第三六話
段谷の戦いで惨敗を喫した姜維らは、敵の穀倉地帯を奪取することができず、そのまま漢中までの総撤退に追い込まれた。
成都に帰還し、朝議にて事の子細を報告した姜維は、なおも北伐を主張し続けた。しかし、姜維の味方であるべき陳祗でさえも、今回の北伐による損害の大きさから、富国強兵を行うべきであると考え、陛下は信頼する陳祗の意見を容れて北伐を認めなかった。それを受けた姜維は敗戦の責任を負って降格を願い出、それが認められ後将軍の位に降格した。
しかし、依然として軍内では最高位であるため、指揮系統に変化は生じなかった。
陳祗は陛下から絶大な信頼を得ていたが、それは黄皓、譙周も同様であった。
黄皓を出し抜くには、彼の後ろ盾となった夏侯覇が戦死し、姜維がなおも北伐を主張しているという状況は好機であった。しかし、陳祗は自分よりも学識があり、純粋で真っ直ぐな愛国心を持つ譙周と論を交わし、民を慈しむべきであると論破されたことで、姜維の北伐を中止させるべきであると陛下に進言するに至った。
上手く政治の海を泳げてはいないという気がしていた。陳祗は日々、不安が増し、酒の量が増えていった。夏侯覇の死を皮切りに戦に破れてしまったことで、陳祗の心は大いに乱れ、四六時中政敵の手の者に殺されることに怯えるようになった。
しかし、夏侯覇の死に最も衝撃を受け、動揺したのは意外にも陳寿であった。あの百日間は、間違いなく陳寿を変えた。陳寿の心の中で、常に指針となっていたのは師匠譙周をはじめとして、その門下生ばかりがその柱を囲う様に存在していたばかりで、夏侯覇の存在は特異であった。
共に釜の飯を食らったこともなく、共に酒を呑んだこともない。しかし、誰よりも心を動かされ、囚われた。
躊躇した。夏侯覇が死んだことで、もはや彼に勝つことができなくなってしまった気がしたが、もはや忘れることもできない。彼が残した思いに応えることで、彼に勝てる気がしていたが、それもできなくなった。彼の思いに応えることももはや、ただ彼の思いを叶えるだけで、永久に負けてしまうような気がした。
「なぜだ……なぜ俺に、自分の歴史を志せと……。なぜだ……」
陳寿は、夏侯覇が姜維に打ち明けた本音を知らない。だからこそ、無限に彼に囚われそうになった。
「くそ……やってやるよ。調べ方も覚えたんだ。この足と、書簡や竹簡で、知り尽くしてやる。そして推察してやる。お前が俺に何を託したかったのか……!」
陳寿は夢解きの際に用いた、連想や解釈では駄目だと自ら封じた。理解するには、想像では駄目なのだ。確かな真実からのみ、正解にたどり着けるのだ。
黄皓は夏侯覇を失ってもなお勝気であった。陛下の心の機微を感じ取った彼は、陳祗と自分が陛下と天秤にかけられていることを察したのだ。
「私と陳祗が、姜維と費禕になればよいのだ……そしてそのあとは……ヌフフフフフフフ」
彼の頭の中にどす黒い野望が浮かんだ。宦官にして、己が栄達を極め、天下を震わせる策である。
実現のため彼がまず行ったのは、譙周に擦り寄ることであった。
譙周は、此度の敗戦はこれまでの北伐でも類をみない程の大敗であり、無謀な北伐を続ければ、今に国が滅んでしまうという危機感を持っていた。そして仇国論なるものを執筆し、民のことを考えず国威にこだわる将軍や陳祗らに対する危機感を抱くようになっていた。
彼はやはり変わり者である。皇帝陛下や、国を守る者たちよりも、ただ国に住み、税を収めるだけの愛国心せえなき無垢な民こそ、国の要であると思っているのだ。
ならば自分が、そこに付け入れば良い。譙周に擦り寄る黄皓は、自らの本心を隠しながら、民の救済にこだわる哀れな宦官を演じて見せた。
「譙周殿ならばお分かりのはずです。国は如何にして成り立つのか。私は自分の父母がどこの誰なのかも知りませぬ。攫われ、買われ、この巴蜀の地に流れついて、宦官として国の禄を食むことになりました。私は国に救われたことなどない。私を救うのは日々の食であり、それを作り、運んでくれるのは、民草なのです」
「陛下は温厚ながら、その目が向く先は将軍や文官のみ。国の足場は、数多の民草が支えている。民草ばかりでは国を維持できず、すぐさま傾いてしまう。共に必要なれども、此度の北伐の大敗は、民草を殺しすぎた。武具兵糧を失いすぎた。それ故、北伐を辞めて、富国増強に務めねばならぬのだ」
「費禕様の如きお考えのように見受けられますが……自体はそれよりも逼迫しており、北伐をするか否か、もはやどちらが正しいなどと論ずる猶予さえございませぬな」
「左様、皆、国益を追い求めるばかり、見えぬようになっておるのだ。名士らも同じじゃ。民を慈しむ儒学者でさえ、天下太平の為に、己が才を活かそうとはせぬ。国を富ませ、勝たせるためにのみ、学んだことを活かそうとするのだ」
「教えてください。それは、いかなる意味にございますか。わたくしめには、同じに聞こえます」
「よいか黄皓よ、学問を修めたのならば、天下を安んじるために、その才を用いねばならぬ。されど悲しきかなこの私含め、儒学者はもはや、己が名声のため、出世のために学識を用いて、民草の暮らしなど忘れてしまったのだ」
「あなた様は異なりますぞ! あなた様は、天下太平のために、その位人身を極められた真の儒学者でしょう!」
譙周は乾いた笑い声を浮かべ、去っていった。去り際に彼は「そなたの言葉に心を動かされるとは、情けない」と吐き捨てて行った。
姿が見えなくなってから黄皓は笑顔の仮面を外し、自室へと帰っていった。




