第四四話
数十日前、鄧艾は剣閣攻略に手間取る鍾会の命令で、本陣に呼び出されていた。
「将軍、老将鄧艾がご挨拶申し上げます」
「遅かったな鄧艾よ、そなたを待ちわびておったわ」
「わたくしめを呼び出すとは、如何なされたのですか」
「見よ、剣閣だ。この砦、異様に堅く、抜けられるか怪しい。まるで函谷関を攻める合従軍になった気分だ」
「剣閣を守るは我らの宿敵にして、あの諸葛亮の申し子、姜維です。そう易々とは抜けられますまい」
「抜けるとは、破ることと同義だ。そうであるな」
「無論……そうでありますが」
「兵法とは相手の予想を裏切るものだ。そなた……地形を活かし戦をするのが得意であるな」
「はい、されどこの剣閣は、付け入る隙がありませぬぞ」
「ならば付け入らずともよい。ただこの剣閣より後ろへ出てくれぬか」
自己愛に満ちた顔、声、姿勢で、無理難題を押し付ける若者に、齢七十を超えた老将は、呆れ笑いが出た。
「出来ぬなら帰れ、ご老体。諸葛緒のように罪人としてな……」
諸葛緒はあらぬ罪を着せられ、その兵を全て鍾会に接収された後、罪人として洛陽まで護送されていた。功績を争う敵を排除したいという見え透いた野心に、鄧艾は吐き気を催すほどの嫌悪を覚えた。才能に溢れる名家の若者は、兵の命も、長年培った将軍の稀有な才も、全て駒にしかみえていないのだ。それ故、前代未聞な行軍を命令できるのだ。
死ねば功績を争うものが一人減り、その道中で剣閣を背後から潰せたならば儲けもの。それが鍾会の下衆な算段であると、鄧艾は気づいたのだった。
鄧艾は道無き道を進み、山を人力でこじ開け、谷を飛び降り、崖をよじ登った。兵站は切り捨て、獣も通らない道を進み、会敵する前に飢えか怪我で死にかねない一か八かの行軍を敢行したのだ。
そうして平地にたどり着いた鄧艾は、軍を引き連れて剣閣まで進んだ。しかし、すでに満身創痍となっていた軍は砦を攻撃する余力を持たず、ただ敵を圧迫するだけの存在として、立ち続けるしか無かった。
これにはさすがの姜維も動揺した。動揺したのは無論、鄧艾の出没であるが、それだけではない。明らかに疲弊しきっている敵将が剣閣と綿竹のあいだで勝手に包囲される形で立ち尽くしているにも関わらず、手が空いている諸葛瞻がそれを攻撃せず、綿竹から出撃しないことであった。
定期連絡で往復する兵がいる以上、それが途絶えているということは、間に存在する鄧艾の数万の兵に気づいていることは確実。それでも諸葛瞻はこの好機を掴もうとはしなかった。
この時、諸葛瞻に策などなかった。指揮経験もないまま、蜀漢の宿敵鄧艾が目の前に大軍を率いて布陣していることに、怖気付いたのである。
「ち、父上は……かつて街亭で経験なき馬謖を用いて、敵の猛将張郃によって軍が瓦解した。私ごときに、あの鄧艾を討てと申すか……? 姜維将軍でさえ何度も敗れた強敵に、この私が……?」
配下の将軍は叫んだ。
「出撃あるのみです! 敵は疲弊しています。今ならば姜維将軍を助ける功績をたてられます!」
「街亭では要衝を守りきれず敗退した。我らはこの綿竹という要衝を守ることで、同じ徹を踏まぬようにすべきではないか。そうだ……命令は死守。撃ってでては、勝てる戦にも勝てぬ!」
陳寿は怒りのままに叫んだ。
「将軍! 剣閣を抜かれた今、鄧艾を討てるのは我々だけですよ! 綿竹の西は山や崖に囲まれていますが、東は緩やかな平野。大きく迂回すれば、南から成都まで進めます!」
「そんなこと、敵は知らぬわ! 敵に知られているのはおおむね、主要な街道のみ。そしてそれは、この綿竹から成都へ続く道だ。この巴蜀は天然の要害ぞ、大きく迂回しても、成都は山に囲まれた盆地であると敵は錯覚するはずだ。どうして南側は平野であると気付けようか」
「臆病風に吹かれましたか将軍! 民は蜀漢だろうと魏だろうと、どうでも良いのですぞ!」
「何の話だ」
「お生まれが名家の将軍はお分かりにならぬでしょう。民にとって、自らの主が誰かなど、さしたる問題ではないのです。鄧艾が乱世を終わらせることを喧伝して回れば、民はすぐさま巴蜀のことを話すでしょう。いいや、喧伝する必要も無い。鉄の剣と炎で、いくらでも聞き出せます。民は生きるために王侯貴族や皇帝陛下に、忠誠を誓うのです。目の前に死が迫ったならば、もはや巴蜀は天然の要害ではなく、道案内が用意された迷路に成り下がります!」
動揺する諸葛瞻に配下の将軍らは口を揃えて叫んだ。
「決戦をしましょう!」
諸葛瞻は意を決した。軍を綿竹の外へ出し、平野の前に布陣した。強襲するほどの兵力はなく、臆病風に吹かれた諸葛瞻はただ、敵が素通りできない位置に布陣することで精一杯であった。
鄧艾から送られてきた降伏の使者を斬って徹底抗戦の意思表示をし、間もなくして両軍は激突した。互いに譲らぬ激闘の末、数に劣る諸葛瞻軍は殲滅、諸葛瞻を含み、配下の将軍である張遵、スモモ球、黄崇、また息子の諸葛尚がことごとく討死した。
しかし覚悟を決めた一戦で鄧艾に与えた損害も大きく、鄧艾は姜維を迎え撃つ余裕などなかった。
「全力前進! 成都へ進み玉座を奪うのだ!」




