第十六話
もうあまり、問いの時間は残されてはいない。陳寿はギリギリを攻めるように、問いを重ねた。
「司馬懿の出身はあえて聞くまい。荊州北部に近いと推察できる。きっと、中原、つまり魏の中心部に根ざした一族なのであろう。五つ目の問いだ。兄弟子に聞いたが、魏では曹操台頭の時代までは、身分や罪の有無によらずに才覚ある者を貪欲に登用していった。しかし魏が磐石となって以降は、すでに形成された支配体制を維持することを優先し、高位になればなるほどそれは顕著で、魏の宗室たる曹氏や建国の功臣一族ばかりとなった。司馬懿は出仕を断り続け、仕えたのは曹操の晩年。司馬懿、あるいはその親類は誰の親類となり、魏の中枢へ入り込んだのだ。もしこれを直接的でつまらぬ問いというならば問いを変えよう。司馬師の正妻は誰だ」
問いに夏侯覇は不意打ちをつかれたように笑った。
「正妻は夏侯氏、名は夏侯徽だ」
「長らく出仕を断っても求められるほどの名門であったとはいえ、太傅にまで昇進するには親類縁者にかなりの大物が居なくてはならないだろう。人材豊富な魏ともなれば、蜀漢のように、優秀というだけでは選ばれるはずがない。六つ目、その夏侯徽は、夏侯氏の中でも重鎮に近い血筋であろうが、それは間違いないか?」
「間違いない」
「その者は、夏侯尚の娘だな……」
一瞬、ほんの一瞬だけ、夏侯覇の目がなにか言い淀むように、少しだけ瞼を大きく開いた。何故それを知っているのかと、目が叫んだのを、陳寿は見逃さなかった。
「魏の国境を守るのは、西の曹真、東の曹休、そして天下の中央荊州の夏侯尚だ」
「そうか文官よ、兄弟子から聞いたのだな。荊州をそなたら蜀から奪ったのは、同盟を結びし呉であり、その裏切りにより関羽は死に、取り戻そうと戦を準備する中で張飛が呉の内通者の手にかかって死に、戦を起こした劉備は夷陵の地で七十万の大軍と共に死んだ。それでもなお呉と反目せず、再び盟約を結んだ屈辱も、無駄ではなかったな。お主の申すとおり、夏侯徽は夏侯尚の娘だ」
「呉との盟約は、先帝亡き後諸葛丞相によって行われた英断であり、我が蜀漢が大志の為ならば屈辱にも耐えてみせる決意の表明でもあった」
雄弁に叫ぶ口とは裏腹に、陳寿の頭の中は冷めていた。それがなぜだか、自分でも分からない。だが、冷静であったほうが、この場の主導権を握れるという算段があったのは確かだ。
夏侯徽が夏侯尚の娘だというのは、間違いかもしれないと思いながら、勢いで行った問いだった。その場でつまらぬと斬り捨てられるかもしれないとも思ったが、猶予はない。勢いで押し切れば、もし夏侯覇が回答に渋ろうとも、以前のように、思わず反応してしまうことに賭けたのだ。
魚は見事に餌にかかった。夏侯徽が、夏侯覇を動揺させるにたる重要人物ならば、彼の恋しき故郷の人というのはきっと、この人物しかありえない──陳寿はそれを踏まえて、夏侯覇を問いの刃を突きつけた。
「夏侯徽の弟夏侯玄は、司馬師に使われるだけ使われ、そして処刑された。死んでしまってはもう会えないもんなぁ夏侯覇よ。お前の故郷の理屈でいえば、夏侯玄は故郷たる魏では死ねなかった。さしずめ、司馬一族の手にかかったのだろう。司馬師の首を……取りたいか?」
夏侯覇はいつになく仏頂面であったが、その目の奥には、隠しきれない殺意と敵愾心の炎がゆらめいていた。
魏で政変を起こしたのは、司馬一族である。
陳寿は七つ目の問いを無視されたのではなく、沈黙によって答えられたことを確信した。だが問いが成立していないことを勢いで既成事実とするため、陳寿は言葉を続けた。
「七つ目だ。以前は司馬師について尋ねたが、今日は司馬懿について尋ねるぞ。司馬懿は黒いか」
