第三一話
夏侯覇の出立前に、今後のことについて下命されていた郭循はこの日、行動を起こす前の準備に取り掛かっていた。
「鄭他よ、そなたはかつての騒動に参加せず、ただ夏侯将軍の友人ということになっている。お前が大人しくしていたことが功を奏した訳だ」
「私は確かに大人しくしていたし、それは性格故、そうなっただけだ。だがこれは、夏侯将軍による命令だ。いつか……誰かを殺めることになる故、尚書省で大人しく勤めよと」
「さすればやはり、これも夏侯将軍の考えの内か。されば、迷うことはあるまい。我らは夏侯将軍を助け、共に故郷に錦を飾るべく、戦うしかないのだ。止まる訳には参らん」
「望むところだ、郭循よ」
鄭他は夏侯覇の宮廷内の地盤形成が進む中で、明確にそれを邪魔する人物を害する為の身辺情報を調べだしていた。それは、夏侯覇と結託した宮中の蜘蛛黄皓の協力もあった。彼はかねてより、渦中の人物の死を望んでいた。
理由は夏侯覇が彼を害そうと考えた理由と全く同じ理由で、よそ者を排除するその方針が、不都合である為だ。
その動きに真っ先に気づいたのは、鄭他の上席である諸葛瞻であった。
諸葛瞻はこの頃、執拗に費禕の行動、いつ、どこにいるのかを調べようとするその動きを、すぐさま夏侯覇の陰謀に関連付けた。
諸葛瞻は、上席の陳祗へ、どのような対応をするべきか相談した。
「諸葛殿よ、そなたはまだ若いが、さすが丞相のご子息。優れた目をしておるようだ」
「陳殿。私もあなた様も、同じく侍中出身。夏侯覇の台頭には、あの蜘蛛が関わっているのではありませぬか。もしそうであるならば、この鄭他も所詮は魏人で、蜀漢へ移住し何年経とうとも、ひとたび魏の英雄か現れれば、それに靡くような性根は変わらないということでしょう」
「それは私も既に考えたのだが……それでも、尚、私は……所詮は陰謀であると考え、宮中を乱すような真似はしたくはない。侍中であったならば、そなたも分かっておろう。宮中は、戦火の絶えぬ戦場も同義ぞ。いたずらに陛下の宸襟を乱し、夏侯覇を用いるという御決断を疑いたくはない」
その言葉で、諸葛瞻は察した。彼は陳祗のもとを離れた後、一人呟いた。「絡み取られたか……蜘蛛の糸に」。
陳祗は諸葛瞻の読み通り、蜘蛛の糸に絡み取られていた。しかしそれは諸葛瞻が想像できていなかった、かねてより存在していた陳祗と蜘蛛黄皓の関係と、かつては陳祗も費禕の暗殺をやむなしと黙認した事実があった。それらは陳祗を絡めとった糸を重たい鎖と変え、もはや陳祗が黄皓から逃れることは不可能であったのだ。もし協力をしなければ、迎える最期は、出世の道を阻まれるであるとか、政治家としての生命を絶たれるという生易しい破滅ではなく、陳祗はおろか、その家族まで命さえ奪われるというものであった。
陳祗は一人、尚書令の広く整理整頓された部屋の中で、虚無感に包まれていた。
「申し訳ございません……費禕殿」
その言葉は、そのまま消えていった。
延熙十六年(西暦253年)二月
費禕は連日、新年や吉事を祝う宴を開いていた。強大な政敵となりうる夏侯覇が陛下の勅命で遠き漢中へ向かわせ、姜維と同じく中央から遠ざけた。これを祝わずには居られなかった。
「陛下はやはり、叡明であらせられる。蜀漢は、益々栄えていくであろう」
費禕は成都内での求心力を高めようと必死であった。彼には、姜維が北伐で武具兵糧を浪費し、兵として戦った民草を大勢死なせてもなお、国内で反乱が起きないよう臨機応変に動き、民草の暮らしを守り、社稷を守り、そして陛下の国を守った。
それでも尚、今は亡き丞相や先帝の意志を引き継ぎ、国力の回復を待たずに北伐を継続する姜維を支える陛下を、恨めしく思う時もあった。志の為に、ただ生きることに必死な人々を、戦火に巻き込む。それが乱世というものなれども、絶え間ない戦火の中で勝ち続けることだけが、乱世で生き残る術なのかと、費禕は疑問であった。
「録尚書事、こたびはお招きいただき、光栄の至りにございます」
「そなたは……あぁ、騎都尉郭循殿か」
「この頃は常に誰かと居られるようなので、こうしてお招きいただき、お話する機会を伺っておりました」
「それは失礼した。この頃は、前回の北伐の傷がようやく癒え、民の暮らしが安定してきた。それ故、税を元に戻そうとしておるのだが、地方官より民の反発が強まっているとの報告が多く寄せられ、難儀しておるのだ」
「録尚書事でも難儀させるとは、これは意外ですな。お手の物かと存じますが」
「さような事はない。毎度のことではあるが、それ故民も、年々いうことを聞かなくなる。民を罰して牢に入れたところで、何が手に入るというのだ……。なにが……!」
「随分、酔いが回っておられるようだ。酔い覚ましに……」
「いいや要らぬ。要らぬぞ郭循よ。それより塩だ。塩を舐めて、更に酒を呑みたいのだ」
「塩がお好きなのですか」
「私は海を知らぬ。それ故、塩を舐めて、海に想いを馳せるのだ」
「川はいずれ海に通じまする。いつかは川に乗り、海を旅されるとよろしいでしょう」
「それはきっと、楽しかろうのう。私が生きている家に、全ての川が、その先の海が、蜀漢になってくれると良いのだか……」
体を支える郭循は、費禕の腕を自らの首にかけ、費禕の耳が自らの口もとに寄った時、囁いた。
「生きていなくとも、旅はできましょう」
費禕は懐に忍ばせた短刀で費禕を刺した。腹を刺して動きを止め、よろけたところで首を刺し、声を封じて最後に、心の臓を一刺しした。郭循は走って逃亡を試みたが、宴の場は厳重に羽林の見張りが成されており、彼は自らが指揮する精兵によって囲まれ、刺殺された。




