第十九話
延熙十二年(西暦249年) 十二月
北伐を開始した衛将軍姜維は、魏領雍州隴西郡へ侵攻、各地を占領した。魏軍が鎮圧の為にすぐさま出陣することを予期していた姜維は、同地にある麹山に二つの城を築き、山頂に立て篭もった。
姜維は録尚書事費禕による兵数の制限によって、一万の軍勢のみを率いて魏領へと入っており、彼がこの北伐を成就させる為の頼みの綱としていたのは、魏西方に縄張りを持つ羌族による反乱であった。羌族の反乱は、姜維が兵力不足を補う為によく用いる策であり、もはや十八番といえるものであった。
「元検よ、魏軍は麹山に立てこもる我らの本軍を包囲するだろうが、必ず軍を二つに分ける。それが何故か分かるか」
「はい、将軍。敵は必ず西方の反乱が我らの内通によるものと考え、我らの包囲と並行して、乱の平定に動きます。敵は軍を二分することによる兵力の分散よりも、我ら蜀漢軍が羌族と同調して、魏軍を挟撃することを恐れるはずです」
「さすがだ、元検。そうと決まれば我らはどう動くべきか、分かるか?」
「はい、将軍。麹山は配下の将軍に守らせ、我々の本軍は羌族の平定に動いた敵を各個撃破するべきです。我らは一度の勝利では喜べぬ弱小国。安定した勝利を得るべく、敵の兵力を分散させ、全力で叩くのです!」
「そなたに教えることはもはや何もないな。世間は、以前の北伐でそなたが敵将郭淮に包囲され多くの兵を失ったことで、そなたはを侮っている。されど、そなたは優秀だ。そなたなくして、北伐の成功はない!」
「此度こそ、郭淮をこの手で打ち破ってご覧にいれまする!」
「その意気だ! 我らの主力軍は麹山山頂で敵を引きつける囮とし、この私とそなたで、敵を討つ!」
当然のごとく、魏軍は五日の内に軍を整えて麹山へ姿を表した。そして山頂の陣の規模を斥候により確認した後、軍を分けて西方へ向かった。
姜維、廖化率いる本軍は羌族と合流し、やがて姿を現した魏軍と会敵した。
「将軍、あれをご覧下さい。郭の旗が翻っておりますぞ。郭淮に他なりませんな!」
「落ち着け元検。急いては事をし損じる。兵を鼓舞し、勢いは殺さぬまま、そなただけは常に冷静に戦え」
「御意。必ずや、雪辱を晴らしてみせまするぞ!」
両軍は着陣して睨み合った。姜維は僅かな手勢を率いて羌族を扇動し、廖化の軍勢に加勢しに戻ろうといそいでいた。廖化は姜維が戻るのを待ちながらも、いつ郭淮が動いても対応できるよう、警戒を緩めることはなかった。
丸一日経過した。だが郭淮は、動かなかった。
「羌族の反乱が拡大することは、全く痛手ではないも申すか、敵将郭淮よ。それともこの廖化など本気を出せばいつでも潰せると、侮っておるのか……!」
廖化は焦りを見せた。姜維の為に郭淮の軍勢の注意を引き続けることは目論見通りではあったが、郭淮軍に打撃を与えて、敵の援軍を野戦に引きずり出す必要があった。
「麹山の包囲を解け……さぁこちらへ全軍で参れ郭淮よ。願わくばこの廖化単独で、そなたの軍を倒し生け捕りにしてやる……!」
戦意の炎を滾らせる廖化と相対し、郭淮は尚も動かなかった。郭淮は魏軍の数的有利を信じていた。まずは麹山を陥落させて蜀漢軍の足場を崩し、後は全軍で敵を西へと圧迫し、そして包囲殲滅する算段である。
それは廖化にも分かっていた。自分や同じ立場なら、もちろん同じ進め方をするだろう──。
「だがそれは崩さねば、数に劣る我らは負ける。兵糧が尽きる前に、敵を退けなくては、勝てぬ!」
廖化は同日、郭淮の陣へと夜襲をしかけた。被害は少なくないが、それでも敵の出鼻を挫くことができたのは大きな意味があった。
しかし、朝になって陣にて守りを固める廖化に対し、郭淮が仕掛けてくることはなかった。
一度、廖化を打ち破ったばかりか、幾度も北伐を防ぎきった郭淮の信用は絶大なものである。してやられたまま、亀のように籠ったところで、味方から侮られることはない。郭淮ならば今回も勝てるのだという、数十年かけて築き上げられた信用は、一度の夜襲で崩せるはずもなかったのだ。
郭淮は夜襲を受けても尚、余裕の構えであった。
「兵が同様しておりますが、打って出ることはありますまい。私はその様に考えておりますが……よろしいですな、刺史よ」
「無論です、都督。我々が下手な手を打たぬ限り、蜀の賊軍が我らを破ることはありませぬ。どんと、構えておればよいのです」
「自信がおありなのですな。是非……自信を分けていただきたいものです。病に冒されたこの体では……この郭淮、情けなくも心まで蝕まれ、余計な不安ばかり増えてしまうのです」
「お労しや都督よ。されど、ご案じなさいますな。鄧艾将軍は必ずや、麹山を陥しますぞ」
「されど、あの麹山は堅い城となっております。陥すことができたとて、時間が掛かりすぎれば……西方の羌族が蜀に味方し、我らは西方をまるごと失いかねませんぞ……!」
「麹山は、数日で陥ちます。鄧艾将軍は麹山を数刻観察しただけで、その穴を見抜き、攻略の手立てを事細かにこの私へ報告してきました。僅かな時間で地形を把握したあの才覚、天賦の才といわざるを得ませんぞ。この陳泰、刺史としてこの雍州を治め、誰よりもこの地を知り尽くしております故、それが分かるのです」
雍州刺史陳泰の絶対的な自信に、都督郭淮の不安は和らいだ。咳も癒え、節々の痛みさえ感じなくなる。戦で勝利を信じられるようになることは、いかなる病魔にも勝る薬である。郭淮は東に聳える麹山を見上げ、鄧艾からの吉報を待つことにした。




