第十八話
夜、宮廷の堀に沈む肉塊を眺める郭循は、少しづつ遠ざかっていくその肉塊が、いつかはここではない遥か彼方まで沈んでいくのではないかという気がした。
吸い込まれそうになる水面から離れ、足早に宮廷の傍から離れた。少しづつ兵が成都の外へと出されているため、人が減った宮廷の堀はもはや、死体を遺棄するには絶好の場所であった。
全ては、夏侯覇のため。全ては、魏のため。この蜀の都で、どれだけの危険を犯そうとも、何も怖くはなかった。
ふと、酒が欲しくなった。ひと仕事を終えた後は酒を呑み温まるのが、戦場での過ごし方であった。この成都に来て、忌々しい蜀漢の兵を鍛錬し、精兵の名に相応しい強者にしてきた。共に過ごし、礼を受け、酒を呑みあったが、仲間と呼べる者は一人もいないと思っている。愛着よりも、所詮は、いつか討ち滅ぼすべき敵であるという思いが、彼の中に根付いていた。
「流石に夜は冷えるな……」
酒を呑みたくなったのは、蜀で共に呑んだ兵のことを思い出したからでは当然ない。蜀との戦の中で散っていった、魏の同胞達の顔を思い出し、蜀を滅ぼすという気持ちを忘れないためである。
「帰ろう、兄弟たちよ。共に故郷へ……俺たちの故郷を取り戻すんだ」
小さく呟いた覚悟は、彼を奮い立たせた。
翌朝
小屋を訪ねた陳寿は、夏侯覇へ昔話を求めた。それは夏侯覇のことを知るために必要なことであり、それが、この百日間の意味なのだと、陳寿は考えた。
「昨日は、お前のこれからについて問うといったが、それは改めよう。お前のこれまでを知るため、俺は問う」
「それは殊勝な心掛けだな。さぁ参れ」
「一つ目、魏は仇敵である蜀漢を滅ぼすための兵を出すも、それが果たされたことはない。また、孫呉にて太子を巡って変事が起きて以降、その機に乗じて孫呉を攻めることもできたが、依然として滅ぼすには至っていない。魏は天下統一を諦め、三国鼎立による均衡を維持することに、方針を変えたのか?」
「魏では内乱の気配が絶えず、大規模な遠征は難しかったのだ。大軍が一度国外へ出れば、それを好機と見た反乱が起きる可能性がある。内憂外患であるな」
「お前は長い間、蜀漢の天敵として、丞相や姜維将軍を手こずらせつづけた。一方のお前も、漢中以南への攻撃を行えず、もどかしい思いをしていたのだろう。軍内には色々な人間がいるとは思うが、鬱憤が軍内に蔓延していたことは言うまでもない。そこで二つ目だ。お前が最も嫌い、邪魔だと感じていた者は誰だ」
「郭淮であろうな。郭淮は幼少の頃から知っておる男で、魏の西方を守る重鎮であった。だが……郭淮は、私の敵となった。英雄とは、軍閥に過ぎぬ。郭淮はまごうことなき英雄なれども、魏の忠臣ではなかったのだ。幼き頃は……心から慕っていたのだがな」
「その名は先帝の漢中攻略の頃から伝わっている。黒い馬は人を魅了するんだな。隻眼の馬の方かもしれんが」
夏侯覇は笑った。少し声が漏れる程度ではあったが、夏侯覇の悪意がむき出しになったその笑みを見るに、憎き司馬一族の側に郭淮が立ったのだろうと考えることができる。郭淮のことを思えば、少し不憫である。郭淮はきっと、魏の宗主が皇帝ではなく司馬一族であることを嗅ぎ分け、身の振り方を変えたに過ぎない。そもそも郭淮はその郭姓から察するに決して高名な家の出ではなく実力で名を上げた人であるし、自らの家族を養うには、政界の中枢を握る派閥に味方するのは正しい判断であろう。だがそれが、宗室に近しい夏侯氏の夏侯覇から見れば、政敵にしっぽを振ったように見えてしまうのであろう。
