第二九話
陳祗は成都で一人安堵した。魏軍の攻撃により北伐を早めることが決まり、姜維は漢中を出て隴西の異民族に協力を仰ぐため、車騎将軍夏侯覇に漢中軍の指揮を求めたのである。
陛下は勅命で夏侯覇に出立を命じ、夏侯覇は数日以内に出立した。
陳祗はようやく生きた心地がした。しかし夏侯覇が居なくなろうとも、この宮中にいる誰がその手先か分からない。夏侯覇には宮中の蜘蛛黄皓という強い味方が居て、この黄皓は陛下が信頼する友である為、それを排除することはできない。
陳祗には分かっている。宦官黄皓を排除しても意味がないのだ。彼の味方は、彼を信じているのではなく、陛下の政や宮中内の派閥争いに敗れ更なる立身出世を望めなくなった者達が彼を筆頭として、互いの利益の為に蠢いているに過ぎない。彼が居なくなれば、離散して陳祗の命を狙う者が居なくなるかもしれない。だがもしそうならなければ、陛下に裁かれるか、離散せず彼の後釜を狙う者が、陳祗の命を狙うかもしれない。
逃れるしかない。怯えるしかない。だが、逃げたくない。怯えたくない。
黄皓のような宦官を陛下のもとから遠ざければ、あとは廖化や姜維が、危険な夏侯覇を北伐で使い果たしてくれるであろう。
文での返事がなくとも、陳祗は廖化が自らの仲間となってくれたことを確信していた。
「黄皓を……殺すしかないか。しかし……私は……!」
陳祗はかつて黄皓と共に費禕を殺そうとした。それなのに今は、黄皓を殺そうとしている。自身の節操のなさに嫌気がさした。
その日の夜、陳祗の屋敷を訪ねる人がいた。それは費禕であった。
「奉宗よ、この頃はよく眠れていないのであろう。目の隈が濃いぞ」
「どうかお気になさらず、録尚書事。私のような凡才では、呂乂殿のように上手く仕事をこなせず、眠る時間が少なくなるばから故です」
「それは虚言であるな。そなたはよく仕事をこなしている。なんの滞りもなくな」
費禕はそういうと笑った。酒を呷る姿は、髭がなくとも、普段の厳格な費禕そのものであった。絹の漢服を纏い、髪を解き、髭も整えられずに垂れている。いつも見慣れた姿ではないが、その目や声、振る舞いは、蜀漢の文官筆頭にして臣下筆頭、皇帝陛下のため蜀漢をまとめあげる録尚書事費禕そのものであった。
「そなたは私の言葉をよく聞き、尚書省に在るときはいつも髭を整え、身振り手振りを小さくし、厳粛な態度を心がけておる。それで下の者は安心するのだ」
「録尚書事に教わったことは、大事にしております。畑違いのこの表舞台で、私を導いて下さるのはあなた様です」
「そう畏まる必要はないぞ奉宗よ。私もそなたも、位に違いはあれど、同じ蜀漢の臣下ぞ。そなたは私の進言で国に仕えることとなった故、人一倍敬意を払ってくれているのだろう」
「はい……私はあなた様と出会ったことで、陛下にお仕えすることができました……!」
「そなたはその時の印象が強いのだろう。私もそなたと同じく、髭を整え、厳粛な姿を装っておるに過ぎぬ。私の本性は、よくそなたにも忠告されるが、側に人を侍らせ、誰彼かまわず話し込んでしまう。そうして人と話すのがどうも辞められぬ。張嶷将軍にもこの頃、その博愛の気性を改めるようにと忠告されたのだぞ」
費禕は自嘲するように呆れ笑いをし、酒を呷った。いたたまれなくなった陳祗は、酒を置いた。目を赤くし、訴えた。
「録尚書事、どうか周りに置く人間は選んで下さい。何卒、何卒……!」
「どうしたのだ奉宗……突然声を荒らげて」
「どうかよくお聞きください。あなた様は敵が多い。出身で人を選び……宦官を嫌っております。あなた様のお命を狙う者がいるのです……!」
「そうであろう。私を恨む者は多い。されどそれは、私に限ったことではあるまい。人の上に立つならば、人に嫌がられる決断をせねばなるまい。恨みを買い、目立つ立場故想定しておらぬ敵も出てくる。私はそれでも、陛下の為、先帝の為、そして亡き丞相の為、私は戦うと決めたのだ」
