第三十話
漢中を訪れた夏侯覇は北伐に参加し魏への侵攻を行うつもりであったが、到着したころには既に魏軍は撃退され、漢中で守りを固めている状況であった。
それを訝しむ夏侯覇は、自身を漢中に出立させる為の策略の可能性に気づいた。
「姜維よ……そなた存外、中央に関心を持っているのだな。にあっても、国の内側に想いを馳せる真の愛国心を持つ忠臣であったとは、それでこそ我が宿敵だ!」
夏侯覇は黄皓と郭循がいる限り、自らがどこにいようとも中央での居場所がなくなる可能性がないことを確信していた。
夏侯覇は、何食わぬ顔で自らを迎え入れた姜維から兵符を譲渡された。これは軍を指揮する者が手にする物であり、軍が駐屯するその地域においては君主にも等しい権力を有する代物であるが、姜維は躊躇うことなくそれを譲渡してくれたのだ。これが、ただの演出だと分かっていても、妙に胸を打たれてしまう。信用されているという気がして、少し熱くなるのだ。
だが分かっている。策を講じて出立させるなど、信用があれば決して行われないことである。それを決定するまでに、迷いは捨てているはずなのだから、ここで兵符を譲渡する際に、躊躇いなどあるはずも無い。今目の前に居る姜維や廖化が本心を隠した狼であることは、忘れてはならない。
「兵符をお受け取りください、将軍」
「立たれよ、将軍。今日よりこの車騎将軍夏侯覇が、北伐軍を預かった」
夏侯覇は姜維の礼に、礼でもって応えた。その対応は未来永劫の好敵手に対する心からの敬意であったが、それは背後に立つ廖化の表情から察するに、少なくとも廖化には異なる受け取り方をされているようであった。つまりは、本音を隠して、互いに牽制しあっていると思われている。この漢中は鴻門と同じなのだ。
「衛将軍よ、この夏侯覇、そなたらの活躍に心底驚いておる。私が到着するよりも早くに、魏軍を撃退するとは」
「何かの罠であるとは思われますか」
姜維の問いに、一瞬迷いが生じた。それは姜維らが仕掛けたものであるという挑発の意味か、あるいは、魏軍の攻撃があったという体に基く問いであるのか。姜維は下らない挑発などしないという信頼が、夏侯覇にはあった。生死と名誉を賭けて、何年も刃を交えあった者同士、妙な真似はしないという信頼が互いにあると、夏侯覇は感じていた。
「魏軍は罠を仕掛ける必要がない故、想定以上の損害を理由に退いただけであると思われる。魏は、天下一の大国。されど魏では志を同じくせぬ輩が跋扈し、兵や武具兵糧は多くとも、将や名士の心は一つではなく、もはや一つの国とは呼べぬ。自らの手柄を求めるならば、自らの命はおろか、自らの出世に響く失敗をせぬ為、早々に手を引くことは想像に難くない」
「されば、何故我らは進撃しても、勝てぬのか。魏将であった将軍に、是非ご教示いただきたい」
「魏の西方、即ち対蜀を担う軍には今、傑物が揃っておる。中でも特に恐ろしいのは、鄧艾、陳泰、郭淮である」
「鄧艾……前回の北伐は、この者さえいなければ、我らが退くことはありませなんだ。その鄧艾は何者にございますか」
「地理の計測に並々ならぬ才を持っており、それを基盤とした傭兵術で、田舎の下級官吏から大抜擢された男だ」
「かような男を抜擢するのも並の業ではありますまい」
「それを行ったのは太傅司馬懿である」
「司馬懿には、幾度も北伐を阻まれ、我ら蜀漢の者からすれば、丞相の夢を破った仇敵。実を申さば……我らは先日、陛下の使者より、そなたが百日間の問いで供述した内容について教わりましてございます」
「何故、何年も前にお伝えしたことを、今になってそなたらに伝えたのか」
夏侯覇はあえてわざとらしくその様に零した。しかし返事がなくとも、その情報を持つ優位性が失われ、軍全体に共有したほうが有益であると判断したからということは想像に難くない。理由など、当たり障りのないものであろうことは分かりきっている。
「陛下は、事実か否かの査定に、時間を割いたのと聞いております」
「鵜呑みにせず、確と精査されるは正しきことなり。して、何を聞いたのか」
「司馬懿による政変、そして鄧艾、鍾会が危険であると。我らは鄧艾について聞いたとき、やはりかと、悔しい思いにございました」
「衛将軍、そなたは陛下を憎んだか。もっと早くに教えて下されば、更なる警戒が行えたのではないか、戦に敗れず、国に報いることが相叶ったと」
「然に非ず。元より我らは持ちうる最大の力を発揮すべく、細心の注意を払い、戦に臨み、そして敗れました。敵を侮っていた訳ではありません。全ては……この姜伯約の才が足りぬ故……!」
「己を恨むな。その屈辱、戦による功で償うほかない。私は魏将であった故、魏の戦い方を熟知しておる。共に憎き司馬懿、魏に巣食う奸賊を滅ぼし、天下に正義を示そうぞ!」
その言葉に嘘はなかった。流石の廖化も、その気迫に嘘がないことを嗅ぎ分けていた。疑り深い者であることは、何ら悪しきことではない。悪しきこととは、正義を見抜けず、疑い続けることである。
廖化は悪しき男でないと分かり、夏侯覇は安堵した。もし軍の中枢にその様な者がいれば、軍を騙すことかできないからである──。