「三つ目、郭淮が死ぬとすれば、それはどのような死に方だと思うか」
「お前は私に、郭淮を中傷するか誉れある死を想像させるかして、どれ程の距離感であったかを探ろうというのだろう。だが問いに対しまっすぐに答えさせてもらおう。郭淮が没するならば、その理由は病だ。郭淮は虚弱でことある毎に体を壊し、よく寝込んでいた。あらゆる集まりに遅れては将兵に舐められるも、それを実力で黙らせるというのが、もはや見慣れた光景であった。一度は文帝陛下のお招きに遅れ、謀反を疑われたことさえあるのだぞ。今生きておるのか……それすらも分からぬ」
「幼少の頃から慕っていたということは既に郭淮は老齢。恐れるに足らぬな」
「そうやもしれぬな。だが、全ての老将が脅威にならぬ訳でもなく、また優れた人材を集めることができる大国では、若くとも才気溢れる者が登用され、その非凡なる才を遺憾無く発揮している」
「ならば四つ目だ。そなたが若き時分に、昇進を争う中で好敵手と思っていたのは誰だ」
「そのような者はおらぬ」
「五つ目、司馬師の側近として共に天下を翔けるのは、どのような者だと思うか」
「司馬師と共に翔けるのは、弟の司馬昭、あるいは……鍾会やもしれぬな」
「鍾氏は天下の賢人や名士が集う地潁川に地盤を持つ名家で、さしずめ父親は魏建国の功臣鍾繇だろう。それはあえて聞かずにおくが、その鍾会は暴れ馬を乗りこなす英傑か、あるいは、ただその後を追う愚か者か」
「暴れ馬を乗りこなしたりはしない。だが奴を愚か者と呼ぶのは、侮りというものだ。奴は奸雄……馬をも酔わす鍾ぞ」
決して司馬一族を上回るほどの実力はないが、それを手玉に取るほどの才覚と地盤を持つ。夏侯覇は、そう警戒しているようだ。若者というが、どれ程の若者なのだろうか。しかしそれを知る必要はないと、陳寿は思った。何故ならば、彼は兵でも囚人を尋問する獄卒でもないからだ。陳寿は、魏の重鎮をよく知る、ただそれだけでいいのだ。それは夏侯覇が望む陳寿の姿であると理解しながら、自分自身でもそうありたいと思う姿であったのだ。
「六つ目、馬の後を追う、次の駿馬は誰であろうか」
「鄧艾であろうのう。彼奴は、比類なき軍才を持つ老将だ」
鄧艾の名は聞いたことがない。鄧姓もまた耳にしたことはなく、魏はやはり優秀な人材を見つけ出し育てる環境が揃っていることを裏付けている。老将であれば、その才を見つけ出した者は先見の明があり、そしてこの鄧艾は期待に応える形で力を付けたことが分かる。そして、戦の中で頭角を表した男であれば、その名は蜀漢に伝わっている筈である。ここまで無名となればきっとそれは、司馬懿のように他所で位を上げ、そして西方に派遣された強者であると推察できる。つまりそれは、夏侯覇なき今、郭淮と並び魏の西方を担う存在、蜀漢の天敵となりうる──。
それが陳寿の推理であった。
「七つ目だ。将軍の戦い方には癖や特徴があると聞く。ある者は数の力を頼りとし、ある者は奇策を頼りとする。その鄧艾の才を表現するならば、どのような軍才だ?」
「地の神……彼奴は土地を測定し、その地形を活かして陣を敷くことで、いかなる奇策にも敗れることはなく、また魏兵特有の数の力も相まって、彼奴が率いる軍は強靭にして強固。まさに、地を守る神だ」
夏侯覇もまた、その軍才は決して並のものではない。だからこそ、数多いる将軍の中から、征蜀護軍の地位を預かり、蜀漢から魏を守る唯一無二の役目を担っているのだ。その夏侯覇が賢将郭淮同様に警戒する将軍とは、一体どれほどのものなのか。
鍾会、鄧艾という二人に、陳寿は強い興味と恐れを抱いた。




