第十三話
小屋での問いは、陳寿が夢解きでつまづいたことで、なかなか前へ進まなかった。一日、また一日と消費し、気がつけば問いを初めて三十日が経過していた。
「お前が夢に見た、成都の山崩れの部分に関して、意味が分からない」
「されば、成都とは異なる解釈なのではないか文官よ。再度よく考えてみよ」
退屈なのか、ぶっきらぼうに吐きすてる夏侯覇を見ていると、こうしてうだうだと解釈を正そうという行為そのものが間違いである気がした。夢解きは夢解きに非ず、創作夢を用いて夏侯覇の意図を当てる遊びであると、確信できる態度ではないか。そうであればなおのこと、山崩れの意味が分からなくなる。山崩れに該当するほどの何かが、この成都で起こるのかもしれないが、それが分からずまた堂々巡りである。
夏侯覇を退屈させれば、この首が危ういことを、陳寿は忘れていない。であれば、分からないことは分からないままにして、陳寿は夢解きに関わるような尋ね方で、夏侯覇自身を掘りさげるべきだと思い至った。
「今日の一つ目だ。お前は山崩れに遭ったことがあるか」
「それはないが、私が居た魏の西方は小さな地震が多い地域であったことに加え、洛陽でも地震が起きたことがある。いずれも小さく、大きな被害はなかった。いやはや、天変地異の意味を読み解くのは夢解き同様難しいものだ」
天変地異とはいつも、君主や大人物、国の変事を天下に知らしめる天の意思とされる。諸葛亮が司馬懿と相対する中で五丈原にて陣没した折りは、巨大な流れ星が落ちたのだという。
つまりは、蜀漢を揺るがすほどの変事が起こるという意味なのだろうか。だが冷静に考えれば、その変事とはこの夏侯覇以外に考えられないし、その上で何かが起こるならば、それはこの夏侯覇による企みであろうと想像できる。
「二つ目だ。五丈原にて流れ星が落ち、丞相が亡くなられた時、蜀漢の者は皆、その死は天をも嘆き悲しむほどの衝撃であったのだと読み解き、皆涙に暮れた。魏ではどうだったのだ」
「その頃、諸葛亮と対陣していたのは司馬懿だ。司馬懿は好敵手を失い一人嘆いたと聞いたが、それは魏への不忠であると私には思えた。そして司馬懿は五丈原から撤退した蜀軍を追撃するも、諸葛亮の木造を見て、諸葛亮が生きていると誤解し、まんまと撤退した。魏ではその出来事から司馬懿を笑う方に目が行き、流れ星など、眼中になかった」
夏侯覇は司馬懿の撤退の出来事を「死せる孔明、生ける仲達を走らす」とまとめた。魏では誰もが知る話で、司馬懿はこの出来事で世間から嘲笑の的となったようだ。今や戦場に現れることはないが、それは単に老齢を理由に隠居したことが理由だったのだろうか。陳寿は、夏侯覇が司馬懿を呼びすてしていることが気になった。諸葛亮を呼びすてにするのは、敵国の人間として当然であろうが、司馬懿を呼びすてにするのは違和感を覚えてしまう。
「二つ目だ、お前は以前も司馬懿をどこかで受け入れていないような態度を取っていたな。奴は魏人だった、という言い方をしていた。以前も司馬懿について深堀しようと思ったことがあったが、お前は夢解きに誘導するばかりで、あまり触れてほしくないように見受けられた。だが俺はやはり、知らなくてはならないという衝動に駆られている。司馬懿は……その後、魏ではどんな扱いを受けているのか教えてくれ」
「名誉挽回をし、魏最高の重鎮という扱いだ。皇帝陛下の太傅、つまりは幼い皇帝陛下の教育係におなりあそばされた」
今まで、夏侯覇が意図する問いをしたとき、必ず彼は喜ぶような、嬉しそうな反応をしていた。しかし司馬懿を掘りさげても、彼の顔は曇ったままであった。やはり、司馬懿は意図しない問いなのだろうか。
「三つ目、司馬懿の息子たちの名前がこの蜀漢には聞こえてこないが、息子はいないのか」
その問いに初めて、彼は狼狽えた。笑うことや退屈そうに不貞腐れる彼は今まで飽きるほどに見てきた。しかし、動きが止まり、一瞬、目に殺気が宿る瞬間を見たのは、これが初めてであった。
「四つ目、司馬懿の息子の名前は、なんだ」
「司馬師、字は子元だ」
「五つ目、念の為聞くが、お前司馬師が嫌いだろ」
