↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
降将  作者: 乘越唯響(のりごえ いおん)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/46

第十五話

 陳寿(ちんじゅ)が目を覚ました時、戸口から差しこむ光に目が眩んだ。辺りを見渡すとそこは見知らぬ家屋で、すきま風が寒く、自然と布団にくるまった。誰かが丁寧に介抱をし、新品の布団まで与えてくれたのだと気づいたが、それが誰によるものなのかは、一向に見当がつかない。この頃、推理癖がついている。普通に考えれば、倒れた所を誰かが助けてくれたのだろう。この頃、目眩や疲労感に悩まされていたから、倒れたのだろう。

 倒れたのか──。それはいつだ? 今は何月の何日だ? どれだけ倒れていたのか。

 暗く暖かい布団の中で思考を巡らせていると、戸が開く音がした。布団から顔を出すと、そこには李密(りみつ)が居た。手には桶が抱えられていて、井戸から水を汲んできてくれたことが察せられた。李密(りみつ)が助けてくれたのか、あるいは同門の者として、介抱を頼まれたのか。

 だとしたら、倒れたのは最近だろう。李密(りみつ)は名門の出ではないし、両親は病気で援助は期待できず、兄弟もない。介抱ができたとしても金が尽きるまで数日しかないだろうから、倒れてからそんなに経ってはないだろう。

 だとすればやはり倒れたのは確実なのか──。

「おい承祚(しょうそ)、目を覚ましたのか!」

「うるせぇぞ令伯(れいはく)、ちょっと倒れてただけで騒がしいぞ」

「ちょっとってなんだよ、お前もう五十日も寝たきりだったんだぞ……!」

「そんなに寝てたら死んでるだろ、もそっとマシな冗談をだな……」

 小さな声で言葉を続ける陳寿(ちんじゅ)が言いきる前に、李密(りみつ)は食い気味に叫んだ。

「冗談じゃねぇ本当だ! 師匠がお前のために大枚叩いて、名医の華蛇(かだ)様を連れてきてくれたんだ……華蛇(かだ)様がいなけりゃお前、とっくに死んでるぞ……!」

「華蛇(かだ)って、本当にいるのか……? 痛みを感じさせない仙薬を使って、毒矢を受けた漢亭侯(かんていこう)の腕から毒を取り除いたというあの神医が……俺なんかのために。本当……なのか?」

「その華蛇(かだ)かは知らんが、その医術を継承して、襲名した名医だ。師匠がお前の為ならばと、華蛇(かだ)様を探してくれたんだ」

 目を覚ましたことに感涙(かんるい)する李密(りみつ)に、陳寿(ちんじゅ)は一切の不安がなくなった。申し訳なさや感謝はあるが、なにより、これほどの友が居れば、何も恐れることはないという心強さがあったのだ。しかしながら、あまりに長く泣き続ける李密(りみつ)は不可思議に感じられ、「そんなに泣くことねぇだろ、生きてんだぞ俺」っと半笑いで声をかけたが、その返答は予想外にも「お前は助かったが、あの人は死んじまった」という意味の分からないものだった。

「誰が死んだんだよ」。尚も問う陳寿(ちんじゅ)に李密(りみつ)は答えた。「親父さんだ。陳式(ちんしき)さんが……殺されたんだ」。

 父親が死んだ。誰よりも憎く、誰よりも恋しい父が。最期は無惨にも剣で体を引き裂かれ、またしても祖先に恥を上塗りする形となった。

 道徳の基盤となる儒教は、端的に言えば父母や祖先を敬い大切にしろという価値観を人々に育ませる。だから人は父母から貰った命や体を傷つけること禁として、髪や髭さえも伸ばす。大切な体を斬られて命を失うなど、兵馬を失った咎めで家名を貶めるのとなんら変わらない罪であるが、死に際にまたしても、同じ罪を負ってしまったのだ。父は今、天で何を思うのだろうか。陳寿(ちんじゅ)は、目覚めたばかり故か、あまりの衝撃故か、何も考えられなかった。

「承祚(しょうそ)、お前は喪に伏さくちゃならねぇだろ。師匠はお前が三年喪に伏す間、金の工面をすると言っていたんだ。とにかく、こういうことがあったばかりなんだ。不謹慎だが幸運と思って、体を休めろ」

「待てよ……それなら夏侯覇(かこうは)はどうするんだ」

「死にかけたんだぞ! それに……お前は儒学者だ。師匠から儒学を教わり、父母や君子に仕える者としてここまで立派に役目を全うしたんだ。夏侯覇(かこうは)なんてどうでもいいだろ……!」

「父上は! 敗戦の咎めで家名に泥を塗った。俺は……その泥を払いたい。陳(ちん)家の泥を払い、名家らしく国に報いたいんだ……!」

「承祚(しょうそ)……お前!」

「俺は産まれた時から、父のせいで嘲りを受けて、貧乏暮らしをしてきた。奇妙な師匠の門を叩いたのも、他では誰も俺を弟子に取ってくれなかったからだ。学ぶことさえできたなら、もはや選り好みなどできなかった。全ては国に仕えて、陳(ちん)家の汚名を雪(そそ)ぐ為だ……! ここで倒れてちゃ意味がねぇんだ! 俺は夏侯覇(かこうは)と問いをして、国に報いたいんだ!」

 陳寿(ちんじゅ)の熱意に李密(りみつ)は覚悟を決めた。

「分かった。師匠に、お前を小屋に戻してもらうよう、陛下に奏上していただく。頼んできてやるさ。だから……せめてそれまでは休んでいてくれ。考えてみりゃ、もう薬も飲んじまってるしな」