「司馬懿は黒い。いつも黒い漢服を纏っていた。その白髪と白い肌と相反した、漆黒の漢服だ。そしていつも一歩下がった日陰に立ち、夜陰に紛れて存在感を消していた」
「これは俺の確信を口にするただの独り言だ。夏侯玄は少なくともお前の中で、魏の最後の功臣、であろうな」
「少なくとも、私の中ではそうであろう。これも私の独り言だ」
生粋の魏人である夏侯覇の中で、夏侯玄の死を以って魏は滅びた。玄武は、黒い馬に負けたのだ。
つまり夏侯玄は、司馬一族の台頭を抑える最後の砦であったが、既に魏の命脈は尽きていたということだろう。
三国の中で最も強大な魏は内側から侵食され、静かに宗室は潰え、その生き残りは一人、遠い僻地にある敵国へと亡命した。
このお遊びがいつまで続くのか、聞きたかった。だがそれは八つ目の質問になるからと、しばらく黙っていた。そうしていれば、夏侯覇が勝手に口を開いてくれるかもしれないと思ったのだ。
しかし夏侯覇の口は鉛のように重たく、何をいいだすこともなかった。そればかりか、将軍として多くの人を葬ってきた男でありながら、自らの親類縁者の死を乗り越えることはできていないようで、どこか感傷に浸っているようであった。
陳寿は次第に、当初から夏侯覇に抱きつつも、少し和らいでいた感情を思い出した。嫌悪である。忘れかけていた嫌悪が、沸々と蘇った。彼もまた矛盾の中にいた。大義名分のため、殺人を繰り返してきた将軍が、心の傷のせいで感傷に浸っているその姿を見て、殺したいほどの殺意を抱いている。これほどまでの矛盾があるだろうか。
気がつけば、太陽が傾いていた。夕陽が見える頃には、七つの問いは終わっているものだ。いつものように陳寿は立ち上がり、別れも告げずに戸へ手をかけた。
「待て、文官よ」
「なんだ夏侯覇」
「お前は父を亡くしたそうだな」
「なぜそれを知っていやがる……!」
「気づいているだろう。私には仲間がいる。私が日がな一日こうして小屋の中で座っているとでも思っておるのか。そんなはずがあるまい」
「無論、考えなしではないぞ。むしろ、俺と過ごす時間を除いて、小屋の中に居るのかさえ訝しんでいる。普通は贅肉がつくか、あるいは痩せこけるものだが、お前は出会った頃のまま剛腕だ」
「まさしく。実を申さば、ほとんどこの小屋にはおらぬ。酒を呑み、人と会うておるのだ」
「口寂しいのだな。この若造と話し足りぬとは」
「そなたの言葉を借りるが、会いたくて会うという言葉は良いものだ。言い得て妙だ。しかし今思うに、そういう者はおらぬな。夏侯玄が恋しき者か、私には未だに分からぬが、恐らく異なると思うたのだ。私に詩の才はおろか文筆の才もなき故分からぬが、とにかく夏侯玄もまた、由来あっての友であるように思う」
「今日は問いがもう使えないから、何も聞けない。だが正直に言えば、この身が惜しいためもっと聞かせて欲しいものだ」
「お前はまだ若いゆえ、よく聞いておけ。人の話を聞き、それを認める才がお前にはあるのだから」
「そうか」
少し黙った夏侯覇を見届けた陳寿は、振り返って戸に再び手をかけた。
「文官よ、去る前に一つお前に問おうぞ。そなた、この百日をなんと心得る。この百日の末に何が待つと思うか」
「俺の死か、俺の生か」
「若いな。その考えは、すぐに崩れるぞ」
不敵な笑みを浮かべる夏侯覇を横目に、陳寿は小屋を出た。
いくつか、夏侯覇の事は理解できた。降伏の理由は魏の政変であり、蜀漢を選んだのは、仲間がいるからである。だが、この百日間の問いを仕掛けた目的が、未だに分からない。陳寿は夕陽に照らされた小屋を眺め、妙な胸騒ぎを感じた。
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