第十七話
翌日、小屋を再訪した陳寿は強気であった。秘密を抱えて人と話すのは、こんなにも気持ちが良いものなのかと、陳寿は有頂天であった。
「夏侯覇よ、俺は随分と気分がいい。お前には関係のないことのように思えるかもしれないが、そんなことはない。今日の一つ目の問いだ」
「入って早々とは、気合いが入っているな文官よ」
「もう十二月だ。一段とキツくなる冬の寒さに負ける訳にはいかない訳ではあるまいな夏侯覇。俺は今、これからのお前のことが知りたいのだ。夏侯覇よ、お前は姜維将軍をどのように思うか」
「伯約は好敵手であったが、今は不思議な気持ちだ。殺したいとも、友のようにも思う。そうか……司馬懿めは諸葛亮に対し、このような気持ちを抱いていたのか。今ならば奴がなぜ、日々自らの家族や将兵よりも、諸葛亮のことばかり考え、竹簡を読みふけっていたのか」
「二つ目、お前は陛下に、気に入られると思うか。姜維将軍と異なり、お前を支えてくれる丞相はおらんぞ。お前が憎む司馬懿との争いの最中に陣没しているからな」
「司馬懿のことを知り、残りの数日はもはや用済みか。まぁよかろう。私がすでに陛下に目をかけていただけているといえば、そなたは信じるか」
陳寿の脳裏に、黄皓が浮かんだ。病床で目が覚めてから、見舞いに来てくれた兄弟子羅憲を通じて、師匠へと問答の結果を伝えていた。その際、羅憲もまた師匠から聞いた黄皓の話について話してくれた。どうやらここ最近の黄皓は苛立っているようで、その理由は姜維の北伐にあると、譙周は見ているらしかった。自由に成都を出歩けない多忙な黄皓はいくつかの駒を持っている。それを譙周は見抜いていたが、それが誰かまでは分かっていなかった。しかしそれが、後宮によく出入りしていた廖化であったと分かり、彼が北伐で成都を離れたため余裕が無いのだと察することができたのだ。
つまり黄皓もまた何らかの目的のために、離れてしまった廖化に変わる人材として、同じく蜀漢に地盤を築くため土台となる人脈を持つ者を利用したいが夏侯覇と、手を結んだ可能性があった。
「三つ目、宦官は卑しい存在だが、曹操の祖父は漢の宦官であったな。それは、天下の皆が知るところだ。だから、曹操の父曹嵩はお前の夏侯氏から、曹氏の養子となった。お前は蜀漢の人間を沢山殺したわけだが……生きて恥辱を受けることは想定しなかったのか」
「想定はしていた。しかしそれ以上に、この私をみすみす死なせるような愚かな真似を、劉禅が行うとは思わなかった。去勢は失敗による死者があまりに多いゆえ、そう簡単には用いられぬ。今や刑罰としての側面は崩れ、食うに困った者が、宮廷に仕えて人生を逆転させようとして、宦官になるばかりだ。こちらからも問いをしよう」
「四つ目……なんだ、話の腰を折りやがって」
「漢で最も有名な宦官は誰だ。お前は名家の出であると聞いた。貧しかったとしても、かの者の名を知ってはいるだろう」
「司馬遷。……また司馬か」
「司馬の姓が皆、親類であるとは限らない。司馬遷はなぜ、去勢させられたか知っているか、文官よ」
「正しい歴史を記し、武帝の逆鱗に触れた。名誉を守り処刑を受け入れるか、去勢して生きたまま辱めを受け続けるか、迫られた。そして司馬遷は選んだ。正しい歴史を記し続けるために、恥辱に晒されながらも、生きる道を選んだんだ」
「そうだ。よいか文官よ、私は戦場で生きる中で、一つの真実を悟った。それは、いかに猛き者も、一人ではいつか、弱き者に殺されるということだ。英雄豪傑も、やがては戦に敗れて死んでいった。私が言いたいことが分かるか」
「いいやサッパリだ」
「そうか。強さとは、剛腕でも武勇でもない。知識だ。以前も言ったはずだが、軍は文官なくして纏まることはない。軍という力は、武器を鋳造する知識、大勢を纏める知識、兵法を集め管理する知識が必要だ」
「四つ目、俺が……なぜここに毎日呼ばれるのか、わかった気がするぞ。お前が、命を顧みずに他国へ身を寄せたのか……!」
問いを行おうとする陳寿に手のひらを向け、夏侯覇は制止した。
「ならばその四つ目はなしだ。その問いは恐らく、直接的でつまらない」
「確かにそうだな」
「そなたは要らぬ推察をせず、私のほとんど答えに近い言葉を得るまで、その結論には至らなかった。それは良い兆候だ。見たもの、聞いたもの、嘘偽りのないと思えるものだけを記すのだ」
何を問うべきか、分からなくなった。八十六日目にして、問いの刃は折られた。
陳寿は羅憲と会い、確信を掴んだ気になっていた。成都を空にするほどの訓練の意味は、黄皓が計画した費禕の暗殺であると──。師匠は黄皓を巡って陳祗と取引をし、黄皓が費禕を狙っていること、そして彼が既に騎都尉郭循を買収したことが分かっていた。費禕の暗殺を皮切りに、黄皓を使って益州人士やその他の出身地の者を靡かせ、この蜀漢で立身出世を図り、ゆくゆくは王族の立場を利用して蜀漢を第二の魏にすることが夏侯覇の目的であると、見抜いた気になっていたのだ。百日間の問いを、彼が未だに「お遊び」と呼ぶのは、やはりその目的は費禕暗殺のための余興として、国内をひっかき回すことであると、信じて疑わなかった。
なぜならば、夏侯覇は所詮、魏の人間だからである。忌々しき魏人に過ぎないではないか──。
その日、陳寿は自分がなにを問うたのか、覚えていない。残り十四日、何から問うべきか。夏侯覇のことを知りたいという思いは正しいようだが、それは彼を問いの刃で突き刺すためではなく、このまたとない機会で、自分が夏侯覇からなにを聴取するべきなのか、分からない。魏と蜀漢の王族にして、歴史の生き証人である夏侯覇から聞くべきことは山ほどあるはずなのに、問いの日々で接した夏侯覇は、客観的な観察対象ではなくなってしまっていた。
百日目に起こる成都守備隊による大規模訓練が持つ意味がなんなのか分からなくなった今、何を成す必要があるのか──。
帰宅した陳寿は、酒を手に取った。こういう夜こそ、誰かに訪ねてきて欲しいと思ったが、遂に誰も戸を叩くことはなかった。