「録尚書事……!」
いえなかった。その一人が自分であったなどと、口が裂けてもいえなかった。自分の卑劣さに嫌気がさして仕方がない。不意に涙がこぼれたが、費禕は何を察してか暗い顔をして黙り込んだ。
沈黙を破ったのは費禕であった。
「酒が回ったな。今日はおいとま致そう」
陳祗は黙ったまま召使を呼び、見送りをさせた。
同年
尚書省にて陳寿は、事件の記録を読みふける日々を続けていた。そして陳寿は遂に気づいた。
「騎都尉郭循が、休暇を得る前日の夜から、当日の夜明け前までに殺人が起きている。そして……殺された人物は皆一様に、魏人を嫌っていて……殺害される直前に郭循と揉めている。あぁやはり、郭循が下手人か」
事件の真相に気づいた陳寿は、この事実を根拠として、騎都尉郭循を追放しようと陳寿は思い至った。
数日後、蜀郡太守に陳情するも、返事が返ってくることはなかった。その意味が分からなかった陳寿は、上司の王崇に相談するも、その反応は渋いものだった。
「正しいことが通用するのではないんだぞ陳寿。世の中そういうものだ。優秀で、その能力を必要とされる者のため、正義はいとも簡単に歪められるものだ」
「どういうことですか……?」
「郭循は前線での実戦経験があり、夏侯覇と共に、一昨年前の騒動を鎮圧した功績がある。陛下にも一目置かれている二人を、引き下ろすようなことはない。それが例え、本当に騒動を裏で糸引いた黒幕であったのだとしてもだ。死んだ人間の数はたかが数百人であるし、騒動を起こしたのは、蜀漢生まれの蜀漢人であるしな」
「罪人を裁かないことが……まかり通るのですか!」
「今は北伐が再開され、夏侯覇将軍が漢中へ出立したばかりだ。お前の話の通り郭循が捕縛され牢に繋がれた後、黒幕の夏侯覇にも捕縛の命が出る。国威に関わる大事を、数百人の犠牲者のために行うはずがない」
陳寿は憤激した。無垢な民草よりも、戦が大事なのだ。陳寿は王崇から尚書令に具申してもらうのを諦めた。
帰宅しようとしたその時、陳寿はとある人物に出会した。
それは、尚書令の副官である尚書僕射にして、誰からも敬愛される丞相の息子である諸葛瞻であった。
名声抜群にして容姿端麗な彼に出会えた陳寿は、これが運命であるように思えた。
「尚書僕射! お待ちくだされ。私は観閣令史陳寿と申します。師は譙周です!」
「なんだ、どこぞの下郎かと思うたが、夏侯覇将軍と百日間の問いを行っていた男か。私を呼び止めるとは、いかなる存念か」
「わ、私は申したき儀があり、呼び止めてしまいました。無礼をお赦し下さりませ」
「早う申せ」
「私は……一昨年前に成都で起きた騒動の黒幕を突き止めましてございます。それをお伝えし、是非とも尚書令にお話いただき、陛下へ奏上いただきたいのです」
「ほう……して、その黒幕とは誰だ」
「騎都尉郭循、車騎将軍夏侯覇です。事件の数日前から連続して起きた羽林精兵の不審死は郭循によるもので、それは全て夏侯覇による指示です。夏侯覇による指示で魏人嫌いの兵士が騒動を起こし、鎮圧された。全ては夏侯覇による陰謀だったのです」
「概ねそんなところであろうな。それくらい、よく調べずとも察しがつくわ。よく調べたことは褒めて遣わす。以上だ」
「尚書令にお伝え頂けま……」
「せぬわ。察しの悪い男だ。国家の大事に繋がる内容故、私の心の内に留めておく。二度と、私を呼び止めるような無礼は致すな。分かったな!」
諸葛瞻は傲慢不遜な男であった。見た目と、父の七光りで得た名声を笠にして威張り散らすだけの男であった。
蜀漢は歪つであると、陳寿は一人涙した。その涙は、確かに彼の心から、揺れ動いていた忠義心をへし折った。




