第十五話
陳寿が目を覚ました時、戸口から差しこむ光に目が眩んだ。辺りを見渡すとそこは見知らぬ家屋で、すきま風が寒く、自然と布団にくるまった。誰かが丁寧に介抱をし、新品の布団まで与えてくれたのだと気づいたが、それが誰によるものなのかは、一向に見当がつかない。この頃、推理癖がついている。普通に考えれば、倒れた所を誰かが助けてくれたのだろう。この頃、目眩や疲労感に悩まされていたから、倒れたのだろう。
倒れたのか──。それはいつだ? 今は何月の何日だ? どれだけ倒れていたのか。
暗く暖かい布団の中で思考を巡らせていると、戸が開く音がした。布団から顔を出すと、そこには李密が居た。手には桶が抱えられていて、井戸から水を汲んできてくれたことが察せられた。李密が助けてくれたのか、あるいは同門の者として、介抱を頼まれたのか。
だとしたら、倒れたのは最近だろう。李密は名門の出ではないし、両親は病気で援助は期待できず、兄弟もない。介抱ができたとしても金が尽きるまで数日しかないだろうから、倒れてからそんなに経ってはないだろう。
だとすればやはり倒れたのは確実なのか──。
「おい承祚、目を覚ましたのか!」
「うるせぇぞ令伯、ちょっと倒れてただけで騒がしいぞ」
「ちょっとってなんだよ、お前もう五十日も寝たきりだったんだぞ……!」
「そんなに寝てたら死んでるだろ、もそっとマシな冗談をだな……」
小さな声で言葉を続ける陳寿が言いきる前に、李密は食い気味に叫んだ。
「冗談じゃねぇ本当だ! 師匠がお前のために大枚叩いて、名医の華蛇様を連れてきてくれたんだ……華蛇様がいなけりゃお前、とっくに死んでるぞ……!」
「華蛇って、本当にいるのか……? 痛みを感じさせない仙薬を使って、毒矢を受けた漢亭侯の腕から毒を取り除いたというあの神医が……俺なんかのために。本当……なのか?」
「その華蛇かは知らんが、その医術を継承して、襲名した名医だ。師匠がお前の為ならばと、華蛇様を探してくれたんだ」
目を覚ましたことに感涙する李密に、陳寿は一切の不安がなくなった。申し訳なさや感謝はあるが、なにより、これほどの友が居れば、何も恐れることはないという心強さがあったのだ。しかしながら、あまりに長く泣き続ける李密は不可思議に感じられ、「そんなに泣くことねぇだろ、生きてんだぞ俺」っと半笑いで声をかけたが、その返答は予想外にも「お前は助かったが、あの人は死んじまった」という意味の分からないものだった。
「誰が死んだんだよ」。尚も問う陳寿に李密は答えた。「親父さんだ。陳式さんが……殺されたんだ」。
父親が死んだ。誰よりも憎く、誰よりも恋しい父が。最期は無惨にも剣で体を引き裂かれ、またしても祖先に恥を上塗りする形となった。
道徳の基盤となる儒教は、端的に言えば父母や祖先を敬い大切にしろという価値観を人々に育ませる。だから人は父母から貰った命や体を傷つけること禁として、髪や髭さえも伸ばす。大切な体を斬られて命を失うなど、兵馬を失った咎めで家名を貶めるのとなんら変わらない罪であるが、死に際にまたしても、同じ罪を負ってしまったのだ。父は今、天で何を思うのだろうか。陳寿は、目覚めたばかり故か、あまりの衝撃故か、何も考えられなかった。
「承祚、お前は喪に伏さくちゃならねぇだろ。師匠はお前が三年喪に伏す間、金の工面をすると言っていたんだ。とにかく、こういうことがあったばかりなんだ。不謹慎だが幸運と思って、体を休めろ」
「待てよ……それなら夏侯覇はどうするんだ」
「死にかけたんだぞ! それに……お前は儒学者だ。師匠から儒学を教わり、父母や君子に仕える者としてここまで立派に役目を全うしたんだ。夏侯覇なんてどうでもいいだろ……!」
「父上は! 敗戦の咎めで家名に泥を塗った。俺は……その泥を払いたい。陳家の泥を払い、名家らしく国に報いたいんだ……!」
「承祚……お前!」
「俺は産まれた時から、父のせいで嘲りを受けて、貧乏暮らしをしてきた。奇妙な師匠の門を叩いたのも、他では誰も俺を弟子に取ってくれなかったからだ。学ぶことさえできたなら、もはや選り好みなどできなかった。全ては国に仕えて、陳家の汚名を雪ぐ為だ……! ここで倒れてちゃ意味がねぇんだ! 俺は夏侯覇と問いをして、国に報いたいんだ!」
陳寿の熱意に李密は覚悟を決めた。
「分かった。師匠に、お前を小屋に戻してもらうよう、陛下に奏上していただく。頼んできてやるさ。だから……せめてそれまでは休んでいてくれ。考えてみりゃ、もう薬も飲んじまってるしな」