「なに笑ってやがる文官。……あぁ嫌いだ」
「六つ目、司馬師の色は、黒いか」
「どちらかといえば、白い。片目もな」
「七つ目、どういう意味だ」
「奴は……隻眼だ。病で、戦の最中に飛び出たのだと耳にした。まぁ……私には関係なきことだが」
黒い馬を司馬師であると考えたが、どうやら見当違いであったようだ。どうにもこうにも、時間ばかりが過ぎて、上手く進まない。黒い馬、山崩れとはなんだ。どういう意味なのだ。陳寿はもどかしさといら立ちから、大きな音を立てながら扉を開け放ち、小屋を飛びだした。言葉にならない言葉を叫び、怒りのままに周囲のものに当たった。不当な役目と、殺気に満ちた目で思い出した死への恐怖から、夏侯覇に対する怒りがとめどなく溢れたのだ。
「なんで! この俺なんだ!」
ひとしきり叫んで、暴れて、疲れて倒れこんだ。こんなものでも、父や師匠が受けた罰や世間からの軽蔑に比べれば、安いものなのかもしれない。自分は特別な才能も志もなく、相手は抗いがたい大軍でも、学問の探求を理解しない無学な民草でもない。話をし、自分を答えへと誘導しながら、百日という長い時間をかけて自分を試しているだけの男である。
その百日を終えれば、あるいはつまらない問いを続けてしまえば、きっと殺されるだろう。それは確かに理不尽かもしれないが、世間には更なる理不尽が溢れているではないか。陳寿は心とは裏腹に晴れ渡った空を眺めながら、こうして空を眺められる自分は恵まれていることを実感していた。この頃、国の穀物庫を襲ったり、納税を拒んで捕らわれた民草の裁判の記録を目にした。それは偶然的なもので、税収の管理のため記録書類を閲覧する中で、その税収が減っている理由を調べる機会があったのだ。食うものがなくとも、納税の義務は待ってくれず、その上賊に村を襲われてしまい食べるものがない者は、一か八か国の穀物庫を襲っても仕方がないではないか。北伐の兵役に働き盛りの子供をやって、収穫が少なくなったとしても納税の義務はなくならない。老人や幼子が、生きるために納税を拒んだだけなのに、罰として檻に入れたところで、何の得があるのか。出征の必要がなく男手があれば、家族や村は自立できる。北伐など、国の志に過ぎないではないか。人々はただ、生きていたいだけなのに、それを国に阻害されているのだ。
そんな不条理がまかり通っていると知れば、こんなことに苛立ち、嘆いている自分が情けなくて仕方がなかった。
夜、この日はさすがに眠れず、酒に頼ることにした。最後に酒を呑んだ時は師匠譙周が居て、楽しい夜となった。今日ばかりは一人で呑むしかない。余計に心が荒みそうな気もしたが、呑まないまま眠れそうには思えなかった。
甕から盃へ酒を注いだ時、戸を叩く者がいた。戸を開けるとそこには、懐かしい友人が居た。
「令則、久しぶりだないつ成都に戻ったんだ……!」
「よう承祚、酒でもの呑もうではないか」
「共に呑むのは初めてだな、令則!」
友人の名前は羅憲、字は令則。師匠を同じくする友でありながら、年は十歳も上であり、譙周の弟子の中で特に優秀であり、すでに宣信校尉という外交官の任に就き、成果を出していた。三国の中で最も弱小の国である蜀漢が、一度は大戦を行った呉に攻め滅ぼされていないのは、羅憲のような外交官の努力の結果であり、若手の文官の中で特に期待をかけられる逸材であった。
「今は国境に居るんじゃなかったのか、令則?」
「そうだったんだが……今日成都に帰還したんだ。少し訳ありでな」
「夏侯覇の件か……?」
「いや……それはまだ分からない。今日帰ってきたばかりで、まだ俺を呼び戻した録尚書事にお会いしていないんだ。夏侯覇との件はすでに街の噂で聞いた。大変なようだな」
「俺なんか……大変じゃないさ。所詮は、小屋の中で男と話しているだけに過ぎないからな」
「大人になったな。今日お前のもとを訪ねたのは、旧恩を温めたいからというだけではない。話しておこうと思うことがあってな」
そういって屋内に入った羅憲は、周囲を念入りに確認した上で戸を閉めた。その反応に、陳寿はものものしさを感じざるを得なかった。




