第二三話
百日目、目を覚ました陳寿は、冬の寒さなど気にならなかった。飛び起きて戸を開けた。外は珍しく雪が振り、子供ははしゃぎ、街を駆け回っていた。
「何も起きなかった……のか。なにも……?」
登城し、いつもの通り尚書省へ向かった。城の中も特に変わりはなく、そこには皆が揃っていた。李密は涙を流しながら欠伸をし、慣れた手つきで墨を解いていた。
横に机を並べ、墨を解いた。竹簡を広げるあいだも、本当にこのまま日常が続くのかと不安になって、周囲を見渡してしまった。そのまま竹簡を広げ、仕事を終えればまた、昼頃に小屋へ向かう。百日経っても無愛想な兵士を一瞥し、扉を開けると、そこにはこれまでと変わりのない夏侯覇の姿があった。
「早う入って座らぬか、文官よ」
「昨日の話はなんだったのだ。なにも起こってはいないではないか」
「一つ目の問いか。答えは、その通りだ。しかし、今日はまだ日も登りきっておらぬ。だが……もうじきだ」
「お前は司馬懿や司馬師のごとき外道ではあるまい。しかし蜀漢に帰順しながらも心は魏にあるとも語る。分からない……私に真実を記させて、いったいなにがしたいのか。私を殺す気はないのだろう。そこで二つ目だ」
「つまらぬことを問うならば容赦なく殺す。魏から蜀へ参った者の中には、文官もおるのだぞ」
「だとしても問わせてもらおう。今日、物好きな友から与太話を聞かされた。この頃……成都の兵が謎の失踪を遂げているそうではないか。蜀漢に来てから、何人殺すように指示を出した。申せ」
夏侯覇は表情を全く変えず、陳寿を凝視した。退屈、という言葉がよく似合う顔であった。
「今更とは、呆れてしまう。それを問わぬ故、不思議と思っておったが……今日に至るまで聞いてもおらなんだとはな。たかが数人だ」
陳寿はまだ、夏侯覇が今日なにを企んでいるのか、掴んではいなかった。止めたいという気持ちもあるが、降将達に勝てないという気持ちが心の中に煙のように充満し、燻された勇気は形を変えて、それを寸分の狂いなく見届けて記すことで、その悪事を後世に残そうという気持ちに変わっていった。
「俺は儒学者の弟子だ。多くの書簡、竹簡を読み、その意味を教わってきた。詩は嘘を吐くが、詩の如き甘美さがなければ、人は興味を持ちはしない。俺は戦を知らない……捨てられた骸を知らない……その惨たらしさや冷たさを知らない。今日の出来事を、受け止めきれるだろうか……?」
「三つ目の問いは実に良い。一つ一つを噛み締めるほど、この小屋の中での出来事に甘美さはなかったであろうが、そなたのその問いには、百日と名声、命をも捧げた覚悟の重みが感じられる。よいか文官よ、余計なことに悩むでない。目に映り、記憶に残ったそれのみが真実ぞ」
その時であった。窓の外で、鳥たちが一斉に羽ばたいた。耳をすませば、怒号や悲鳴が響いていた。宮殿の外で、遂に始まったのだ。魏の降将による変事である。
「俺はなにもできない……なにも見えない。なにをしたんだ……夏侯覇!」
「四つ目か。戦を始めるのは、外敵ばかりではないぞ。内なる敵はいつも、この夏侯覇の中にも、武器を持たぬそなたのごとき文官の中にも潜んでおる」
「意味がわからんぞ! 問いに答えろ! お前の命令で、成都で人を殺しているのか!」
「五つ目。私の命令ではない。殺しておるのは、蜀兵じゃ。蜀兵が、魏から降伏し帰順した兵を見下げ、罵倒し、遂に殺しはじめたのだ。私はただ、不満の種を煽ったに過ぎぬわ」
火の手が上がり、成都は瞬く間に蹂躙された。しかしそれは魏兵によるものではない。蜀漢兵が行っているのだ──。
陳寿はようやく気づいた。大規模訓練で外に出された兵は選別された兵であり、それは能力の優劣ではなく、出身で人を差別しない蜀漢兵であったのだ。
蜀漢にて生まれ、北伐の際に降伏し移住してきた魏人を、蜀漢人が恨みのはけ口として殺すように、夏侯覇が仕向けた。それが、この百日目に起こる変事の正体であった。
「哀れよのう……諸葛亮により故郷を蹂躙され、洛陽から離れた西方であるからと味方からも見放され、やむなく蜀へ移住した無辜の民たちは、蜀でまるで親の仇であるかのように恨まれ、煙たがられ、やがて命まで奪われるのだ。これがそなたら蜀の正義か、これが天下を安んじる王道と、呼べるのか?」
「それはお前が仕向けたことであると、自白したではないか!」
「私は煽ったと申したまで。いつかは必ず起きたことであるぞ文官。戦で味方に背を預けられぬとあらば、何も成せぬからな」
夏侯覇の言葉で、この惨劇を起こした理由がようやくわかった。蜀漢で将軍として取り立てられた後、自らが率いる兵が謀反を起こさないようにする為だ。それだけの為に、成都の無辜の民を殺しても構わない。それが夏侯覇、将軍、戦に生きる者なのだ。
「魏兵が皆殺しにされるぞ。助けに行かぬのか」
「六つ目か。私は行かぬ。鎮まった後に、迎えにくるのだ。煽り、鎮め、迎えに来る。有能な我が仲間がな」
「郭循……お前の駒か」
陳寿は遠く宮殿の外から響いてくる騒がしい悲鳴と、漂ってくる煙の匂いに、涙を流すほど心を乱された。人の姿など、目に見えはしない。だがゆらめく炎の下では、何百という人が傷つけられている。それは街の人である。蜀で生まれ、ただ成都に住んでいるだけの人と、魏で生まれ、連れて来られただけの人である。
しばらく経つと、やがて喧騒は静まった。日が傾き始めていた。
「来たようだ」
夏侯覇の言葉で我に返った陳寿は涙を拭い、扉を見た。開かれた扉の先に立っていた血まみれの男は、夏侯覇に拱手をした。
「よくやった郭循。それでこそ魏の忠臣である」
郭循は一言も発することなく、深々と頭を下げた。
去ろうとする夏侯覇に陳寿は問うた。
「俺は真実を記す。よいな」
「そうせい、私も魏人として、己が道を行く。文官陳寿よ、そなたは見事百日の問いでこの私を唸らせた。これにて100日間の問いを終える」
それが、二人の交わした最後の会話であった。




