第二十話
麹山包囲を指揮する将軍鄧艾は、攻めては引き、攻めては引きを繰り返した。蜀軍を揺さぶり、その攻撃から大まかな敵の数を炙り出そうとしていた。
目算は五千から八千。雪が降るほどの極寒の山頂であることを考慮すれば、自軍は攻撃に手こずり、蜀軍は実力以上の防御が可能となる。
「継戦能力は数ヶ月はあるか──相手がこの鄧艾でなければの話であるが」
包囲から二日、鄧艾は包囲で敵が飢えや乾きから下山することはないと見抜き、麹山の斜面に着火した。
「鄧艾殿、何故斜面の木々に火など……」
「これはこれは、徐質将軍。私の策に興味を持たれるとは珍しきこともあるものだ」
「かつてのことは水に流しましょうぞ。どこの馬の骨とも分からぬ下郎……あれは私の暴言にして、そなたに対する誤った評価であった。何度でもお詫びいたし申す」
地面に手を突き頭を下げようとする将軍徐質を制止し、その手を取って立ち上がらせた。
「詫びは既にお聞きしました。今のはほんの戯れ故、真に受けてくださるな」
「そなたも人が悪い……して、何故山に火を?」
「この山は獣が多いが、蜀軍が来たことにより獣は皆隠れてしまった。それは山中に布陣すればよく見る光景なれども、この山には隠れられるほどの木々は少ない」
「なるほど……されば、あの木々を燃やせば獣は焼き殺されるのを恐れて飛び出してくると」
「左様。そしてその行先は……ほとんど一本道で繋がるあの山頂。一直線だ」
獣は崖に落ちるのを恐れ、山頂の蜀軍本陣目掛けて勢いよく突撃した。迎撃する蜀軍もまた精兵ばかりであり、陣は崩れることはなかった。しかし、火がついた獣は陣に火を着けてまわり、陣内は鎮火のために大量の水を消費することになった。
翌朝、綻びができた蜀軍本陣目掛けて鄧艾は総攻撃を仕掛けた。しかし、数の有利があろうとも、高所に陣取る精兵の攻略は容易ではなかった。
「次の一手は、如何するおつもりか、鄧艾殿。敵は水を無駄にしたが、周囲は雪。溶かせば飲水には困りませんな」
「焼け死んだ獣で飢えも凌げましょうなぁ」
「もしや打つ手なしと?」
「然にあらず。簡単なことです。包囲を狭め、昼夜を問わず歌い、騒ぎ、劉備や劉禅、諸葛孔明を罵倒するのです。敵はここまで休むこともなく疲労が貯まっています。更に追い込んだところで、明日か明後日の夜、夜陰に紛れて、数の力で畳み掛けるのです!」
魏軍は包囲を狭め、陣太鼓を鳴らして蜀兵の休息を妨害した。昼夜を問わず叫び、時として蜀の英雄を暴言で貶め、敵将の闘争心を煽った。ここまま陣に籠っていたとしても、疲労困憊の蜀兵を揉みつぶすことは、数万の軍勢をもってすれば容易いことであるが、陣から出てくるならば更に敵の力を削ぐことができる。もはやこの戦いは如何にして損害を減らせるかが、鄧艾の課題となっていた。つまり、包囲を開始して五日で、鄧艾は堅牢な麹山の攻略を当然の如く確信していたのである。
「総攻撃だ! 敵はもはや戦えぬ! 首を取って手柄とせよ!」
鄧艾の一声で、麹山は瞬く間に魏兵によって飲まれ、蜀将二名の首は刎ねられた。
早朝、麹山を脱出して廖化の陣にたどり着いた早馬は、命からがら麹山の陥落を報せた。
直後、廖化は遂に動きだした郭淮軍と一戦を交えることとなった。
「怯むな! 敵は臆病者ばかりだ! 魏兵への恨みを晴らせ!」
廖化の必死の抵抗は実を結び、郭淮を一時的に退けることができた。しかし廖化はまだ気づいていなかった。郭淮は廖化を撃破することなど眼中になく、これはあくまで、廖化の注意を引くことが目的であると。
陳泰率いる数万の軍勢が、更に西側に居た姜維の許へ姿を現したのは、翌朝であった。
「麹山からこの西涼までおよそ一日。軍勢の数からして、行軍速度は数刻は加算されよう。つまり……一昨日前の夜には、麹山が陥ちたか……!」
姜維は魏に不満を持つ羌族を率いて、陳泰軍と正面から衝突した。
