第二二話
陳寿はふと小屋の窓から外を眺めた。問いの日々を振り返れば、既に九十九日目となっていた。今日と明日でこの日々も終わりであることを思えば、少しは感慨深い気持ちにもなる。長いようにも短いようにも感じるのだが、命の危険を感じた瞬間と、夏侯覇が文官である自分を呼び寄せ、夢解きや問いを用いてまで魏の内情を教えようとしたその心情を思えば、複雑な気持ちになるのは致し方ないであろう。
「夏侯覇よ、お前は以前、こう申していたな。自分はすでに、陛下に気に入られていると。ならば問うが、陛下の好きな果実はなんだ」
「一つ目は穏やかな始まりだな文官よ。この数日、私の魏での不穏な日々を語るばかりであった故、これはそなたの思いやりと思おう。あるいは……陛下の果実の好みを知るそなたは、この問いで真に私が陛下に気に入られているのかを知ろうという策なのか。……陛下の好みは柑橘の飴だ」
「深読みをするな夏侯覇よ。私は簡単な問いをしただけだ」
「もう私から聞くことはないと申すか。それも良かろう。万、そなたに委ねようぞ」
「そうか。そういえば俺は昨晩夢を見たのだが、語らせてもらおう。白金の馬がその厩で眠る時、桃園の子はその頭を撫で、玄い海を眺める。魏の降将よ、この夢の意味を……どのように考えるか」
「知らぬ。しかしそなた、人の夢に似ておるとは、全くつまらぬものだ」
「三つ目の問いも続けよう。俺はこの夢の意味を、こう解く。魏の降将は皇帝陛下に飼い慣らされ、北伐に用いられる。どうだ、この未来は不服か?」
「そなたは如何にしてそう解いたのであろうか」
「白金の馬は司馬錯。司馬錯は春秋の巴蜀を滅ぼした男で、この蜀漢を狙う魏の降将であろう。桃園の子は桃園の三兄弟の長兄たる先帝の子、つまり陛下であり、頭を撫でられるとはつまり、白金の馬を手懐けるということ。それから、玄は北を表すから、魏の降将は北伐にて戦わされるということだ」
「天帝はつまらぬ夢を見せたものだな文官よ。三つ目の問いに答えよう。私はその夢を、不服とは思わぬ。そして私からも一つ問わねばならぬ。そなたの師は真に陛下の側近ということが今分かった。陛下は私の処遇を、私の手先よりも先にそなたの師に伝えたということだ」
「四つ目、お前の手先は、男も色を覚える程の美しい男か。良く見ればお前は、男色家のような面をしているな」
「私は妻も子もないが、男色家ではない。どう思おうが勝手ではあるが、そなたは覚えたであろう。憶測ではなく、その目で見たものだけを、そなたは真実と看做すのだ」
「承った……。……早く答えろ」
「私は面識がないが、確かに、男も色を覚えるような男であると、聞き及んでおる」
「じゃあその男は……信じるに足りぬ男だろうな」
「それは、まだ分からぬ。そなたやその師が知らぬことを知っておる男だ。私は無用とは思わぬ」
「私の師が知らないとお前が断言するとは、軽率な。言ってみろ、どんなことなんだ。五つ目の問いだ、言ってみろ」
「百日が近いのだぞ、文官よ。他の降将が何をしておるのか……分からぬのか。私は何色の馬であろうのう文官よ。そして何故、この私も馬であろうとするのか、そう成れると思うたのか、考えてみよ」
陳寿は一瞬、意味が分からなかったが、少し考えればすぐに分かった。
「色は黄色の馬だろう。去勢された黄色のな」
「そうやもしれぬな」
冗談をいう余裕すらあった。夏侯覇の仲間は黄皓で、夏侯覇の手下である魏の降将郭循は黄皓と結託し、皇帝陛下にはそういった周囲の人間から夏侯覇の評判を吹き込み、夏侯覇は陛下に気に入られた。朝廷内に既に根を生やし、多くの者が間接的に夏侯覇へ好意を抱くよう仕向けている。そうすれば、いかに皇帝陛下の信任厚い師匠であろうとも、知らないことを知ることができる。師匠は変わり者。話を共有してくれる友など居ないのだから、情報を自らの許に集積し得る黄皓に、情報量で勝てるはずがない。
「そなたはまだ分かっておらぬのだろう。何をかは、問うても答えはせぬぞ。私はつまらぬ問いは許さぬ」
「分かっていないとなぜ決めつけるんだ。何をかは問わぬが、理由を答えろ。六つ目だ」
「その頭には色々な理由が浮かんでは消えておるのだろう。しかしこの結論には至ってはおらぬだろう」
「さっさと答えろ」
「明日には分かる。それが答えぞ」
陳寿は勘違いをしていたことに気づいた。成都の変事は、百日を終えてからの出来事であると思っていたが、それは百日目に起きるようだ。盲点であったと思ったが、時すでに遅し。あと一問で、答えの中身に近づかなくてはならない。明日の答えを見抜くような、宝剣のごとき問いはもはや不可能であろう。せめて、近づきたい。それさえできれば、「そなたはまだ分かっておらぬ」などという侮りに、抵抗できない。
勝ちたい。この問いで、この降将に勝ちたいのだ。陳寿は自らの中にある闘志に気づいた。蜀漢を守るため、この男を問いで打ち負かしてやろうと決意したあの時の熱意が再燃したのである。
「今日最後の問いだ。心しろ」
「申せ」
「お前の心は魏にあるのだろう。それとして、蜀漢の地を故郷とする気持ちはあるか」
「是非に及ばぬ」
是非に及ばぬとは、妙ないい方をしたものだ。色々と解釈はできるだろうが、概ね、仕方がないからと受け入れる姿勢の言葉である。
奴は成都を滅ぼしたり、皇帝陛下を蔑ろにすることはないだろう。ならば、例え明日なにが起ころうとも、この蜀漢が魏の降将に蹂躙され、敗れることはないだろうと思った。




