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降将  作者: 乘越唯響(のりごえ いおん)


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第三七話

 姜維(きょうい)は成都に居ながら、その心は漢中以北に在った。生きていながら死んでいるような、抜け殻状態の彼を揺さぶり起こすには、北伐しかなかった。彼は魏の降将として蜀漢(しょくかん)に参ったため、地盤を持たず、戦で功績を立てることでしか朝廷での発言力を高める術はなかった。政治とは正しさではなく、功績を立てたものがその影響力で人を味方に付け、多数決で主導していくものである。北伐で大敗北を喫した今、成都に彼の居場所などあるはずもなかった。

「陳祗(ちんし)め、長いものに巻かれ、大義に背きよって」

 陳祗(ちんし)によって、北伐続行の後ろ盾を奪われた彼は、もはや身動きが取れなかった。

 姜維(きょうい)には確信があった。皇帝陛下は、どれだけの被害を出そうとも、北伐を中止など、好んで決断するはずがない。丞相をもう一人の父、相父(しょうほ)と尊称していた陛下ならば、是が非でも、父帝や丞相の遺志を引き継ぎ魏(ぎ)討伐の北伐を求める筈なのである。それでもなお、中止を決断したならばそれは、陳祗(ちんし)か、それに等しい陛下の寵臣の意見があった筈なのである。

「陳祗(ちんし)殿は元倹(げんけん)の友。ならば、陳祗(ちんし)殿は北伐によって我らの地位を高める為、是が非でも北伐遂行を叫ぶであろう。ならば誰だ。誰が……陳祗(ちんし)殿を……」

 宮廷に疎い姜維(きょうい)は、譙周(しょうしゅう)の名を知らなかった。しかしこうして成都で政に関わっていれば、仇国論の名を耳にする。そして彼は、その中で語られる主張から、その著者が陳祗(ちんし)に等しい寵臣であることを悟った。

「宦官の次は変人の腐れ儒者か。言葉やゴマすりでしか戦えぬ、卑怯者どもめが……!」


 姜維(きょうい)が怒りに震える最中(さなか)、庭に敷き詰められた自然の中を歩く皇帝陛下は、殊の外穏やかに見えた。何も考えていない訳では無いのであろうが、考えていないようにも見える。しかし穏やかなその目は、奥深くでは尖っていて、常に何かを見ているような気配もあった。

 側を歩く黄皓(こうこう)は、その潤しい目で優しく陛下の顔を覗き込みながら、何を考えているのか思考していた。

「陛下は今後、いかようにしてこの天下を統一しようとお考えなのですか」

「草花はどのようにして、住み分けをしているのであろうか」

「と、申されますと?」

「いいや、それだけのことだ」

 陛下は難しい相手である。掴みどころがないが、芯はある。だから皆、ただの暗愚であると蔑むのではなく、陛下に取り入り、国を自らの思う方向へ導こうなどと考えるのである。

 今更、天下国家を宦官が語るななどというような、つまらないことはいわない。しかし陛下は確かに、自分や譙周(しょうしゅう)と、陳祗(ちんし)のあいだには明確な線引きをしていると、黄皓(こうこう)は感じていた。

 その線を超えなくては、国を握ることは叶わない。黄皓(こうこう)は、国が欲しかった。もはや男根もなく、家を築くこともできない。力も弱まり、民となれば二度とまともな暮らしはできない。だからこそ、誰よりもすがった。この国に、陛下に、すがった。だがすがるだけではいつか捨てられてしまう恐怖に胸が張り裂けそうになり、夜も眠れぬのである。

「草花は、人の目には分からぬ力で、戦いあっているのでしょう」

「されば国も、人の目には分からぬ力で、線引きをされておるのやもしれぬ。朕は今、天下の趨勢に、心を砕いておるのではない。ただ、この蜀漢(しょくかん)を生き永らえさせねばならぬという、ただその一点にのみ心を砕いておるのだ」

「されば、今は雌伏の時。かつて丞相は、先帝崩御後に、数年かけて国を富ませ、兵を強くし、そして魏(ぎ)へ奇襲をかけました。時が流れれば、再び好機が、訪れるやもしれませぬぞ」

「そなたの言葉は、まるで美酒のようじゃ。甘美なるもので、朕の心を酔わす」

「お戯れを……」

 わざとらしく照れた顔をする黄皓(こうこう)に、皇帝陛下は優しい微笑みを浮かべた。陛下は優しすぎるのだ。他の人たちのように、見え透いたこの男のしたたかさに軽蔑や怒りといった気持ちをぶつけても良い。実際、陛下にはそれをしても差支えない立場である。黄皓(こうこう)自身でさえ、自らは悪辣であると確信している。宦官になった背景を知れば、同情はあるかもしれない。もしや、気づいていないのか。いいやそんなことはない。費禕(ひい)や姜維(きょうい)を対立させるようにして影響力の偏りを防ぎ、結果としてではあるが、夏侯覇(かこうは)に何も奪わせず一方的に北伐で働かせるだけの、上手く言い表せない賢さはあるのだ。

 無学な黄皓(こうこう)には、陛下をなんと形容すべきか分からなかった。歩みたい道を問うても、明朗な回答はなく、はぐらかされる。

 やはり、陛下は優しすぎるのだ。本来ならば陛下には決して扱えない程の傑物は、自分が陛下に取り入って国を主導しようと勝手に思い込み、熱心に働くようになる。しかし他方からも同様に、この陛下なら自分が手玉に取れるだろうと思い込んだ傑物が、その才能を遺憾無く発揮し、競い合うのだ。陛下はただ、困ったような優しい人の顔をして、偏りがなくなるように調節するだけである。

 陛下は特別な才能などなにもないが、それこそが、唯一無二の君主としての才覚なのかもしれない──。

「黄皓(こうこう)よ、そろそろ外してくれぬか。朕(ちん)はすこし、風に打たれて目を瞑っていたい」

「はい、陛下」

 黄皓は頭を下げ、後ろ足でその場を離れた。服従した者の動きをしながらも、その心は、どのように陛下の心を奪おうかと、熱く燃えていた。

 彼は自らも、その傑物らと同じ網にかかった魚であることを理解していた。だが、天性の人たらしとしてどちらが相手の心を服従させられるか、彼は勝負したくなった。それだけなのだ。

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