「敵軍は数を頼りとする強行軍だ! 数も拮抗しておる! 勢いで押して跳ね返すのだ!」
姜維は巧みな傭兵で、陳泰を東へ東へとお仕込んだ。羌族と蜀兵の混成軍でありながら、それを感じさせないほどの統一した動きで、魏兵を諸共しない巨大な一つの塊に変えたのだ。まるで、長年共に練兵されたかのような鮮やかさで、陳泰軍を乱し、敗走させた。
姜維は廖化と合流し、野営地にてすぐさま軍議を執り行った。廖化を含む将軍らは皆、麹山を失い、大勢の兵と武具兵糧を消失してしまった以上、撤退すべきだと主張した。しかし姜維は弱気な将軍らを一括した。
「当初の作戦が失敗に終わった今、諸君らは帰ろうと申すが、それでは費禕殿の思うつぼではないか。軍は無能、蜀漢は弱小故、国力増強に努めるべしと、またその様な戯言を聞かねばならぬこととなる。そなたらはそれで良いと申すか!」
「されど将軍、我らは足場を失い、敵は逆に勢いづいておりますぞ。悪戯に兵を……減らしてはなりませぬ!」
「私は多くのことを丞相から学んだ。戦いは武具兵糧を蓄え、拠点を背骨の如く数珠繋ぎにし、目的地まで兵站を紡ぎながら行う。将兵は命令を違えず、如何なる時でも恐れず敵に突撃するようよく調練されておらねばならぬ。そう、戦いは、刃を交える前から始まっているのだ。されど、丞相をなぞるだけでは、決して丞相を超えることは永久に叶わぬ!」
「されば……如何いたすと……?」
「我らは麹山を失い、今や敵地に孤立しておる。我らは撤退すると、誰もがそう考えて当然の状況。我らは……これを逆手に取るほかない……!」
姜維起死回生の一手を考案した。
姜維は蜀軍残存兵力の内半分を廖化に預け、川の南に残して、残りの半分は順次南下し漢中への帰還を目指した。
道中、麹山攻略後の魏軍を吸収したのであろう郭淮率いる大軍が接近したが、蜀漢に従属することを拒んだ一部の羌族の反乱を鎮めることを優先して西涼へと急行した。
だがそれは全ての軍勢ではなかった。
麹山攻略後、同地の資材や武具兵糧を押収し最後に下山した鄧艾は、のろのろと西涼を目指す魏の大軍を後方から眺めながらも、川の南側に残る廖化軍に違和感を覚えた。
「将軍! 早う都督の軍に合流しましょう!」
「いや待て、妙だ。粉雪が降る今、視界が悪かろうとも、廖化の位置からも我々が視認できているに相違ない。にも関わらず、何故渡河して我らを襲わぬのだ?」
「都督率いる我らの大軍が、数十里先におります。その反転攻勢を恐れているのでは?」
「そんなはずがあるか、我らは数百の少数だ。廖化は、およそ二千の兵を抱えている。移動中で迎撃する陣地も持たぬ我らを、みすみす見逃すと思うか。定石で考えれば、あれは本軍を逃がす為の殿。追撃の恐れがある我らを……見過ごすなど違和感が残らぬか?」
「つまり……廖化の思惑は我らの注意を」
「黙れもうよい! 全体! すぐさま北東の砦へ入るのだ! 全速で走れい!」
突然のことに、鄧艾の配下数百名は困惑しながらも、血相を変えて駆けだした鄧艾に続き、砦を目指した。砦まで五百歩のところで、背後から怒声と数百の蹄が大地を踏むおとが迫ってきた。
「敵将を討て! その首を手柄に凱旋するのだ!」
敗軍のものとは思えないほどの威勢で、姜維を筆頭とした騎馬軍の奇襲に、魏兵は恐れおののいた。既に戦いは終わったものと思っていた兵の心は挫けそうになるも、鄧艾の激で足は早くなった。間一髪、鄧艾の手勢は砦に入り込み、門を閉めて九死に一生を得た。
姜維軍は敵の迎撃準備が整う前に門の破壊を試みるも、速度を重視した騎馬兵でそれは困難であり、やがて矢による反撃を受けた姜維は、撤退を決意した。奇襲は失敗に終わったのである。
「おのれ……! ここで敵将を討つことができならば……費禕を黙らせられたと申すに……!」
憤懣やる方ない思いを胸に、姜維は渡河して廖化と合流し、漢中へと逃れた。