 儒学では、父母が死した際は墓の傍で三年は喪に伏すことが推奨されていて、その際は粗末な家に住み、汚れた服を着て、少ない食事を取ることこそ、孝行であるとされた。衣食住が足りて人は初めて礼を知るが、それが不足するのも構わないほど、個人への敬う気持ちが強いことは美しいという理屈である。無論、仕事もせず、病を得ても薬を頼らず、自分のことを顧(かえり)みないほどの孝行も、同じく美徳とされていた。

 しかし陳寿(ちんじゅ)はすでに、薬を飲み、上等な衣食住を享受(きょうじゅ)した。これが世間に知られれば、爪弾きにされてしまうに相違ない。ならばもう、失うものなどないではないか。あとは、世間の偏見や中傷など気にせず、したたかに夏侯覇(かこうは)と向き合い、国に報いるのみではないか。

 迷いを捨てた陳寿(ちんじゅ)は、数日後に小屋を訪れ、夏侯覇(かこうは)と再び相対した。


 小屋で夏侯覇(かこうは)と相対した陳寿(ちんじゅ)は、満身創痍で戦いに臨んだ。その覚悟を認めた夏侯覇(かこうは)もまた、勇敢な文官を讃えるように、顔に期待の笑みを浮かべながら、問いを再開した。

「夏侯覇(かこうは)よ、俺とお前の問いは何日が経っただろうか。少し空いてしまったが、再開しよう」

「問いは始まって、八十五日だ」

「……は? 問いは中断していて、まだ三十何日目かだろうが。な、なんでそんなに……」

「していなくとも、月日は待ってはくれぬ。天下は人を中心とせず、時は進み続けているのだ。問いを始めて、八十五日だ。そして今の問いは、今日の一つ目だ」

「四の五の言っても始まらない。万事(ばんじ)、お前のいう通りにせよと仰せつかっているから、そうしてやろう。俺は数日病を得て倒れていたが、これも天意であるように思う」

「聞いている。災難であったな」

「禍福は糾(あざな)える縄の如し。災い転じて福と成す。二つ目の問いだ。お前は、父夏侯覇(かこうは)よりも恋しい人が処刑された時、しっかりと喪に伏したか」

「一日たりとも伏してはおらぬ」

「ならばその死は三年以内の出来事で、少なくともこの三年の間、裕福なお前が自由に喪に伏すこともできないほどの変事が、魏(ぎ)で起きていた。俺は……黒い馬は呉(ご)軍だと思ったが……昨日聞いた。呉(ご)軍は沈静化した。国境に軍を集結させたのは、蜀漢(しょくかん)に対する単なる脅しだったのだ」

 羅憲(らけん)が見舞いのため昨日陳寿(ちんじゅ)のもとを訪ね、呉(ご)軍の沈静化を教えてくれた。姜維(きょうい)は北伐のため漢中(かんちゅう)へと北上したが、密かに国内へ入り込んだ呉(ご)兵による攻撃などもなかった。残るは、危機が去った成都での訓練のみである。

「三つ目だ。その恋しい者は親類であろうが、その者は敬意を払いながら、司馬懿(しばい)、司馬師(しばし)ら一族と戦場で共闘し、魏(ぎ)の皇帝への忠誠を果たしたか?」

「その者は、司馬懿(しばい)が女物の衣を身にまとったとき、誰よりも司馬懿(しばい)を嘲笑した。よって、敬意を払っていたとはいえぬ。だがその者と司馬師(しばし)は……どうであろうか」

「やはり司馬(しば)一族が鍵のようだな。俺の問いの刃で……お前を秘密を隠す箱をこじ開けてやる。俺が倒れる前、魏(ぎ)のことを知るために、分かる限りで魏(ぎ)のことを調べ、そして昨日は兄弟子にも問いを行った。真実を知るには、問いを重ねるほかない」

「鍵だの刃だのと、詩的な物言いをするでない。して……その兄弟子は何者だ?」

「呉(ご)に関わる者だ。名は羅憲(らけん)。呉(ご)の賢人らと関わることも多く、呉(ご)が持つ魏(ぎ)の知識を俺に教えてくれたのだ。呉(ご)は蜀漢(しょくかん)よりも大きく、魏(ぎ)と広範囲で戦っているから、我々が知らないことも多く知っている」

「そなたの師匠は優秀な人間のようだ。人は何を教わるかで、その才能を開花させるか否かが決まるものだ。傑物、臥竜(がりょう)こと諸葛亮(しょかつりょう)や巴蜀(はしょく)攻略にて多大なる功績を立てた鳳雛(ほうすう)こと龐統(ほうとう)も、水鏡(すいきょう)の弟子とならなければその名声は得られなかったであろう」

「その話は初めて聞いたな……水鏡(すいきょう)とは詩的な名だな」

「名を司馬徽(しばき)といい、優れた人物として評判の男であるが、変わり者であったという。彼を登用しようとする者もいたが、政に関わることを拒み、政策や軍事に関わる問いには、好(よ)い好(よ)いと誤魔化すばかりであり、在野の賢人として、有能な人間を育てることに注力したのだそうだ」

「諸葛(しょかつ)丞相(じょうしょう)や関内靖侯(かんないせいこう)龐統(ほうとう)様のご出身は荊州(けいしゅう)北部。魏(ぎ)国にほど近いではないか。四つ目だ。その司馬徽(しばき)という者……司馬懿(しばい)と関わりがあるのか」

 その問いに、夏侯覇(かこうは)は微笑みながら頷いた。どうやら求める問いであったようだ。

「好(よ)い好(よ)い」

「黙れ……!」

「黙らぬぞ」

「えぇい……もういい!」

 陳寿(ちんじゅ)はいつもの調子である夏侯覇(かこうは)に憤激するも、深呼吸をして、冷静に続けなくては、問いの戦いには勝てないからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。