飯が雨で腐った頃合を見計らい、襲いかかった。それは一方的な大虐殺。名もなき蜀の兵士でさえも、天才諸葛亮の手にかかれば、ひとりひとりが精鋭に化けてしまうのだ。
曹真は、腹を空かせた味方の兵士らが、一方的に殺される惨劇から目を背け、被害の拡大を阻止するために、前線の将兵を見捨てて撤退した。
「諸葛亮は畑に水をやり、兵士を栽培する妖術まで用いるという。そんな噂を、私は信用しない。だが……七十万の兵士と劉備を一度の戦いで失いながら、数年で再起して何度も我らを窮地に陥れるその手腕。ゆるせ夏侯覇……! 我らには抗うすべがないのだ……!」
敵地にとりのこされた。夏侯覇は敵の返り血を浴びながらも、懸命に戦った。やがて戟が折れれば剣を抜き、剣が折れれば、盾で殴りつけた。死にものぐるいだった。自ら何人の蜀兵を倒したか分からない。暗く狭い谷の合間で、活路を見出そうと抗った。やがて矢に射抜かれた愛馬は倒れ、足で逃げた。しかしどこまで逃げても、「夏侯覇を殺せ!」という声は、谷中に響きわたっていた。思いだされるのは、あの日の光景。
「お前たち! 走れる者は俺を置いて先に逃げろ! 敵の狙いはこの俺だ。お前たちだけでも……曹真大将軍のもとまで逃げのびるのだ!」
「あなた様を置いては行けませぬ!」
「構わん! 行けというのだ!」
矢も尽きた。体は切り傷でボロボロである。足を引きずりながらも、後方に控えていた小部隊と合流し、馬を譲りうけた。谷には依然として「夏侯覇を殺せ!」という声が響きわたっている。それは幻覚かもしれないと思った。意識は朦朧とし、目の前に亡き夏侯淵の姿が見えた。
「父上……私にはまだ……やるべきことがあるのです。復讐を果たし、父上の無念を晴らしたいのです!」
夏侯淵は笑って、馬の手網を引いて歩きだした。そして「諦めるな」とだけ言って馬の腹を叩いた。馬は走りだした。父はもう居ない。だが、復讐を果たさなくてはならない。
正始八年(西暦247年)
なんども蜀漢軍を撃退した夏侯覇は、そこから瞬く間に昇進した。対蜀漢軍に特化した征蜀護軍の地位に登り、諸葛亮の右腕と称される戦上手姜維が大規模な侵略を行った際はそれを防ぐべく、全軍の指揮を取った。かたわらには、命を救ってくれた郭淮がいた。
姜維は諸葛亮の申し子というだけあり、その軍才は並外れていた。初めは少数で攻めいり、いつも通りの小競りあいであると見せかけた上で、漢中周辺の複数の地域で、広範囲に及ぶ大規模な反乱を引き起こしたのである。つまりは、少数の攻撃は合図に過ぎず、またこれまでの長期間におよぶ小競りあいも全て、各地の長を反乱に招きいれる時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
「戦は、刃を交える前から始まっておるのだ。丞相の夢、この姜維が一生をかけてでも果たしてみせよう!」
漢中攻撃を計画し、父を殺した忌々しき諸葛亮は既に病没していた。夏侯覇はその申し子を討伐しようと心に決した。巧みに軍を動かし、互いに盤上の上で囲碁を打つように、陣地を攻撃してまわった。もはや戦場で駆け回ることはない。だが、中堅の将軍として、まだまだ蜀漢の討伐を諦めてはいない。高い才能と豊富な経験、そして類い稀な執念が、彼を戦いへと突き動かしていた。
魏軍は圧倒的な兵の数で、またしても姜維率いる蜀漢軍を退けた。数年ぶりの大攻勢を、夏侯覇は自らの指揮で退け、その名声は天高く轟いた。魏の皇帝曹芳は「これからの、そちの更なる活躍に期待する」と直々に夏侯覇を賞賛する書状を下賜した。
今や誰もが知る蜀漢の天敵となった夏侯覇は──二年後、突如として蜀漢へ降伏した。一族や護衛も付けず、単身での降伏であった。
蜀漢にて身柄を拘束された夏侯覇は、なんども戦った姜維との対面を果たした。姜維は縄で縛られた夏侯覇の姿を見るやいなや、嘲笑した。
「あの夏侯淵の息子と聞き、さぞ威厳のある顔をした老将かと思っていたが……思っていたより幼い顔をしておるな」
「姜維将軍。あの諸葛亮の全てを受けついだ申し子と聞いておったが……矮小だな」
「えぇい御託は要らぬ。ハッキリと聞くが、何をしに降伏したのか」
「それは蜀漢の皇帝陛下にお話する。謁見させよ」
「どのようにして、国境を越えてきた」
「それも、陛下へお話する」
「要求はなんだ。なにも話さぬ敵の将軍を、陛下に会わせられると思うか」
「つまらぬことを申すな。早く謁見させよ」
姜維は理解に困った。だが戦場でなんども干戈を交えた夏侯覇が、皇帝陛下の前で妙な真似をするような男ではないと、姜維は思った。
姜維は周囲の反対を押しきって、半ば強引に夏侯覇を皇帝陛下に拝謁させた。
物好きで心が広い皇帝劉禅は、夏侯覇との会話を、ことのほか楽しんだ。なんの要求もしないおかしな降将である夏侯覇と、昔からの友人かのように話した。
それを見計らって夏侯覇は遂に、皇帝劉禅へ要求を突きつけた。
「陛下、降伏にそくして、私が蜀漢へ求めることは三つにございます」
「ほう、遠慮なく申しなされ」
「ひとつ、身の安全を保証すること。ふたつ、衣食住を保証すること。みっつ……」
「遠慮なく、さぁ申しなされ」
「若く才能がある文官をひとり、毎日私の部屋へ連れてくること。見た目が良ければ、なおのこと良い」
「おやすい御用だ。すぐに手配させよう」
馬車に乗り、宮殿を後にした夏侯覇は、窓から空を見あげた。そして深く息を吸って、ゆっくりと吐いた。「これからじゃ。これから」。思惑を秘めた降将夏侯覇と、蜀漢の若き文官との歴史に残らない日々は、こうして始まった。




