第三四話
延熙十八年(西暦255年)
姜維は狄道城、襄武城を陥すため、軍を広げた。前回とは異なり軍の数は魏側が上回っており、常識で考えるならば、数に劣る蜀漢軍は兵を分けるべきではなかった。
長らく蜀漢軍と対峙してきた陳泰は姜維の奇策を訝しんだが、国力の差からこれ以上の余裕がない姜維による陽動であると看破し、主要な城の守りを強固にした。
「郭淮殿……刺史としてこの私が、あなたの意志を継ぎ、この地を守ってみせますぞ……!」
天を見上げ、亡き郭淮に誓う陳泰は、西方に赴任したての王経に惑わされずにそのまま狄道城を固く守って城門を閉ざすように厳命した。
しかし、王経は不安に苛まれ、側近の兵士にそれを吐露した。
「見よ、蜀漢軍のあの不穏な動きが、ただの陽動であるとは思えん」
「しかし陳泰様は城を出るなと厳命なさいましたぞ」
「されど……いってはなんだが、陳泰様はこれまで何度もあの姜維に敗れている。郭淮様や鄧艾様に助けられているばかりで、こたびの昇進も軍功ではなく、政治的なものだ。刺史は城を収める地方の役人であり、将軍ではない」
「されば……このまま城にいては、やがれ我らは敗れると?」
「分からぬ……しかしそうであるようにも思う。お前、兵を三千率いて、近くで様子を見てまいれ」
「御意!」
狄道城を夜のうちに出た偵察隊は、姜維を初めとした蜀漢軍に近づき、その動きを偵察した。
これといって何かを企む様子はなく、思いすごしでたったと分かり、明け方に撤収しようとしたその時であった。
「魏兵を捕らえよ! されど殺すな!」
夏侯覇は敵の偵察隊を捕らえた。これをすぐさま早馬で姜維に報告した夏侯覇は、姜維の返事を待たずに軍を姜維率いる本陣の方へと向けた。
姜維は合流した夏侯覇と捕虜を前面に出し、狄道の王経を揺さぶった。
王経は味方を救出すべく飛びだし、洮水の川の西岸で両軍数万は睨みあった。
姜維は川を背にして戦う王経を騎兵で翻弄して川へと押し込み、瞬く間に粉砕した。夏侯覇は開戦と同時に川を渡って東岸に兵を並べ、弓兵の矢で川に入った王経軍の退路を塞いだまま一方的に射殺。姜維と夏侯覇は阿吽の呼吸で瞬く間に敵を敗走させた。
しかし、軍がちりじりになりながらも川を渡った王経は城へ戻り、残存兵力約一万で籠城した。
歩兵が多い夏侯覇は狄道城まで到達するには時間がかかりすぎるため、追撃は諦め、騎馬兵が主体の姜維軍が安全に川を渡りきるため支援した。数万の敵兵をほとんど一瞬にして敗ったのは、諸葛亮ださえ成し遂げられない大戦果であった。勢いそのままに狄道城の包囲を開始した。
しかし城攻めが困難である両軍の側面を突くように陳泰の援軍が狄道城付近まで接近し、姜維は撤退か交戦か、決断を迫られた。
「姜維将軍、ここは一度引き、廖化、張翼両将軍と合流してから、陳泰を撃破しようではないか。王経に要衝を任せた彼奴らは大いに焦っていようぞ。そのくらい、王経軍は惨敗したのだ! ここで一度引いても、まだ勝機はある!」
「されど夏侯将軍! 我らはようやく狄道を攻略できそうなのだ。この勢いを殺したくはないのです!」
「落ち着かれよ! そなたにはほとんど無傷の軍がある。私もいて、信頼のおける廖化将軍や諫言を恐れぬ忠臣の張翼将軍もおる! 西方にはそなたに味方する異民族が居て、戦場の流れも我らに傾いている! 一体なにを焦ることがあろうか!」
