第二五話
朝議に参内した夏侯覇は、大勢の臣下が見守る中で陛下に拝謁した。
「降将、夏侯覇が皇帝陛下に拝謁致します。皇帝陛下、万歳万歳万々歳」
「楽にせよ」
「感謝致します」
冕冠から覗く陛下の目は鋭かったが、どこか穏やかで、どことなく慣れない雰囲気を漂わせていた。それは勿論、こうした朝議に出席することではなく、自分の様な大物を文武百官の前で見事に御してみせるという、いかにも皇帝らしい役割を演じることに対してであろう。
神罰をも恐れずこうして蜀漢へ逃れてきた以上、この陛下が凡君であったとして、逆に御してしまうような愚かな真似はしない。何もかもを奪われ、何もかもを失った男に、もはや恐れるものなどない。あるとするならばそれは、復讐の機会をみすみす失うことである。相手は決まっている。それは司馬一族に他ならない。
生涯を賭けて滅ぼすことを誓った蜀漢で殺されずにいる今、目の前に凡庸な皇帝が居ても、その胸元に刃を突き立てる様な衝動は抑えなくてはならないのだ。
「長らく、我が臣下の文官と戯れていたようだが、遊びは終わったか」
「陛下には我が要望を容れていただき、心より御礼申し上げまする。蜀漢は人材に乏しいと聞き及んでおりましたが、あのような末端の臣下にさえ、恐怖に屈せぬ胆力と愛国心を持つ者が居ようとは、お見逸れ致しました。始めは遊びのつもりではございましたが、あの百日間で私は、我が生涯で唯一無二の宝を、手に入れることとなりました」
「それはなんであろうか。朕に申してみよ」
「目にございます。私でもなく、陛下でも、無論、司馬懿でもない。第三の目が、この天下を争う全ての者の志と野望を、正しく歴史としてくれます」
「そなたがこの国へ参った理由は、この国を乱すことではないですね。朕は今、確信致しました」
劉禅はそう言うとほとんど聞こえないような、小さな声で笑い、玉座の背もたれにどっとよりかかった。小さく白い顔は、黒い巨体の夏侯覇を見て、また笑顔になった。
「そなたは、司馬懿に復讐をし、魏から彼らの居場所を奪いたい。先祖の墓をも暴き、彼らを殷の紂王や新の王莽の如き極悪人として未来永劫、万民から謗りを受けて欲しいのでろう。違いますか」
「ご明察にございます、陛下」
「ならばその夢、朕の軍と共に追いかけよ。今、天下は三分し、民は疲弊しています。いずれの国も内憂外患を抱え、春秋戦国のように数百年の戦を行うような時代となるやもしれません。朕はそれを望まぬ。朕はなにより、天下万民の安寧を夢見ておる。戦を終わらせるため、無用な戦を起こす大逆の徒を成敗するのです」
劉禅は立ち上がった。周囲に緊張が走った。
「勅命じゃ、読み上げよ」
宦官が勅書を手に取り、甲高い伸びやかな調子で、読み上げた。
「降将夏侯覇を成都の反乱鎮圧の功で車騎将軍に任命し、衛将軍姜維と共に北伐を敢行し、魏を攻略せよ」
「慎んで、拝命いたします。皇帝陛下、万歳万歳万々歳……!」
車騎将軍とは高位の将軍号であり、位のみでいえば大将軍費禕に次いで高く、実質的に軍を掌握している衛将軍姜維を凌ぐ位である。北伐を敢行せよと命じられたことは実質的に、蜀漢軍を姜維と共に指揮することを命じられたということである。
魏では、敬愛する張郃が任命されていた位を、因縁ある蜀漢で拝命した夏侯覇。魏へ侵攻し、蜀漢の名の下に天下を平定し、その宗室には夏侯氏の血を、そして軍には名門として夏侯氏を。
夏侯覇の新しい道が開けたその時、蜀漢には悪い報せがもたらされた。
北伐軍が敗北し、軍が漢中へ退いたのだ。成都へ帰還した姜維を出迎えた周囲の目は冷ややかであった。また敗れた。また。また──。
もっとも顕著なのは録尚書事費禕である。小国の蜀漢の寿命を縮めている無謀な北伐は、蜀漢の存続を第一に図る費禕にとって、もはや姜維の乱心の末の暴挙にすら見えていた。
「英雄殿のご帰還だな。姜維将軍、戦果をお聞かせ願おうか」
「これはこれは大将軍殿。戦果は……ごさらん」
「もはや言い訳もやめたか」
「一度たりとも言い訳などしたことはない。敗軍の将、兵を語らずだ」
「ならば陛下になんと赦しを乞うのだ。なんと申し開きし、若者を大勢殺した罪を償うのだ!」
「蜀漢はまだ戦える。罪は、功績で償う他あるまい。もはやこの首で償えるほどの罪ではない故、陛下にはそのように申し開きする」
「諸葛丞相ですら成せなかった大業を、私とそなたで成せると思うのか」
「出て活路を見出さん。それだけだ」
「伯約よ、富国強兵に務める時だ。我らが出兵を控えていたならば、魏の政変で揺れる今、我らは大軍でもって魏を攻め、隴西を奪い、長安さえ陥せたやもしれんのだぞ」
「さりとて、魏の政変を待っていれば、既に蜀漢は攻め滅ぼされておったやもしれぬ。偶然を頼っていては、大業など成せぬ!」
「伯約! 考えてもみよ。我らは小国ぞ。勝利は、天の時、地の利、人の和が揃って初めて手に入るものだ。魏は今ようやく、その全てを失っておるのだ。天が与えし好機を、そなたの連続した無謀なる侵攻により、みすみす逃したのだぞ!」
「無礼を承知で申し上げる。我らには十分な武具も兵糧もあった。そなたが出兵する兵の数に制限をかけてさえいなければ、漢中の守備兵を引き連れ、大軍勢で総攻撃に出られたのだ。さすれば我らは、天の時、地の利、人の和を得て、そなたが申す通り長安さえ攻め落とせたやもしれぬ。人の和を乱しておるのは、蜀漢の国是たる北伐を阻害する、そなたのみだ!」
費禕と姜維はもはや犬猿の仲となった。費禕は個人的な恨みにも似た感情を抱き、姜維の功績を邪魔するために、北伐に反対するという姿勢を貫くことを決意した。
それは夏侯覇にとっても好ましくない状況であったが、姜維ほど実直でもなければ、費禕ほど感情的ではない彼は、良い塩梅の抜け道をすぐに見つけ出した。
それは侍中の陳祗であった。
黄皓と仲違いをしていた陳祗と、夏侯覇は接点を持つべきではなかった。しかしこうして自らの地位が高まり、北伐に破れはしたものの陛下の勅命で次なる北伐が約束されている今、費禕は更に孤立していく立場にある。費禕はきっと陳祗を頼るに違いないと踏んだ夏侯覇は、彼を使って、費禕に近づこうと考えた。
政界にも手を伸ばし、夏侯覇は内側から、邪魔者の排除に動こうとしていた。




