第二八話
延熙十五年(西暦252年)
漢中に駐屯する廖化は、時おり送られてくる成都の陳祗からの密書に目をやり、今成都は夏侯覇によって脅かされていることを察知した。検閲されては困るため、返書を送ることはなかった。だが、こうしてたびたび密書が送られてくることこそ、陳祗が今も助けを求める状態、つまり、夏侯覇の魔の手が喉元まで迫っている訳ではないことが察せられる。
廖化は、夏侯覇を成都から離すことが、何より最善の一手であると考えていた。というのも彼は奇しくも陳寿と同じく、魏の降将である騎都尉郭循による迅速な鎮圧と、その後の夏侯覇の車騎将軍への大抜擢には関連があると考えていたからであり、未だに夏侯覇が漢中まで上ってこないことにも苛立ちと違和感を抱いていたのだ。
姜維の幕舎を訪ねた廖化は、酒を飲む友がここにはいないことを寂しく思っているであろう姜維に魏の酒を渡した。
「何人かの将兵が、北伐の後も降伏してきています。将軍の故郷の味も、ここにあるのではないですか」
「天水の酒か。味も覚えていない。家族と囲った食卓の味も、聴いた音楽さえもな。私は蜀漢の為戦場を駆け回る日々で、過去のことは何もかもを忘れてしまったのだ」
「ならば魏を滅ぼし、これから奪う隴西の酒を、故郷の味となさってください」
姜維は側近を呼び、肴と器を持ってこさせた。
「元倹よ、そなたの好意に感謝し、頂こう」
「共に頂きまする」
二人は酒を呷り、まだ冷える漢中の中で、体が温まるまで何度も酒を器へ注いでは、呷った。
すると姜維は突然、浅い溜め息をついた。そしておもむろに廖化を指さした。
「元倹よ、話があるなら早く申さぬか。さしずめ夏侯覇、あるいは尚書令陳祗のことであろう」
「ご明察にございます」
「そなたが密書を得ていることは知っておる。あれは密書を装って、あえて私の目に触れるように受け取っているな。妙な演技をしよって」
「そこまでしなくては……将軍の注意を引けぬのではと思い、一計を案じたのです」
「まんまとこの私は罠にハマった訳だ。申せ、そなたはいかなる様にしたいのだ」
「夏侯覇をなんとしてでも成都から離したいのです。その為には、間もなく開戦すると思わせる必要があります。我らは偵察の数を増やして、攻撃を仕掛けようとしているのだと装うのです。そうすれば、敵は少数で威力偵察を行い、我らを揺さぶりまする。我らはその事実でもって、北伐開始が不可逆的であることを示し、夏侯覇めをこの前線まで引っ張り出すのです」
「よく考えたな」
「宜しいですかな」
「敵が総攻撃に出てきたら、我らはそれに抗うことが難しい。夏侯覇の為に、漢中全域を失う危険な策を用いるのか。夏侯覇は本当に、成都に置いていてはならぬほどの男なのか」
「我らは宮中に味方がおりませぬ。陳祗殿のお命が奪われることになれば、もはや宮中は夏侯覇の手に落ちます。奴を漢中まで引きづり出し、陳祗殿に、黄皓や闇に潜むその一派を抑えてもらうのです!」
「録尚書事はどう動くであろうか。我々が尚書令を味方に付けたところで、結局は録尚書事が北伐に制限をかけ、状況は好転も悪化もせぬであろうぞ。危険を犯す割には、見返りが少ないとは思わぬか」
「陳祗殿を見殺しになさるのですか!」
「落ち着け元倹よ。そなたは、夏侯覇の車騎将軍任命と、郭循による成都の騒動鎮圧に関係があると考えておるようだが、そこに確証はない。陛下が勅にて述べられた任命理由には、夏侯覇の騒動鎮圧の功が含まれていたが……それは表向きのもので、本当の目的は、魏の政情不安を煽るためであったやもしれぬぞ。理由など、なんでも良かったということだ。夏侯覇の陰謀など、全てはそなたの思い過ごしということも有り得るではないか」
「しかし、もしもということがありまするぞ。もし仮に陳祗殿が殺されたならば、録尚書事殿は恐れをなして政界を退くやも。あるいは……失脚。そうして万が一にも夏侯覇が政界を掌握してしまったならば、我々は賊を除く為、蜀漢の都まで兵を進めなくてはならなくなりまするぞ。あるいは夏侯覇は我々の謀反をでっちあげ、それを理由に録尚書事が我々の兵権を更に制限したならば、それを好機と見た魏が一気に我らを攻めてくることも……ありえまするぞ……!」
姜維は逡巡した。廖化のいう通り夏侯覇が兵を用いずに政界を掌握することになれば、謀反の嫌疑をかけられ、成都への帰還命令が下される恐れがある。それがもし、北伐の好機であったなら──。
かつて諸葛丞相も、大権を有して北伐に臨んだ折り、足を引っ張りたかった臣下が謀反をでっちあげ、釈明の為に成都へ戻って好機を逃したことがあった。夏侯覇がそれを再現し、妨害を行う可能性は十分にあった。
夏侯覇の望みはなにか。本当に蜀漢の為に戦うなど、考えられない。姜維は夏侯覇のことを高潔な人物であると考えていた。彼を純粋な敵とは思っていないが、同時に、蜀漢の臣下として生きる覚悟を決めた味方であるとも思ってはいなかった。
比較的、立場が弱い陳祗が利用された後に殺されるという流れを前提とした話をしているが、もし直接的に費禕が暗殺され、その隙を狙って、陛下の信任を一手に担う男が政権を事実上の掌握をしてしまうことさえ有り得る。
そうそれはつまり、夏侯覇を後ろ盾にした黄皓によってである。
「なんにせよ、夏侯覇を漢中へ引っ張り出す他ないか」
「ならば、先程の我が献策を……」
「それはならぬ。危険は犯さぬ」
「ならば、どのようになさるのですか?」
「よいか元倹、敵を巻き込まずとも、危機を演じることはできようぞ」