逃げるにしても、戦うにしても、急いで準備をしなくてはならない。慌ただしい陣の中、馬上にて二人は叫びながら意思疎通を測っていた。
「焦ってはおりませぬぞ! せれど……されど、我らには食料の余裕がない! 我らは勝ち続けなくては、意味がないのです!」
「ならばこの夏侯覇が、飢えてでもここを守りぬこうぞ! そなたは味方を引き連れて好機を待たれい!」
「夏侯将軍! 何故そなたは蜀漢の為に戦うのか!」
「今更なにを問うておる姜維将軍!私の寝返りを恐れたか! 今、魏に私の居場所などあるはずもなかろう!」
「されどそなたに死なれては、なにも問えぬ。答えるのだ夏侯将軍! そなたは何故戦うのか! 好敵手として、そして同じ陛下に仕える臣下として、そなたをもっとよく知りたいのだ!」
夏侯覇は、事ここに及んで全てを口にした。
「私は陛下に仕える気などない。私の陛下はただ一人、魏に御座す! されど、魏は既に司馬一族の手に落ち、魏ではなくなった。私はもはや、国の宗氏でなくともよいのだ。私は、曹氏、夏侯氏が、蜀漢の天下で、名家として存続することを望むのみだ!」
「されば裏切りはないな!」
「無用ありえぬわ! 私は蜀漢の皇族にして蜀漢の車騎将軍だ! 敵は魏を騙る司馬一族と、それに靡いた全ての匹夫どもに他ならぬわ!」
夏侯覇の本心に触れた姜維は、遂に夏侯覇に包囲を託した。自らは撤退し、陳泰から逃れた。
陳泰もまた満身創痍であった。彼の軍は数こそ多く万全に見えても、若手が多く力は弱かった。加えて、狄道城ひとつの為に何十万の兵を失う訳には行かず、仮にここで陳泰が敗れることになれば西方はほとんど丸裸となり、隴西はおろか長安さえも危うくなる。
両軍は、互いの失えない駒を用いて、狄道にて衝突した。
「陳泰……貴様の首で、私は蜀漢にて英雄となろうぞ。それから全てが始まるのだ。私の活躍で蜀漢は天下を取り、地に置いた一族の名声を、天下に轟かせるのだ!」
復讐を果たしたかった劉備、諸葛亮、司馬懿、そして雌雄を決したかったかつての友郭淮さえ、既に世を去った。誰にも復讐を果たすことはできなかったが、彼の人生は事ここに至って初めて、復讐ではなく、劉氏の天下統一という覇業に向いた。
「夏侯覇ぁぁぁ! この裏切り者の匹夫めがぁぁぁ!」
陳泰もまた激怒していた。国を裏切り、仇敵に身を寄せた夏侯覇は不倶戴天の敵であった。
「落ち着いてください刺史殿!」
「やかましい鄧艾! 私はここで死んでも構わぬわ!」
「対局を忘れなさるな!」
両軍は激突し、血で血を洗う激戦が繰り広げられた。弓兵と歩兵を巧みに操る夏侯覇は、騎兵を近づけず、方陣へ突入した騎兵は重歩兵で翻弄した。一方の陳泰は冷静な鄧艾に説得されてすぐさま前線を離れ、軍の大半を失いながらも撤退した。
「夏侯覇を殺せ! 夏侯覇を殺せ! 夏侯覇を殺せ! 夏侯覇を殺せぇぇぇ! !」
陳泰の怒号は轟いた。
「将軍! 危ない! 夏侯将軍! 夏侯将軍!」
夏侯覇の胸に、どこからか飛んできた短槍が刺さった。動きが止まった所に複数の矢で射抜かれ、夏侯覇は斃れた。
「まだだ……まだまだこれから……!」
見上げた空は粉塵によって濁っていたが、その奥には太陽がひとつ、粉塵や火の粉にも隠しきれないほどの輝きで煌めいていた。喧騒が遠ざかっていき、夏侯覇はその激動の生涯に幕を降ろした。