儒学では、父母が死した際は墓の傍で三年は喪に伏すことが推奨されていて、その際は粗末な家に住み、汚れた服を着て、少ない食事を取ることこそ、孝行であるとされた。衣食住が足りて人は初めて礼を知るが、それが不足するのも構わないほど、個人への敬う気持ちが強いことは美しいという理屈である。無論、仕事もせず、病を得ても薬を頼らず、自分のことを顧みないほどの孝行も、同じく美徳とされていた。
しかし陳寿はすでに、薬を飲み、上等な衣食住を享受した。これが世間に知られれば、爪弾きにされてしまうに相違ない。ならばもう、失うものなどないではないか。あとは、世間の偏見や中傷など気にせず、したたかに夏侯覇と向き合い、国に報いるのみではないか。
迷いを捨てた陳寿は、数日後に小屋を訪れ、夏侯覇と再び相対した。
小屋で夏侯覇と相対した陳寿は、満身創痍で戦いに臨んだ。その覚悟を認めた夏侯覇もまた、勇敢な文官を讃えるように、顔に期待の笑みを浮かべながら、問いを再開した。
「夏侯覇よ、俺とお前の問いは何日が経っただろうか。少し空いてしまったが、再開しよう」
「問いは始まって、八十五日だ」
「……は? 問いは中断していて、まだ三十何日目かだろうが。な、なんでそんなに……」
「していなくとも、月日は待ってはくれぬ。天下は人を中心とせず、時は進み続けているのだ。問いを始めて、八十五日だ。そして今の問いは、今日の一つ目だ」
「四の五の言っても始まらない。万事、お前のいう通りにせよと仰せつかっているから、そうしてやろう。俺は数日病を得て倒れていたが、これも天意であるように思う」
「聞いている。災難であったな」
「禍福は糾える縄の如し。災い転じて福と成す。二つ目の問いだ。お前は、父夏侯覇よりも恋しい人が処刑された時、しっかりと喪に伏したか」
「一日たりとも伏してはおらぬ」
「ならばその死は三年以内の出来事で、少なくともこの三年の間、裕福なお前が自由に喪に伏すこともできないほどの変事が、魏で起きていた。俺は……黒い馬は呉軍だと思ったが……昨日聞いた。呉軍は沈静化した。国境に軍を集結させたのは、蜀漢に対する単なる脅しだったのだ」
羅憲が見舞いのため昨日陳寿のもとを訪ね、呉軍の沈静化を教えてくれた。姜維は北伐のため漢中へと北上したが、密かに国内へ入り込んだ呉兵による攻撃などもなかった。残るは、危機が去った成都での訓練のみである。
「三つ目だ。その恋しい者は親類であろうが、その者は敬意を払いながら、司馬懿、司馬師ら一族と戦場で共闘し、魏の皇帝への忠誠を果たしたか?」
「その者は、司馬懿が女物の衣を身にまとったとき、誰よりも司馬懿を嘲笑した。よって、敬意を払っていたとはいえぬ。だがその者と司馬師は……どうであろうか」
「やはり司馬一族が鍵のようだな。俺の問いの刃で……お前を秘密を隠す箱をこじ開けてやる。俺が倒れる前、魏のことを知るために、分かる限りで魏のことを調べ、そして昨日は兄弟子にも問いを行った。真実を知るには、問いを重ねるほかない」
「鍵だの刃だのと、詩的な物言いをするでない。して……その兄弟子は何者だ?」
「呉に関わる者だ。名は羅憲。呉の賢人らと関わることも多く、呉が持つ魏の知識を俺に教えてくれたのだ。呉は蜀漢よりも大きく、魏と広範囲で戦っているから、我々が知らないことも多く知っている」
「そなたの師匠は優秀な人間のようだ。人は何を教わるかで、その才能を開花させるか否かが決まるものだ。傑物、臥竜こと諸葛亮や巴蜀攻略にて多大なる功績を立てた鳳雛こと龐統も、水鏡の弟子とならなければその名声は得られなかったであろう」
「その話は初めて聞いたな……水鏡とは詩的な名だな」
「名を司馬徽といい、優れた人物として評判の男であるが、変わり者であったという。彼を登用しようとする者もいたが、政に関わることを拒み、政策や軍事に関わる問いには、好い好いと誤魔化すばかりであり、在野の賢人として、有能な人間を育てることに注力したのだそうだ」
「諸葛丞相や関内靖侯龐統様のご出身は荊州北部。魏国にほど近いではないか。四つ目だ。その司馬徽という者……司馬懿と関わりがあるのか」
その問いに、夏侯覇は微笑みながら頷いた。どうやら求める問いであったようだ。
「好い好い」
「黙れ……!」
「黙らぬぞ」
「えぇい……もういい!」
陳寿はいつもの調子である夏侯覇に憤激するも、深呼吸をして、冷静に続けなくては、問いの戦いには勝てないからだ。




