第十四話
酒を並べた机の前に、二人は向かいあって座した。だが妙に重たい空気に、陳寿は酒を呑む気にはなれなかった。
「それで、話ってなんだ令則」
「実はな……成都で変事が起こるかもしれない。誰の企てか、あるいは偶然か、それは分からない。だが、衛将軍が北伐を開始しようと軍を動かすつもりで、今成都の周辺から人員が集められている。大規模な徴兵もあり、少なくとも数万人が、北上するようだ。そんな時なのに、騎都尉は成都の守備軍を訓練という名目で、城の外へ出そうというんだ。成都が……空になるぞ」
「騎都尉は魏の降将だ! これは夏侯覇による陰謀に違いない……!」
「録尚書事が今、訓練の時期をずらそうと必死になっている。俺も辺境で呉軍が活発になったことを直接偉いさんに伝えろと命令があって、それで呼び戻されたんだ」
「黒い馬……呉の軍だったのか……!」
「あぁ? なんだそれ」
陳寿は夢の詳細を羅憲へ話した。それはつまり、自分の推論を披露し、認めてもらおうというつもりであったが、羅憲の反応は奇しくも師匠と同じく、冷ややかなものであった。
「決めつけすぎだ。良いか、冷静になって考えてみろ。夢解きはお前の読み通り、夢解きなどではなくただの夏侯覇の自演だ。そこまではいい。だがな、夏侯覇が呉と結託しているとは考え辛い。奴は蜀漢を滅ぼすことに人生を費やしてきた男だぞ? 呉の人間と接触して共謀するなど、普通に難しいだろう」
「そうだったとしても、正攻法では蜀漢を攻め滅ぼせないと判断して、呉と結託したとは考えられないか? 黒い馬は呉の軍事力で、山崩れは成都から兵が居なくなった後に起こる呉からの侵攻だ。そう考えれば、辻褄は合うだろう。夏侯覇は俺に、それに気づけと言っていたんだ」
「俺はそうは思わないぞ。俺は録尚書事に呼び戻されたんだ。呉軍が国境で活発なことは当然早馬ですでに報告済みだし、騎都尉が魏人であるなど、当然把握しているだろう。呉軍が攻めこむ危険があるならば、衛将軍の北伐の時期をずらすに決まってるだろうよ。録尚書事の費禕は大将軍も兼ねている。軍内で実権があるかは怪しいが、少なくとも呉軍の活発化という正当な理由で、北伐を遅らせる決定を下すことくらいは出来るはずだ」
良く考えればそうだ。費禕ならば、姜維の北伐を制限できる立場にある。そして魏人の騎都尉郭循の大規模訓練も、皇帝陛下の一存でいくらでも中止することができる。全てを知った上で、北伐も訓練も認める陛下は、一体なんのつもりなのか。誰かに操られてでもいるのだろうか? 陳寿の頭では、これ以上の思考は限界だった。
「録尚書事が令則を呼び戻したってさっき話してたけど、早馬で伝えたことを、直接偉いさんに伝えるってどういうことだ。偉いさんって誰だ?」
「郭循は騎都尉だ。つまり奴が率いる成都守備兵は、地方の軍とは異なって将軍より陛下の意向が尊重される。いうなれば陛下の軍って訳だ。つまり偉いさんってのは、成都の政界に通じた、陛下の側近の誰かということだ」
「そうか……陛下の側近を説得する前に、録尚書事が直接、陛下に話せば早い話じゃないか。陛下なら絶対に、呉軍が活発になっていることも耳にしているだろうに、どうして郭循に訓練を延期させないんだ。
どうして……」
まだ一滴も酒を呑んでいないことが功を奏したのか、陳寿は一つの仮説を思いつくに至った。それは、師匠譙周が以前語っていた、宮廷の蜘蛛による陰謀である。
「もしや黄皓……黄皓が陛下をそそのかしたのか。録尚書事を亡き者にするため……陛下と共に……!」
「誰だそれ。どういう意味だ」
「黄皓は宮廷の蜘蛛です。情報網を作りあげて生き残る、蜘蛛なんです。その男が陛下を絡みとり、自らが生き残るために、荊州人士ではない者を決して重用しない録尚書事を消そうとしているんです」
「陛下が呉軍を招き入れ、録尚書事を討ち取らせる算段だと、そういうのか? 損害を減らすために北伐と訓練で兵を分散させ、実質ただ呉軍を素通りさせるなど、回りくどい」
「それは……分からない。確かに、回りくどいな」
「思うに、呉軍に関しては偶然だろう。奴らは定期的に我らを脅しているしな。姜維の北伐は、入念な準備のもとに行われている。数日で決めたことではないのだから、それが呉軍や夏侯覇の陰謀と関係しているようには思えない。だが……」
「だが……?」
「郭循の訓練が、夏侯覇の陰謀という説は、確かに少し怪しいかもしれないな。俺も師匠の気まぐれで軍に入れられたことがあるし、師匠のツテだったからかそれなりに高い位だったんでな、少しは軍の内情にも明るい。成都の大規模な訓練に、精兵を数万人も動員するのは初だ。これは……特に意味もなく行うようなことではない。誰が裏で糸を引いているのかは不明だが、必然性がない訓練には、違和感が残るな」
