第二七話
陳寿が目を覚ますと、そこは自室であった。妙に体の節々が痛く、気だるい。
「おい李密、また五十日寝たのか、俺」
「一晩ぐっすりってところだな。竹簡に囲まれて眠れて良かったな」
「嬉しくはねぇ。なんでこんなに倒れるまで……」
「そりゃこっちがいいてぇよ。とにかく寝てろよ」
「ダメだダメだ。俺にはやらなくちゃならねぇ事があるんだ」
「女の家でも調べてるのか?」
「そんなんじゃねえ」
「じゃあ殿方か」
「俺は……殺人の下手人を探してるんだ。一昨年前、騒動の直前に起きた連続不審死の下手人だ」
「蜀郡太守の官吏にでも転属したいのか? 手柄を立てたら登用して貰えやすくはなるし」
「違うさ。俺はつまらない死に方をした兵士が不憫でならないだけだ」
「嘘だな。お前はまだ夏侯覇に囚われてるんだろう。つまらない死に方かどうかなんて関係ねぇ、お前はただ、夏侯覇に勝ちたいんだろう。まだ問い続けているんだ。お前は俺に勝てると思っているのかってな」
「さすがだな令伯……その通りだ。名推理だ。お前のその頭があれば、俺は勝てるんだろうが、あいにく俺には才能がないようだ。何年経っても未だ、下手人のしっぽを掴めない」
「昨日、令則と会ったんだが、こういってたよ。お前は溜め込んだ熱意の注ぎ先をようやく見つけたんだってな。俺には、お前が偉丈夫になる姿が見えるぜ」
「どういう意味だよ」
「いいか承祚。お前の才能は、令則や師匠までもが認めていたんだ。だからお前が、夏侯覇のもとで問いをする文官に選ばらたんだ。だがな……その才能は国や師匠のために使うべきじゃないのか? 夏侯覇に、歪められる必要はない」
「歪められてなんかないさ。俺は今まで、今感じているほどの熱量を感じたことはなかったんだ。夏侯覇が俺を目覚めさせた。それだけだ」
「俺にはまるで分からないな……どうして、どうして下手人探しに目覚める必要があるんだ」
「善悪を知りたいと思ったんだ。荀子はかつて、人の理性が悪を作り出したといっていた。俺の善悪、特に悪は、確かにそうだったかもしれないと思ったんだ」
陳寿の胸の内にはある思いがあった。本当に魏人は悪で、蜀漢人は正義なのだろうか──。
夏侯覇の言葉が脳裏に過ぎるのだ。彼がいっていた、蜀漢の侵略によって死んだ無垢な魏人もいるというような言葉は、あの騒動以降、彼の中で無視できないほど大きな違和感として閊えていた。
蜀漢人が、魏から移住してきただけの無害な人々を、怒りのままに殺した。
蜀漢という国、もっと限定的にすれば先帝や丞相が、魏を悪と見なしたが為に、魏は悪となったのではないか。
陳寿は未だ、自らが正義に立つ気持ちでいた。だが、蜀漢人であるという理性が、存在しない悪をその心の内に作り出し、この成都の惨劇に繋がったのではないかという疑念を、払いたくて仕方がなかった。曇天が目の前を塞ぎ、頭を痛くするように、この疑念が消え去らなくては二度と、心の底から笑えないような気がしたのだ。
「令伯。俺は師匠の弟子だなって強く思うよ。儒学者でありながら、儒学の定義を否定し、ただ学問と自然の中に正しさを見出そうとするその姿勢は、俺の中で育っているようだ」
李密は自分が見えない光景を見る陳寿を、少し妬ましく思った。陳寿の目が光を帯びて、真っ直ぐであったからだ。迷いを捨てたなら、その熱量は果てしなく人を前進させるような気がして、狂ってしまいそうな妬みを、瞬間的に感じてしまった。
「なぁ令伯、お前はずっと昔から、人想いな奴だったよな。俺を何度も看病してくれるのだってそうだ。こんなこと、お前に任せられた義理ではないだろう」
「どうだかな、俺は生まれた時既に両親が他界してたから、無償の愛情なんて知らねぇ。育ててもらうには、守ってもらうには、できることをやるしかなかった。お前が俺に、助けてやる価値がある男だと思わせた。あの頃の祖父母と同じ気持ちにさせられたなら、あの頃の祖父母が俺にしてくれたように、お前を助けてやるしかないだろうよ」
「お前、いい意味で、師匠の弟子らしくないな」
「俺にとっては……悪い意味だ」
それから李密は、閉口しきった。李密は実の両親の顔も知らなかった。その劣等感は強い忠孝の心を持つことで生きていられるほど強烈なものであったが、それが為に、親のように慕う師匠の特質を継承していないというのは、彼を虚ろの闇に突き落としかねない悲劇であった。
少しでも自分が、師匠に目をかけられていたならば、ここまで心に重りをつけたような不快感はなかったであろうが、自分は平凡以上才人以下の、ただの書生であることをまざまざと見せつけられ、口を開く気にもなれなかった。
爽やかな顔をしていた。あくまで李密は、そういう顔をしているつもりであった。少なくとも李密はそうして心を離れた顔を作りながら、胸の内で密かにやるせない気持ちに沈んでいた。
同年 宮廷
陳祗は深い溜め息を吐いた。握槊という盤上の遊びに金を賭けたが、一向に勝てそうになく、鬱憤を晴らしに来たというのに溜め息ばかりが増えてしまっていた。
「悪辣な男だ。どんな裏があるのだ。申せ、この慮外者!」
陳祗は賭けの相手を罵り、殴りかかる寸前であった。賭けの相手は、自身の食客である游侠の男であったのだが、見窄らしい格好の男のその腕っ節に惚れて助けてやった当時の気持ちはとうになくなり、無頼漢らしく粗野で不潔なその風体を煙たがるようになった今は、感情のままに罵り、暴言を吐くことが増えていた。簡単にいえば、目に映るだけで神経を逆撫でするその男が、嫌いなのである。
陳祗がそんな有様であるという噂話を聞いた譙周は、それを諌めた。
「食客を虐めるなど、君子の成すことにあらず。そもそも古の名士の真似をし食客を囲う必要などない」という真っ当な指摘に、陳祗は反省の意を見せることはなかった。
陳祗は怯えていた。一体どこから、屋敷の中でしか行わないそんな振る舞いが漏れたのだろうか──?
誰かが、譙周に漏らしたのだ。誰だ。いいやそれは重要ではない。本当に譙周の耳に直接届いたのか。そうであればまだ良い。だが譙周さえ、誰かから又聞きしていたのだとしたら──黄皓の魔の手が、屋敷の中にまで届いているということになる。
陳祗は黄皓の背後に隠れる夏侯覇の影に怯えていた。費禕は守ってくれるだろうか、孤立しつつある彼に、自分を守る力などあるのだろうか。
黄皓の魔の手から逃れる為ならば、形振り構っている場合ではない。
姜維を頼るべきであると考えた陳祗は、黄皓にも悟られないよう間者を使って、軍の廖化へ書状を送った。




