第三二話
費禕の死後、蜀漢内部では魏人による反乱であるという声が噴出するが、それは大きな広がりを見せないまま、消えていった。
宮中、つまり政治の世界においては黄皓の息がかかった者たちが、彼を通じて夏侯覇にとって不利となる言論が根ざすのを良しとしなかったからである。
黄皓は、蜀漢という鍋の中で、自身の躍進を否定する蓋であった費禕
を排除したことで、有頂天となった。夏侯覇の懐刀である郭循は既に亡く、この宮中で自らが最大の影響力を持つ存在として飛躍できると確信していた。
費禕亡き後、録尚書事の地位と、そのやり方を踏襲する者はいなかった。尚書令の陳祗は事実上文官の筆頭となった。だがしがらみとして残った黄皓という男の存在によって、彼はますます自由を奪われることとなった。
尚書僕射の董厥、諸葛瞻のいずれかが、すぐさま自分の役目を引き継ぐことになると、直感するほどであった。
政治的な嗅覚が鋭い諸葛瞻は、むやみやたらに陳祗と仲良くし、黄皓の赤い目に捕捉されることを警戒した。純粋で真面目な董厥との友情にヒビが入ろうとも、彼は自らが政治的に生き残ることを優先した。
「諸葛殿、我らは共に、親の七光りと陰口を叩かれながらも、こうして国にお仕えする身。今は国難ぞ。これを乗り切る為、共に尚書令をよくお支えしようぞ」
「尚書令をお支えすることだけが、国に仕えるということでも、国難を乗り切るということでもない……と、私は思うぞ董殿」
「それはどういう意味だ?」
「夏侯覇と百日間の問答を行った若き文官が居たであろう」
「あぁ……あの譙周のお弟子の」
「そうだ。かの者が私に、夏侯覇の陰謀について教えてきよった。百日間、制限のある問いで夏侯覇の降伏の真偽や目的など、様々なことを解き明かした推理力と頭脳を持つ男だ。私はその言葉を、嘘だとは思わない」
「その陰謀を陛下に奏上なさったか?」
「否。そして、今後もせぬ。私は……自らが父諸葛亮に勝る才を持つとは思わぬ。父ならば陛下に諫言し、陰謀を明らかにして、国内の心を一つにすることに骨を折ったであろう。されど……私がそれを行えば、イタズラに宮中の溝を深くし、内乱を招くやもしれぬ。私は……陛下が信任した夏侯覇を失脚させ黄皓を遠ざけろと、陛下に諫言する危険を犯したくはない……!」
黄皓と夏侯覇は、宮中で味方に着かなかった者たちに対しても、驚異として警戒され、もはや敵なしであった。
そんな中でも陳祗は宰相の役目を引き継ぐに当たって、皇帝陛下の権威を借り、黄皓を一時的に黙らせることに成功した。そうして、自身のと陛下の望みである国是、魏の討伐を全力で遂行することを全面に押し出す政策へ、方針を転換させることを表明した。
費禕が行っていた、北伐における兵数の制限を撤廃し、姜維らに活躍の機会を与えたのである。
陳祗は自らの後ろ盾である姜維、廖化の宮中における発言力を高めるため、最大限活躍の場を与えることに徹した。
「頼むぞ将軍らよ……夏侯覇を警戒しながらも、北伐を成功させてくれ……!」
これが失敗すれば自身の最期を迎えることになる。そう悟っていた彼にとってこれは、黄皓と自分のどちらが政治的影響力を失うかを決める、決戦であった。
同年 漢中
費禕暗殺という暴挙に、廖化は複雑な思いであった。政敵が排除され、味方である陳祗が宮中で事実上の最高位として文官を統率している。また暴挙を起こした郭循は魏人であり、再び魏人に対する騒動のような形で、彼らが排斥される可能性も十分にあった。
しかし、宮中には黄皓がおり、暗殺から数十日が経った現時点においても、魏人に対する騒動などの報告はなく、夏侯覇に対する召還の勅も下ってはいなかった。
「宮中は果たしてどうなるだろうか。宦官風情の黄皓が、真に全てを掌握することも……ありうるか」
姜維は軍内に費禕暗殺の情報が漏れだし、魏出身の兵に対する暴動が起きないように気を配った。その際、彼は夏侯覇が害されることを第一に警戒した。軍の指揮を執る夏侯覇が殺されるようなことがあれば、軍の権威はすぐさま失墜する。彼は軍内に不穏な動きが広がらない内に、これを好機として前進することを選んだ。
延熙十七年(西暦254年)
漢中の主力全軍を率いて、前進を行った。北伐の開始である。
無論これは、夏侯覇の賛同もあった。夏侯覇にとっても、この北伐は待ちに待った事であった。
「姜維将軍、こたびの北伐は、私の北伐における初陣である」
「無論、承知しております」
「この夏侯覇、幾度となくそなたらの北伐を防いできた身。私が蜀漢に降り陛下の信任を得たとして、将兵は果たして私の指揮を受け入れようか」
「兵は私に従います。私が、夏侯将軍に従い、心を同じくして敵と戦えと厳命すれば、皆将軍の命に従います」
「しからば、その儀、よくお願い致す。されど、この北伐軍が苦しい時、それでも将兵を励ましてここまで導いてきたのはまごうことなくそなただ。そうであろう? さればこの夏侯覇、全軍の指揮はそなたに任せたい」
「将軍として上位の夏侯将軍がおりながら、そのような命を引き受ける訳には……」
「かように申すな。私は目下の者が私の役目を担うことで失う尊厳よりも、北伐の成功の方が大事であると思っておる。一部の将兵に笑われようとも、私は自らが兵を指揮することには拘らず、ただ一将軍として、そなたの指揮下で、戦いたい」
姜維は迷った。頑なに指揮を委ねようとする夏侯覇の本心が読めなかったのだ。
夏侯覇は、降伏してから今日に至るまで、常に本心を隠していた。本当のことを話し、誠実な対応を続けているし、それは敵として戦場で干戈を交えていた頃から抱いていた夏侯覇の人物像と同じであり、彼が偽りなく魏を攻め滅ぼそうとしていることは確かである。
しかし彼の心は、未だに隠されてある。心は嘘を吐かず、行動で示した蜀漢への叛意のなさだけが全てであるかのように見せ、誤魔化している。
一体誰のため、何のために戦おうというのか──。
それが、姜維には分からなかった。
数秒の沈黙を破って、姜維は一言「御意」と告げた。彼は夏侯覇に敵愾心がないことだけを理由にし、軍命として指揮を執ることを受け入れた。




