第三五話
夏侯覇を失った姜維は、悲しむ間もなく次なる動きを決めるため、寝る間も惜しんで思考を巡らせていた。蝋燭を片手に地図を眺め、どうすれば敵に背後を突かれぬようにしながら、兵糧がある漢中まで撤退するか。
いいや、撤退するべきではない。目的である狄道城の攻略こそ未だ果たせてはいないが、二度の決戦にて敵の主力をほとんど壊滅させた今、敵の穀倉地帯を奪取して、そこを足場とするべきである。
「祁山、南安、上邽……このいずれかを奪えば……!」
敵軍に追撃能力がないことを知っている姜維は、まず自軍を休めた後に、敵を少数の軍で陽動しながら、祁山を攻略するに足る十分な兵を集め、一気呵成に攻め取る時期を見計らった。
延熙十九年(西暦256年)
援軍もなく、主力軍を失った魏軍は士気が下がりきっていた。国内では北伐の直前に、魏の臣下であった文欽文鴦親子が大規模な反乱を起こしていた。しかもそれは、魏の基盤である寿春の地であり、司馬懿による政変以降、国内は数年経ってもなお、大きく揺れ動いていた。
鄧艾は司馬一族に仕える忠臣として、なんとしても西方を守りたいと思っていた。元はただの貧乏役人であった自分を見出し、武官として活躍する機会を与えてくれた恩人に報いる為、姜維をいかにして退けるか考え続けていた。
陳泰は悪戯に兵力を損耗するよりも、総撤退をするべきだと考えていた。もはや討死する覚悟で、最後に一華咲かせようとでもしているのだろう。
また夏侯覇を討ち取り、心が燃え尽きているのかもしれない。陳泰のみならず、数万人と夏侯覇を失った蜀漢軍は次なる攻勢に打って出ることはなく、このまま時期を見て漢中へ撤退するだろうという意見も多くあった。
しかし鄧艾は、楽観的にはならなかった。そして、蜀漢軍を退ける現実的な一手を考えた。
「刺史よ、今すぐにでも我らは軍を整え、敵の襲来に備える必要があります」
「何故だ南安太守よ。また理由をつけて、測量にでも出かけたいのか?」
「この鄧艾、測量に出たければ勝手に出ていきます。此度は測量ではなく、敵の襲来を予見しての進言にございます」
「何故そう思うのだ。我らは夏侯覇を殺し、軍を挫いて、姜維を退けた。そうであろう?」
「一時的に退いたにすぎませぬ。我らとて、王経が洮水で大敗を喫し、狄道で大軍を失いました。新兵ばかりで我らは練度も低く、援軍は……国内の反乱があったことを鑑みれば、期待できないでしょう。姜維は我らの動きが鈍いことを察知しているはずです。夏侯覇を失ってもまだ奴らには、熟練の兵が大勢おりますので、退くならば我らを叩きのめした後でしょう」
「それだけの理由か?」
「それだけでも十分ですが、まだあります。蜀軍は我らの穀物庫を襲い、奪うことができたなら、継戦可能です。祁山か、南安か、上邽か。我らは全てを守る必要があるため兵を分散しますが、敵は一箇所に全軍を注げます。勝利の勢いと、夏侯覇という所詮は降将を失った程度の痛手、そして穀物庫の存在。退くより、出て活路を見出す方が、現実的です」
「鄧艾よ、そなたならどう迎え撃つ?」
「私に、策があります」
鄧艾はおもむろに地図を広げ、蜀漢軍殲滅の策を献じた。
同年、姜維は兵馬を整えて軍を広げ、魏軍に陽動をしかけた。これが陽動だと見抜かれたとしても、敵側はどこを攻められるのか分からない以上、軍を分散するしかない。姜維は可能な限り敵軍が各城へ分散するよう、本隊を隠し、少数で広がって翻弄した。
それからしばらくして、姜維は祁山へ軍を進めた。ここは穀倉地帯であり、熟した麦が大量に育った今、この広大な地域を占領すれば、兵糧の問題は解決される。今までとは異なり、この祁山に駐屯し、魏軍を撃退するだけの余力がある。かつてないほど、北伐軍という刃が、魏へ深く突き刺さっているのだ。
「祁山を陥とせ! 蜀漢の兄弟たちよ!」
姜維が仕掛けた猛攻は、番狂わせが起きた。それは鄧艾による奇策である。
迎え撃つ魏軍のほぼ全てがこの祁山に集まっており、それが姜維軍を強襲したのである。
「慌てるな! 一度退けばよいのだ兄弟たちよ!」
姜維は慣れた動きで部隊を退かせた。そして敵の鄧艾を出し抜くように、南安へ向け移動を開始した。姜維の騎兵は足が早く、鄧艾を振り切って廖化のもとへたどり着いた。南安攻略に動く中、鄧艾が長い年月をかけて防備を固めた南安の攻略は簡単にはいかず、姜維は背後に迫る魏の先行部隊と、要害となる武城山を巡って争うも迫る大軍を警戒して逃走し、方向を変えて上邽に進んだ。
鄧艾はこれを先読みしており、上邽への道は土木や岩石で遮断していた。姜維は迂回し段谷の地で鄧艾と対峙、背後には武城山で争った魏の先行部隊が迫り、絶体絶命の窮地に陥った。
「敵の中央を突破するのだ! 怯むな! ここを抜ければ張翼将軍が今ごろ祁山を落としておる! 今が正念場ぞ!」
姜維は勢いによる猛攻で敵中央を突破したが、数の力で完全に包囲する鄧艾は、谷という天然の要害にて敵を前後で挟み込んだ以上、奇策等には頼らなかった。ただ兵の層を厚くし、姜維の逃げ道をとにかく塞ぐことに専念した。
「鄧艾! 我らは敗けぬぞ!」
姜維は叫んだ。なんとか馬で包囲を抜け出した姜維は、追撃の矢を受けながらも懸命に逃走した。
しかし姜維の軍は逃れることはできず、蜀漢の数万の精鋭が段谷の地で消滅した。




