第四三話
綿竹関で守りを固める諸葛瞻の傍には、主簿の陳寿がいた。文官でありながら、歴史を志す者として、前線に立ち会いたいという気持ちがあったのだ。
軍略については全くの素人だが、こうして激戦地の一つ後ろの城で兵が構えているだけでも、前線の味方は安心して戦えるものなのだという。
故郷を離れ、人里離れた関所の中で、兵達と囲まって過ごす日々。軍とはこんなにも冷たいものかと、そう思った。兵は家族とも、女性とも離れて、少しづつ迫る死の影を忘れるように、日中は忙しくして、そして夜になれば酒を呑んで騒ぐのだ。
「このまま、何事もなく終われば良いものを……」
陳寿は嘆いた。そして、この苦しみも歴史書に志すべきだと思った。
だがすぐに、その考えは捨てた。
「同情しては、事実をねじ曲げてしまう。心ではなく、頭で歴史を捉えるのだ。間違えるな……俺……!」
陳寿はあくまで、正当な歴史を志すことに拘っていた。そうすれば、後世の人々が正しく歴史を知ってくれる。書ききれなかった出来事や背景、民の暮らしや気持ちにまで、想いを馳せてくれる。そうして、死してもなお人々の中に、今という歴史として生き続けることになるのだと、陳寿は確信していたのだ。
「夏侯覇よ……そなたが俺に歴史を志させようとしたのは、そういうことなのだろう……? 敗れた者の最後の足掻きとして、名家の誉れと存在を、後世に残したかったのだろう……?」
陳寿は夏侯覇が姜維に打ち明けた本音を知らない。蜀漢の天下統一を助けて司馬一族を打倒し、蜀漢の名門として曹氏と夏侯氏を栄えさせようという夢を、知ることはなかった。
だからこそ陳寿には、狂気的なほどに純粋で、勇敢で、恐ろしい夏侯覇を、十四年の月日によって美化させてしまった。
だから彼は、自らがよく知る夏侯覇について、詳しく志すことができなかった。客観的な評価が失われた、思惑の中で歪められた男を、記憶を頼りに志すこともできず、上辺のことしか残せなかった。
陳寿は夜、諸葛瞻を訪ねた。この時、黄皓が企むことなど、皆目見当もつかない。ただワガママを行って前線まで来ておきながら、役に立てないことを謝するためであった。
「座れ、陳寿よ。そなたがここに居ても居なくとも、私のやるべきことに変わりはない。よく戦場を見て、共にこの難曲を乗り切るのだ」
「どうして私を叱責なさらないのですか」
「白状すれば、状況は最悪だ。もはや、誰に当たる必要もない。力が抜けて、酒を呑む気力さえ起きぬのだ。そなたを叱りつけてなんとなるか」
「黄皓は今、我らがこの戦いを経て持ち帰る結果次第で対応を変えるべく、あらゆる手立てを打っているでしょう。勝てば軍に取り入り、負ければ魏に取り入る。保身のためならば陛下の首さえ刎ねるやもしれませぬ」
「それは誰にでも想像のつくことだ。あのような輩をお傍に置いた、陛下の責任であろう。だが、そうならぬよう、我らは勝たねばならぬ」
「されど我らは今、味方が剣閣で敵を防いでいるため、こうして気を揉んで待っている他ありませぬ」
「されど、姜維殿の御命令は、死守である。守りに徹し、欲をかいて敵を討ちに出撃しないこと。それこそが肝要なのだ」
「一つお尋ねさせてください。もし敵が今目の前に現れたら、将軍は如何しますか。そして私は、どのようにすれば良いですか」
「その時はきっと、姜維殿含め、多くの将兵がこの綿竹関まで後退しているであろう。私は命に従い、そなたも命に従う。それだけだ」
「その時、誰もいなければどうなさいますか。あなた様が、指揮官であれば」
「そのようなことはない。有り得ぬ。もしそうなったのならば、私は父上がかつて、何も用意されて居ない城で得意な琴を弾いて、司馬懿を退けたようにする。私は琴ではなく、得意の書画を楽しみ、敵を退かせようぞ」
それは空城の計と呼ばれるもので、諸葛亮が神算鬼謀であると知れ渡っているため成り立った計略である。何もないはずがないと、敵が勘違いをすることが前提なのだ。
だがこの諸葛瞻は、名声こそあれども、その能力は平凡であり、当然敵も大して警戒はしないであろう。書画を嗜む姿を笑われながら、殺されてしまうだけだと、陳寿は思った。
陳寿は部屋を出て、それから直接、諸葛瞻と会うことはなかった。
それから数日後のことであった。
突如として、魏の鄧艾率いる大軍が、綿竹関の前に現れたのである。全員が動揺した。剣閣は陥落したのか、なぜ誰も報せを寄越さないのか、まさかただの一人さえ生き残らず、皆殺しにされてしまったのか──。
だとしたら、どのようにして敵を退ける。主力軍を破り、剣閣を抜けてきた敵を、より少数で、守り切れるのか。
多くの憶測が飛び交い、大混乱となる綿竹関には目もくれず、鄧艾軍は何故だか成都とは逆行し、北上していった。
「何故……剣閣へ戻るのだ!」
最も混乱していたのは、諸葛瞻であった。わずか三六歳の若き将軍には、敵の意図が読めずとも仕方がなかった。