「だとすれば……」
「詳しいことは分からねぇが、その黄皓という奴、少し気になるな。黄皓と夏侯覇の関係次第では、黄皓と手を結んだ夏侯覇が、間接的に陛下を操ろうとしている可能性も無視はできなくなる。例えば夏侯覇が、この蜀漢ですぐに権力を掌握できるように、録尚書事の排除を目的としているのだとしたら、排除陛下が訓練を許可した謎も、本当に陛下と黄皓が昵懇ならば……」
「録尚書事の暗殺のために、夏侯覇と黄皓が、訓練を強行しようとしているなんて……」
「ただの可能性だからな、決めつけるなよ弟弟子よ」
陳寿は、酒を呑む気がすっかり失せてしまい、全て兄弟子に譲って、そのまま気づいたら寝落ちしてしまっていた。少しでも体を休めさせようと、羅憲は弟弟子を起こすことはなく、一人で呑み干し、少し眠って、日が昇る前に家を出た。
陳寿が目覚めた時、そこにはもう羅憲の姿はなかった。本当はもっと話をしていたかったが、優秀な兄弟子は忙しいのだ。昔から、お腹いっぱいになるまで羅憲との楽しい時間を堪能することはできず、いつも、もっともっとという気持ちが残っていた。
「また会おう、令則。さて今日も、あの虎と戦いに行くか」
陳寿は小屋の中で陳寿と夏侯覇による三十一日目の問答を始めた。
「今日も寒いな夏侯覇よ。寒いと、つまらないことを考えてしまうなぁ」
「いかような考えを巡らせてしまうのか、聞かせてみよ」
「会いたい人と、もう会えないような気がしてしまう。近ければ近いほど、会えない辛さや寂しさが増すような気がするのだ」
「詩人か、そなた」
「詩人は嫌いだ。文や韻の美しさのために、平気で嘘を吐く連中だからなぁ」
「確かに詩は時折ならば癒しを与えてくれる。恵まれない向かい風の時こそ、かような者を人は必要とする。さりとて詩に囚われれば、却って生きることに躓いてしまうものだ。生きていくには強さが欠かせぬ。お前は冷静に分析する優れた頭を持っているゆえ……それを活かせ」
陳寿は、熱が籠る夏侯覇とは裏腹に、陳寿の目は虚ろであった。声もか細く、夏侯覇がつまらないと吐き捨ててしまうほど、覇気を失っていた。
「さっさと問いを始めろ、文官よ。先程から虚ろであるが、よもや寝ておらぬのか」
「その逆で、昨晩は悲しいほどに早く寝てしまった。気を取り直して、一つ目の問いだ。お前に会いたい人はいるか。何かしらの思惑とか、そういう算段みたいなのはなしで、ただ会うために会いたい人はいるか」
「いる。そして、もう会えぬ」
「それは父か。夏侯淵が恋しいか」
「父上ではない。父上はもう、心の中で整理がついている。恋しいというべきか否かさえも分からぬほどに、遠い御方だ」
「ならば二つ目だ」
「これからする問いは四つ目だ。父上か、までが二つ目で、恋しいか、で三つ目だ。間違えるな」
「そうか、ならば四つ目だ。父よりも恋しい者がいるのか。私は、父陳式が嫌いだが、それでいて誰よりも恋しい」
「恋しいというべきかは、詩人ではないゆえ分からぬ。さりとて、父上よりも、会いたいと思える人はいる。そもそも父上は戦場で生き、戦場で名を上げた将軍だ。戦場で死するは本望であろう。私が会いたい人物は……戦場に生きながら、戦場で死ななかった男だ」
「五つ目、死因は病か」
「否。死因は……処刑である」
「六つ目、やらかしたのか」
「今思えば、ある意味ではそうかもしれない」
「七つ目、その者はお前の身内。まごうことなき魏人だな」
「左様。私よりもずっと、魏に尽くし、一族を愛した傑物であった」
陳寿は夏侯覇になにか今までとは異なる感触を覚えた。司馬懿を掘り下げようとしたり、なにか彼が意図しない問いを行ってしまった際の違和感でも、彼が意図した問いを行った際の分かりやすすぎる反応でもない、もっと心の奥底に触れたような感覚である。人の核に触れた時のような、誤魔化そうとしても誤魔化せず、黙ってしまうしかない、そんな反応があったのだ。きっとその人物は、夏侯覇の降伏という大きな決断に、この上なく大きな影響を与えた人物であろう。父夏侯淵以上に影響を及ぼす人間がいるとは──その人物について、知らなくてはならないと陳寿は強く確信した。
そんな矢先であった。夜、陳寿の帰宅に合わせて酒を買ってきた同僚の李密が、軒先で倒れる陳寿を見つけたのは。
「承祚! おい承祚しっかりしろ!」
李密はまっさきに思った。夏侯覇との問いの遊びに敗れたのか──。李密は、ほとばしる冷や汗を省みることなく、ただひたすらに陳寿の名を叫び続けた。




